青年は牧瀬と云つた。その夜から牧瀬の庭を知り、その池の周囲の饗宴を知つた。それは淡々とした味を持ちつゝ何となく気がかりの魅惑があつて、あとを引いた。 翌朝兄に話すと、兄は、 「牧瀬が帰朝してると聞いたが、やつぱりさうかい。うん、あの男は後輩の中でも天才的な特長があるらしいけど、多少変りものなのだ、根は君子人だ。さうなあ、交際つて別に毒になるほどのこともないが、利益にもならんね。」 といふ観方で、強ひてかの女を阻みもしなかつた。 歳子は知らず/\二十日ばかりの間に、間を置いて七八夜も牧瀬の庭に遊びに行つたが、もう婚約の良人の家へ帰る期日も近づいたので、いよ/\今夜もう一晩ぐらゐの交際だと思つて、茨の垣の門内に入つた。 「今夜あたりはあなたが来さうな晩だと思ひましたよ。月の出が最初お目にかゝつた晩と同じですからね。」 牧瀬は歳子を迎へるなり直ぐかう云つた。 周りは小さい丘や築山の名残りをとゞめた高みになつてゐて、相当な庭園だつた証拠には、楓とか百日紅とかいふ観賞樹の木の太さに、庭師の躾けが残つた枝振りで察しられた。歳子の兄の家の屋上庭園から春は雲のやうに眺められるその桜の木も、庭の中にあつて近づいて見るとみな老樹だつた。中央の池泉は水が浅くなり、渚は壊れて自然の浅茅生となり、そこに河骨とか沢瀉とかいふ細身の沢の草花が混つてゐた。 石橋の架つてゐる中の島の枯松を越して、奥座敷に電燈が煌々とついてゐた。座敷の中には美術品らしいものが一ぱいに詰つてゐるのが見えた。だが最初の夜から歳子を一番驚かしたのは、一面茫々と生えてゐる夏草だつた。野菊もあれば箒草もあるが、兎に角、庭全体を圧倒して草の海原の感じだつた。 なるべくクローヴアーの厚く生え重つた渚の水気の切れた辺に席を取つて、牧瀬と歳子はもう二三十分も神経を解放し、たゞ黙つて夏の夜の醸す濃厚で爽かで多少腕白なところもある雰囲気に浸つてゐた。蛙が低く鳴いて、月は息を吐きかけた程の潤みを持つてゐた。 「あゝいゝ気持ち」 歳子は喰べても喰べてもうまくだけあつて、少しも腹に溜まらない飲食物に味ひ耽るやうについさう云つた。 「まだ、少女のときのやうに眠くなりませんかね。」 牧瀬は横にしてゐた体を悠々と立て直しながら、いくらか揶揄ひ気味に訊いた。七八夜の間に歳子は今までの生涯の体験やら感想やらを識らず知らず彼に話してゐた。 「眠くなつちやゐられないほどいゝ気持ちよ。それとも眼が覚めてゐて眠つてゐると同じやうな気持ちなのかも知れない。」 「うまいこと云ふ」と呟きながら笑つて牧瀬は、すこし歳子に躪り寄り、籐で荒く編んだ食物籠の中の食物と食器を掻き廻した。 「喉が渇きませんか。今夜はこれをあがつてご覧なさい。おいしいですよ。」 牧瀬は月にきら/\光らせながら魔法罎からコツプへ液汁をなみ/\と注いだ。 歳子がそのコツプを月にさしつけて、透してゐると、牧瀬は「水晶石榴のシロツプです。シロツプでは上品な部ですね。」と云つた。 それから彼は不器用にパパイヤを切つて小皿に載せ、レモンを絞つてかけてから、匙と一緒に差出した。藐姑射山に住むといふ神女の飲みさうな冷たく幽邃な匂ひのするコツプの液汁を飲み、情熱の甘さを植物性にしたやうな果肉を掬つて喰べてゐると、歳子はこころがいよ/\楽しくなつた。蚤の喰つたあとほどの人恋しさの物憎い痒みが、ぽちりと心の面に浮いた。牧瀬のスポーツシヤツの体からは、半人半獣のやうな健やかな感触が夜気に伝つて来た。 森から射上げられるやうな鳥の影が見えて、「きや/\」といふ鳴声がした。梟に脅かされた五位鷺だと牧瀬はいつた。歳子の襲はれさうになる恋愛的な気持ちを防ぐ本能が、かの女にぶる/\と身慄ひをさして、その気持ちを振り落さした。 東京の中にこんな山の窪地のやうに思はれるところがあるとは、歳子は牧瀬に誘はれて、この庭へ来るまで想像しても見なかつた。ここは三四代前からの牧瀬の邸で、隣接する歳子の兄の家の敷地も昔はこの邸内になつてゐた。昔この辺は全く江戸の田舎で、狐や狸が棲み、この池の排け口へは渋谷川から水鶏が上つた程だつた。 牧瀬はまるで他人ごとのやうに歳子にさういふ話をした。歳子は一体この青年が夜な夜な断片的に語る自分の経歴やら、生活やらがまるで他人ごとのやうに淡々と話されるだけ、却つて印象が明確なのに気付いて不思議に思つてゐた。 牧瀬の断片的の話を綜合してみるとかうであつた。彼は建築史の研究を近代からだん/\原始へ遡つて行つた。建築を通して見た古い昔の民族の素朴な魂と単純な感情に、極めて雄渾で溌溂とした生命が溢れてゐるのに、彼は精神を虜にされてしまつた。しかし、歳子の観察によると、彼は趣味の高さから来る近代文化に対する自虐的な反抗と、複雑濃厚なあらゆるものに飽き果てゝ素朴なものゝ愛に引き返した一種洗練された健気にも寂しい個性が感じられた。いはゞ世紀末的な敗頽の底を潜つて、何か清新なものを掴まうと漁つてゐる、老と若さと矛盾してゐる人間に見えた。彼はまだ、その目的の精神的なものは掴まないにしろ、肉体の健康と情操の高さだけは感じられた。これは彼から取り除けやうにも取り除けられない彼の二次的性格になつてゐた。 どういふわけか、今夜の彼からは淡々とした話振りの底に熱い情熱が間歇的に迸つて、動揺し勝ちの歳子をしば/\動揺さした。そして彼は頻りに恋愛の話をしたがつた。昔語りでも嘘でもロマンスの性質を帯びれば、それがすべて現実に思へるやうな水色の月が冴えた真夜中になりかけてゐた。彼は恋愛を愛するが、しかし情熱の表現の仕方については、かういふ風変りなことを云つた。 「――肉体も精神も感覚を通して溶け合つて、死のやうな強い力で恍惚の三昧に牽き入れられるあの生物の習性に従ふ性の祭壇に上つて、まる/\情慾の犠牲になることも悪くはありませんが――しかし、ちよつと気を外らしてみるときに、なんだか醜い努力のやうな気がします。しかも刹那に人間の魂の無限性を消散してしまつて、生の余韻を失くしてしまつたやうな惜しい気持ちがしますね。 僕はそれよりも健康で精力に弾ち切れさうな肉体を二つ野の上に並べて、枝の鳥のやうに口笛を吹きかはすだけで、充分愛の世界に安住出来るほど徹底して理解し合つた男性と女性とでありたく思ふのです。」 微風が草の露を払ふ。気流の循環する加減か遠い百合の畑からの匂ひに混つて、燻臭いにほひがする。歳子が気にすると、それは近所の町の湯屋が夜陰に乗じて煙突の掃除をしてゐるのだと牧瀬はいつた。その埃の加減か、または夜気で冷えた加減か池の面には薄く銀灰色の靄が立て籠めて来て、この濃淡の渦巻は眺める人に幻を突きつけて、記憶に潜在するあらゆる情緒を語れ/\と誘ふやうに見える。牧瀬はしばらくたゆたつてゐたが、靄の幻を見詰めながらたうとう語つた。 「むかしの牧神と仙女はそんな無駄なあがきを彼等の間柄の仲では一切しませんでした。彼等は愛があるうちは愛の完全透徹した力を信じてゐた。二人は子供のやうに遊び狂ひながら絶対に心は恋愛に充されてゐた。随分性質の悪い悪戯をし合つて怒つたり、苛めたりし合つても、愛の揺ぎを感じなかつた。星の摂理を信じ、互ひの性質の自然を尊敬し合つてゐるものには、疑ひだの不平といふものを挟む必要がなかつた。さういふものを挟む必要が来た時は、もうその星の司る運命は終つたので、彼等は次の星の運命の支配の下に引取られてゐるのだつた。そこでまた彼等は彼等の生命を一ぱいに張り切つた次の生活が始められる。 僅か七八夜の僅かな話のうちに僕は判りました。あなたは愛だの好意だのに対して素直で無条件に受容れられさうな理想家風の女性らしいですね。僕の直観に従へば、あなたは僕の考へてゐる恋愛論に共鳴が出来る方らしいですね。 この夏の七八夜あなたとここで話したメモリーは僕の一生のうちの最も好いメモリーになりさうです。こんなこと云つて失礼だつたら許して下さい。あなたは静間君と結婚なさつても僕はあなたの特異性を貰つたやうな気がします」 「私の特異性つてものがございませうか。」 「あなたの特異性を強調していふなら、あなたは純潔な処女のまゝ受胎せよといつたら、その気になる方らしいですかな……はははは……。」 「…………。」 突然牧瀬はつか/\立つて行つて、今までの話題に関せぬやうな、またその続きのやうにも、池の渚に祈る人のやうに跪いた。そして歳子をも促してさうさせた。澄む水に二人の顔が写つた。暁まへの水の面は磨きたての銅鏡のやうにこつくり澱んで照度に厚味があつた。 いつの時代、どこの人間とも判らない若い男女の顔が水底から浮び出た。 しばらく見詰めてゐた牧瀬は云つた。 「やつぱり人間の男と女だ、はははは。」 歳子は襟元へ急に何かのけはひが忍び寄るものゝやうに感じたが、牧瀬に対してまた周囲の情勢に対して何の不安も湧かなかつた。 それよりもむしろ自分の一生のうち二度と来ない夢の世界の恍惚に浸つてゐるやうな渺茫とした気持ちだつた。 近くの森から飛び立つた小鳥が池の面を掠めて飛ぶと二人は同時に顔をあげた。 月は西に白けて、大空は黎明の気を見せて来た。そこに天地が口を開けたやうな一種いふべからざる神厳と空虚の面貌の寸時がある。 歳子は殆ど一晩語りに語り続けた青年の矛盾してゐるやうな、独断のやうな言葉を聞き明したが、決して退屈しなかつた。そして高踏極まる話をする青年の言葉の底に却つて切ない人間の至情を感じて、何か歎かずにはゐられない気持ちになつた。歳子は哀れな優しい溜息をした。 「たうとうあなたに溜息をさせてしまひましたね。それは僕ばかりのせゐぢやないのです。月のせゐでもあり、夏の夜のせゐでもありますよ。夜気に湿つた草の匂ひのせゐでもありますよ。でもよく幾夜も僕の夢遊病症につき合つて下さいましたね。これが最後の夜と思へばお名残り惜しいけれど、もう夜もぢきあけます。僕たちはもうお別れしなくちや……。平凡で常識な昼日中がやつて来ます。僕たちが折角夜中かかつて摘み蒐めた抒情の匂ひも高踏の花も散らされて仕舞ひます。」 そして彼はさう云つたあとはむつつりと無言で、丈の高い庭草を分けてのし/\と歩き出した。
結婚の前夜、歳子は良人に牧瀬の庭の夏の夜を話した。すると良人は例の思慮深さうに一考した後、眉を開いて云つた。 「美しい経験だ。『夏の夜の夢』と題して、あなたのメモリーに蔵つて置くといゝですね。そしてあなたのこころが結婚生活の常套に退屈したとき、とき/″\思ひ出してロマンチツクなそのメモリーを反芻しなさい。僕もとき/″\分けて貰ふ。」 歳子はこの時から良人の頭脳の明哲を愛しかけて来た。 間もなく歳子は牧瀬が中央亜細亜へ、決死的な古代建築の遺蹟の発掘に出発したといふ消息を兄から聞いた。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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