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老妓抄(ろうぎしょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:18:00 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「そりゃそうさ。母親が早く亡くなっちゃったから、あかんぼのうちから襁褓おむつを自分で洗濯して、自分で当てがった」
 老妓は「まさか」と笑ったが、悲しい顔付きになって、こう云った。
「でも、男があんまり細かいことに気のつくのは偉くなれない性分じゃないのかい」
「僕だって、根からこんな性分でもなさそうだが、自然と慣らされてしまったのだね。ちっとでも自分にだらしがないところが眼につくと、自分で不安なのだ」
「何だか知らないが、欲しいものがあったら、遠慮なくいくらでもそうお云いよ」
 初午はつうまの日には稲荷鮨いなりずしなど取寄せて、母子のようなくつろぎ方で食べたりした。
 養女のみち子の方は気紛れであった。来はじめると毎日のように来て、柚木を遊び相手にしようとした。小さい時分から情事を商品のように取扱いつけているこの社会に育って、いくら養母が遮断しゃだんしたつもりでも、商品的の情事が心情にみないわけはなかった。早くからマセて仕舞って、しかも、それを形式だけに覚えてしまった。青春などは素通りしてしまって、心はこどものまま固って、その上皮にほんの一重大人の分別がついてしまった。柚木は遊び事には気が乗らなかった。興味が弾まないままみち子は来るのが途絶えて、久しくしてからまたのっそりと来る。自分の家で世話をしている人間に若い男が一人いる、遊びに行かなくちゃ損だというくらいの気持ちだった。老母が縁もゆかりもない人間を拾って来て、不服らしいところもあった。
 みち子は柚木の膝の上へ無造作に腰をかけた。様式だけは完全な流眄ながしめをして
「どのくらい目方があるかを量ってみてよ」
 柚木は二三度膝を上げ下げしたが
「結婚適齢期にしちゃあ、情操のカンカンが足りないね」
「そんなことはなくってよ、学校で操行点はAだったわよ」
 みち子は柚木のいう情操という言葉の意味をわざと違えて取ったのか、本当に取り違えたものか――
 柚木は衣服の上から娘の体格を探って行った。それは栄養不良の子供が一人前の女の嬌態きょうたいをする正体を発見したような、おかしみがあったので、彼はつい失笑した。
「ずいぶん失礼ね」
「どうせあなたは偉いのよ」みち子は怒って立上った。
「まあ、せいぜい運動でもして、おっかさん位な体格になるんだね」
 みち子はそれ以後何故とも知らず、しきりに柚木ににくしみを持った。

 半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触ていしょくを避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。発明にはスペキュレーションを伴うということも、柚木は兼ね兼ね承知していることではあったが、その運びがこれほど思いどおり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだった。
 しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだがその通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へれていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ屡々しばしば起った。
 金儲けということについても疑問が起った。この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。その上その位な費用なら、そう云えば老妓は快くくれた。そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。柚木は二三度職業仲間に誘われて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買いもの以上に求める気は起らず、それより、早く気儘きままの出来る自分の家へ帰って、のびのびと自分の好みの床に寝たい気がしきりに起った。彼は遊びに行っても外泊は一度もしなかった。彼は寝具だけは身分不相応のものを作っていて、羽根蒲団など、自分で鳥屋から羽根を買って来て器用にこしらえていた。
 いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されてしまった自分を発見して柚木は心寒くなった。
 これは、自分等の年頃の青年にしては変態になったのではないかしらんとも考えた。
 それに引きかえ、あの老妓は何という女だろう。憂鬱な顔をしながら、根に判らないたくましいものがあって、稽古ごと一つだって、次から次へと、未知のものをむさぼり食って行こうとしている。常に満足と不満がかわる交る彼女を押し進めている。
 小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことからく話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立者の女優で、ミスタンゲットというのがあるがね」
「ああそんなら知ってるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」
「あのお婆さんは体中のしわを足の裏へ、くくって溜めているという評判だが、あんたなんかまだその必要はなさそうだなあ」
 老妓の眼はぎろりと光ったが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数もえたから、前のようには行くまいが、まあ試しに」といって、老妓は左の腕の袖口を捲って柚木の前に突き出した。
「あんたがだね。ここの腕の皮を親指と人差指で力一ぱいつねっておさえててご覧」
 柚木はいう通りにしてみた。柚木にそうさせて置いてから、老妓はその反対側の腕の皮膚を自分の右の二本の指で抓って引くと、柚木の指にはさまっていた皮膚はじいわり滑り抜けて、もとの腕の形に納まるのである。もう一度柚木は力をめて試してみたが、老妓にひかれると滑り去って抓り止めていられなかった。うなぎの腹のようなつよい滑かさと、羊皮紙のような神秘な白い色とが、柚木の感覚にいつまでも残った。
「気持ちの悪い……。だが驚いたなあ」
 老妓は腕に指痕の血の気がさしたのを、縮緬ちりめん襦袢じゅばんの袖でこすり散らしてから、腕を納めていった。
「小さいときから、打ったりたたかれたりして踊りで鍛えられたお蔭だよ」
 だが、彼女はその幼年時代の苦労を思い起して、暗澹あんたんとした顔つきになった。
「おまえさんは、この頃、どうかおしかえ」
 と老妓はしばらく柚木をじろじろ見ながらいった。
「いいえさ、勉強しろとか、早く成功しろとか、そんなことをいうんじゃないよ。まあ、魚にしたら、いきが悪くなったように思えるんだが、どうかね。自分のことだけだって考えあまっている筈の若い年頃の男が、年寄の女に向って年齢のことを気遣うのなども、もう皮肉に気持ちがこずんで来た証拠だね」
 柚木は洞察の鋭さに舌を巻きながら、正直に白状した。
「駄目だな、僕は、何も世の中にいろ気がなくなったよ。いや、ひょっとしたら始めからない生れつきだったかも知れない」
「そんなこともなかろうが、しかし、もしそうだったら困ったものだね。君は見違えるほど体など肥って来たようだがね」
 事実、柚木はもとよりいい体格の青年が、ふーっとふくれるように脂肪がついて、坊ちゃんらしくなり、茶色の瞳の眼の上瞼うわまぶたれ具合や、あごが二重にくびれて来たところにつやめいたいろさえつけていた。
「うん、体はとてもいい状態で、ただこうやっているだけで、とろとろしたいい気持ちで、よっぽど気を張り詰めていないと、気にかけなくちゃならないことも直ぐ忘れているんだ。それだけ、また、ふだん、いつも不安なのだよ。生れてこんなこと始めてだ」
「麦とろの食べ過ぎかね」老妓は柚木がよく近所の麦飯ととろろを看板にしている店から、それを取寄せて食べるのを知っているものだから、こうまぜっかえしたが、すぐ真面目になり「そんなときは、何でもいいから苦労の種を見付けるんだね。苦労もほどほどの分量にゃ持ち合せているもんだよ」

 それから二三日経って、老妓は柚木を外出に誘った。連れにはみち子と老妓の家の抱えでない柚木の見知らぬ若い芸妓が二人いた。若い芸妓たちは、ちょっとした盛装をしていて、老妓に
「姐さん、今日はありがとう」と丁寧に礼を云った。
 老妓は柚木に
「今日は君の退屈の慰労会をするつもりで、これ等の芸妓たちにも、ちゃんと遠出の費用を払ってあるのだ」と云った。「だから、君は旦那になったつもりで、遠慮なく愉快をすればいい」
 なるほど、二人の若い芸妓たちは、よく働いた。竹屋の渡しを渡船に乗るときには年下の方が柚木に「おにいさん、ちょっと手を取って下さいな」と云った。そして船の中へ移るとき、わざとよろけて柚木の背を抱えるようにしてつかまった。柚木の鼻に香油の匂いがして、胸の前に後えりの赤い裏から肥った白い首がむっくり抜き出て、ぼんのくぼの髪の生え際が、青く霞めるところまで、突きつけたように見せた。顔は少し横向きになっていたので、厚く白粉おしろいをつけて、白いエナメルほど照りを持つ頬から中高の鼻が彫刻のようにはっきり見えた。
 老妓は船の中の仕切りに腰かけていて、帯の間から煙草入れとライターを取出しかけながら
「いい景色だね」と云った。
 円タクに乗ったり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻った。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしのかねふちや、綾瀬あやせの面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。綾瀬川の名物の合歓ねむの木は少しばかり残り、対岸の蘆洲あしずの上に船大工だけ今もいた。
「あたしが向島の寮に囲われていた時分、旦那がとても嫉妬家やきもちやきでね、この界隈かいわいから外へは決して出してくれない。それであたしはこの辺を散歩すると云って寮を出るし、男はまた鯉釣りに化けて、この土手下の合歓の並木の陰に船をもやって、そこでいまいうランデブウをしたものさね」

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