夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工の槌の音がいつの間にか消えると、青白い河靄がうっすり漂う。 「私たちは一度心中の相談をしたことがあったのさ。なにしろ舷一つ跨げば事が済むことなのだから、ちょっと危かった」 「どうしてそれを思い止ったのか」と柚木はせまい船のなかをのしのし歩きながら訊いた。 「いつ死のうかと逢う度毎に相談しながら、のびのびになっているうちに、ある日川の向うに心中態の土左衛門が流れて来たのだよ。人だかりの間から熟々眺めて来て男は云ったのさ。心中ってものも、あれはざまの悪いものだ。やめようって」 「あたしは死んでしまったら、この男にはよかろうが、あとに残る旦那が可哀想だという気がして来てね。どんな身の毛のよだつような男にしろ、嫉妬をあれほど妬かれるとあとに心が残るものさ」 若い芸妓たちは「姐さんの時代ののんきな話を聴いていると、私たちきょう日の働き方が熟々がつがつにおもえて、いやんなっちゃう」と云った。 すると老妓は「いや、そうでないねえ」と手を振った。「この頃はこの頃でいいところがあるよ。それにこの頃は何でも話が手取り早くて、まるで電気のようでさ、そしていろいろの手があって面白いじゃないか」 そういう言葉に執成されたあとで、年下の芸妓を主に年上の芸妓が介添になって、頻りに艶めかしく柚木を取持った。 みち子はというと何か非常に動揺させられているように見えた。 はじめは軽蔑した超然とした態度で、一人離れて、携帯のライカで景色など撮していたが、にわかに柚木に慣れ慣れしくして、柚木の歓心を得ることにかけて、芸妓たちに勝越そうとする態度を露骨に見せたりした。 そういう場合、未成熟の娘の心身から、利かん気を僅かに絞り出す、病鶏のささ身ほどの肉感的な匂いが、柚木には妙に感覚にこたえて、思わず肺の底へ息を吸わした。だが、それは刹那的のものだった。心に打ち込むものはなかった。 若い芸妓たちは、娘の挑戦を快くは思わなかったらしいが、大姐さんの養女のことではあり、自分達は職業的に来ているのだから、無理な骨折りを避けて、娘が努めるときは媚びを差控え、娘の手が緩むと、またサービスする。みち子にはそれが自分の菓子の上にたかる蠅のようにうるさかった。 何となくその不満の気持ちを晴らすらしく、みち子は老妓に当ったりした。 老妓はすべてを大して気にかけず、悠々と土手でカナリヤの餌のはこべを摘んだり菖蒲園できぬかつぎを肴にビールを飲んだりした。 夕暮になって、一行が水神の八百松へ晩餐をとりに入ろうとすると、みち子は、柚木をじろりと眺めて 「あたし、和食のごはんたくさん、一人で家に帰る」と云い出した。芸妓たちが驚いて、では送ろうというと、老妓は笑って 「自動車に乗せてやれば、何でもないよ」といって通りがかりの車を呼び止めた。 自動車の後姿を見て老妓は云った。 「あの子も、おつな真似をすることを、ちょんぼり覚えたね」
柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この界隈に噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕というそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。 何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。柚木は近頃工房へは少しも入らず、発明の工夫も断念した形になっている。そして、そのことを老妓はとくに知っている癖に、それに就いては一言も云わないだけに、いよいよパトロンの目的が疑われて来た。縁側に向いている硝子窓から、工房の中が見えるのを、なるべく眼を外らして、縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、池を埋めた渚の残り石から、いちはつやつつじの花が虻を呼んでいる。空は凝って青く澄み、大陸のような雲が少し雨気で色を濁しながらゆるゆる移って行く。隣の乾物の陰に桐の花が咲いている。 柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の黴臭い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、主婦や女中に昼の煮物を分けて貰って弁当を使ったことや、その頃は嫌だった事が今ではむしろなつかしく想い出される。蒔田の狭い二階で、注文先からの設計の予算表を造っていると、子供が代る代る来て、頸筋が赤く腫れるほど取りついた。小さい口から嘗めかけの飴玉を取出して、涎の糸をひいたまま自分の口に押し込んだりした。 彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考え始めたりした。ふと、みち子のことが頭に上った。老妓は高いところから何も知らない顔をして、鷹揚に見ているが、実は出来ることなら自分をみち子の婿にでもして、ゆくゆく老後の面倒でも見て貰おうとの腹であるのかも知れない。だがまたそうとばかり判断も仕切れない。あの気嵩な老妓がそんなしみったれた計画で、ひとに好意をするのではないことも判る。 みち子を考える時、形式だけは十二分に整っていて、中身は実が入らずじまいになった娘、柚木はみなし茹で栗の水っぽくぺちゃぺちゃな中身を聯想して苦笑したが、この頃みち子が自分に憎みのようなものや、反感を持ちながら、妙に粘って来る態度が心にとまった。 彼女のこの頃の来方は気紛れでなく、一日か二日置き位な定期的なものになった。 みち子は裏口から入って来た。彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切って拵えてある十二畳の客座敷との襖を開けると、そこの敷居の上に立った。片手を柱に凭せ体を少し捻って嬌態を見せ、片手を拡げた袖の下に入れて、写真を撮るときのようなポーズを作った。俯向き加減に眼を不機嫌らしく額越しに覗かして 「あたし来てよ」と云った。 縁側に寝ている柚木はただ「うん」と云っただけだった。 みち子はもう一度同じことを云って見たが、同じような返事だったので、本当に腹を立て 「何て不精たらしい返事なんだろう、もう二度と来てやらないから」と云った。 「仕様のない我儘娘だな」と云って、柚木は上体を起上らせつつ、足を胡座に組みながら 「ほほう、今日は日本髪か」とじろじろ眺めた。 「知らない」といって、みち子はくるりと後向きになって着物の背筋に拗ねた線を作った。柚木は、華やかな帯の結び目の上はすぐ、突襟のうしろ口になり、頸の附根を真っ白く富士山形に覗かせて誇張した媚態を示す物々しさに較べて、帯の下の腰つきから裾は、一本花のように急に削げていて味もそっけもない少女のままなのを異様に眺めながら、この娘が自分の妻になって、何事も自分に気を許し、何事も自分に頼りながら、小うるさく世話を焼く間柄になった場合を想像した。それでは自分の一生も案外小ぢんまりした平凡に規定されてしまう寂寞の感じはあったが、しかし、また何かそうなってみての上のことでなければ判らない不明な珍らしい未来の想像が、現在の自分の心情を牽きつけた。 柚木は額を小さく見せるまでたわわに前髪や鬢を張り出した中に整い過ぎたほど型通りの美しい娘に化粧したみち子の小さい顔に、もっと自分を夢中にさせる魅力を見出したくなった。 「もう一ぺんこっちを向いてご覧よ、とても似合うから」 みち子は右肩を一つ揺ったが、すぐくるりと向き直って、ちょっと手を胸と鬢へやって掻い繕った。「うるさいのね、さあ、これでいいの」彼女は柚木が本気に自分を見入っているのに満足しながら、薬玉の簪の垂れをピラピラさせて云った。 「ご馳走を持って来てやったのよ。当ててご覧なさい」 柚木はこんな小娘に嬲られる甘さが自分に見透かされたのかと、心外に思いながら 「当てるの面倒臭い。持って来たのなら、早く出し給え」と云った。 みち子は柚木の権柄ずくにたちまち反抗心を起して「人が親切に持って来てやったのを、そんなに威張るのなら、もうやらないわよ」と横向きになった。 「出せ」と云って柚木は立上った。彼は自分でも、自分が今、しかかる素振りに驚きつつ、彼は権威者のように「出せと云ったら、出さないか」と体を嵩張らせて、のそのそとみち子に向って行った。 自分の一生を小さい陥穽に嵌め込んでしまう危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切ったものへ好んで身を挺して行く絶体絶命の気持ちとが、生れて始めての極度の緊張感を彼から抽き出した。自己嫌悪に打負かされまいと思って、彼の額から脂汗がたらたらと流れた。 みち子はその行動をまだ彼の冗談半分の権柄ずくの続きかと思って、ふざけて軽蔑するように眺めていたが、だいぶ模様が違うので途中から急に恐ろしくなった。 彼女はやや茶の間の方へ退りながら 「誰が出すもんか」と小さく呟いていたが、柚木が彼女の眼を火の出るように見詰めながら、徐々に懐中から一つずつ手を出して彼女の肩にかけると、恐怖のあまり「あっ」と二度ほど小さく叫び、彼女の何の修装もない生地の顔が感情を露出して、眼鼻や口がばらばらに配置された。「出し給え」「早く出せ」その言葉の意味は空虚で、柚木の腕から太い戦慄が伝って来た。柚木の大きい咽喉仏がゆっくり生唾を飲むのが感じられた。 彼女は眼を裂けるように見開いて「ご免なさい」と泣声になって云ったが、柚木はまるで感電者のように、顔を痴呆にして、鈍く蒼ざめ、眼をもとのように据えたままただ戦慄だけをいよいよ激しく両手からみち子の体に伝えていた。 みち子はついに何ものかを柚木から読み取った。普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。 立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。 彼女はばらばらになった顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌したたるような媚びの笑顔に造り直した。 「ばか、そんなにしないだって、ご馳走あげるわよ」 柚木の額の汗を掌でしゅっと払い捨ててやり 「こっちにあるから、いらっしゃいよ。さあね」
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