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夏の夜の夢(なつのよのゆめ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:01:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 青年は牧瀬と云つた。その夜から牧瀬の庭を知り、その池の周囲の饗宴きょうえんを知つた。それは淡々とした味を持ちつゝ何となく気がかりの魅惑があつて、あとを引いた。
 翌朝兄に話すと、兄は、
「牧瀬が帰朝してると聞いたが、やつぱりさうかい。うん、あの男は後輩の中でも天才的な特長があるらしいけど、多少変りものなのだ、根は君子人くんしじんだ。さうなあ、交際つて別に毒になるほどのこともないが、利益にもならんね。」
 といふ観方で、ひてかの女をはばみもしなかつた。
 歳子は知らず/\二十日ばかりの間に、間を置いて七八夜も牧瀬の庭に遊びに行つたが、もう婚約の良人おっとの家へ帰る期日も近づいたので、いよ/\今夜もう一晩ぐらゐの交際だと思つて、いばらの垣の門内に入つた。
「今夜あたりはあなたが来さうな晩だと思ひましたよ。月の出が最初お目にかゝつた晩と同じですからね。」
 牧瀬は歳子を迎へるなり直ぐかう云つた。
 周りは小さい丘や築山つきやまの名残りをとゞめた高みになつてゐて、相当な庭園だつた証拠には、かえでとか百日紅さるすべりとかいふ観賞樹の木の太さに、庭師のしつけが残つた枝振りで察しられた。歳子の兄の家の屋上庭園から春は雲のやうに眺められるその桜の木も、庭の中にあつて近づいて見るとみな老樹だつた。中央の池泉は水が浅くなり、なぎさは壊れて自然の浅茅生あさじうとなり、そこに河骨こうほねとか沢瀉おもだかとかいふ細身の沢の草花が混つてゐた。
 石橋のかかつてゐる中の島の枯松を越して、奥座敷に電燈が煌々こうこうとついてゐた。座敷の中には美術品らしいものが一ぱいに詰つてゐるのが見えた。だが最初の夜から歳子を一番驚かしたのは、一面茫々ぼうぼうと生えてゐる夏草だつた。野菊もあれば箒草ほうきぐさもあるが、かく、庭全体を圧倒して草の海原うなばらの感じだつた。
 なるべくクローヴアーの厚く生え重つたなぎさの水気の切れた辺に席を取つて、牧瀬と歳子はもう二三十分も神経を解放し、たゞ黙つて夏の夜のかもす濃厚でさわやかで多少腕白わんぱくなところもある雰囲気にひたつてゐた。かえるが低く鳴いて、月は息を吐きかけた程のうるみを持つてゐた。
「あゝいゝ気持ち」
 歳子は喰べても喰べてもうまくだけあつて、少しも腹に溜まらない飲食物にあじわふけるやうについさう云つた。
「まだ、少女のときのやうに眠くなりませんかね。」
 牧瀬は横にしてゐた体を悠々と立て直しながら、いくらか揶揄からかひ気味にいた。七八夜の間に歳子は今までの生涯の体験やら感想やらを識らず知らず彼に話してゐた。
「眠くなつちやゐられないほどいゝ気持ちよ。それとも眼が覚めてゐて眠つてゐると同じやうな気持ちなのかも知れない。」
「うまいこと云ふ」とつぶやきながら笑つて牧瀬は、すこし歳子ににじり寄り、とうで荒く編んだ食物かごの中の食物と食器をき廻した。
「喉が渇きませんか。今夜はこれをあがつてご覧なさい。おいしいですよ。」
 牧瀬は月にきら/\光らせながら魔法びんからコツプへ液汁をなみ/\と注いだ。
 歳子がそのコツプを月にさしつけて、すかしてゐると、牧瀬は「水晶石榴ざくろのシロツプです。シロツプでは上品な部ですね。」と云つた。
 それから彼は不器用にパパイヤを切つて小皿に載せ、レモンを絞つてかけてから、さじと一緒に差出した。藐姑射山はこやのやまに住むといふ神女しんにょの飲みさうな冷たく幽邃ゆうすいな匂ひのするコツプの液汁を飲み、情熱の甘さを植物性にしたやうな果肉をすくつて喰べてゐると、歳子はこころがいよ/\楽しくなつた。のみの喰つたあとほどの人恋しさの物憎いかゆみが、ぽちりと心の面に浮いた。牧瀬のスポーツシヤツの体からは、半人半獣のやうな健やかな感触が夜気に伝つて来た。
 森から射上げられるやうな鳥の影が見えて、「きや/\」といふ鳴声がした。ふくろうおどかされた五位鷺ごいさぎだと牧瀬はいつた。歳子の襲はれさうになる恋愛的な気持ちを防ぐ本能が、かの女にぶる/\と身慄みぶるひをさして、その気持ちを振り落さした。
 東京の中にこんな山の窪地くぼちのやうに思はれるところがあるとは、歳子は牧瀬に誘はれて、この庭へ来るまで想像しても見なかつた。ここは三四代前からの牧瀬のやしきで、隣接する歳子の兄の家の敷地も昔はこの邸内になつてゐた。昔この辺は全く江戸の田舎いなかで、きつねたぬきみ、この池のけ口へは渋谷川から水鶏くいなが上つた程だつた。
 牧瀬はまるで他人ごとのやうに歳子にさういふ話をした。歳子は一体この青年が夜な夜な断片的に語る自分の経歴やら、生活やらがまるで他人ごとのやうに淡々と話されるだけ、かえつて印象が明確なのに気付いて不思議に思つてゐた。
 牧瀬の断片的の話を綜合そうごうしてみるとかうであつた。彼は建築史の研究を近代からだん/\原始へさかのぼつて行つた。建築を通して見た古い昔の民族の素朴な魂と単純な感情に、極めて雄渾ゆうこん溌溂はつらつとした生命があふれてゐるのに、彼は精神をとりこにされてしまつた。しかし、歳子の観察によると、彼は趣味の高さから来る近代文化に対する自虐的な反抗と、複雑濃厚なあらゆるものに飽き果てゝ素朴なものゝ愛に引き返した一種洗練された健気けなげにも寂しい個性が感じられた。いはゞ世紀末的な敗頽はいたいの底を潜つて、何か清新なものをつかまうとあさつてゐる、おいと若さと矛盾むじゅんしてゐる人間に見えた。彼はまだ、その目的の精神的なものは掴まないにしろ、肉体の健康と情操の高さだけは感じられた。これは彼から取りけやうにも取り除けられない彼の二次的性格になつてゐた。
 どういふわけか、今夜の彼からは淡々とした話振りの底に熱い情熱が間歇かんけつ的にほとばしつて、動揺し勝ちの歳子をしば/\動揺さした。そして彼はしきりに恋愛の話をしたがつた。昔語りでも嘘でもロマンスの性質を帯びれば、それがすべて現実に思へるやうな水色の月がえた真夜中になりかけてゐた。彼は恋愛を愛するが、しかし情熱の表現の仕方については、かういふ風変りなことを云つた。
「――肉体も精神も感覚を通して溶け合つて、死のやうな強い力で恍惚こうこつ三昧さんまいき入れられるあの生物の習性に従ふ性の祭壇に上つて、まる/\情慾の犠牲になることも悪くはありませんが――しかし、ちよつと気をらしてみるときに、なんだか醜い努力のやうな気がします。しかも刹那せつなに人間の魂の無限性を消散してしまつて、生の余韻をくしてしまつたやうな惜しい気持ちがしますね。
 僕はそれよりも健康で精力にち切れさうな肉体を二つ野の上に並べて、枝の鳥のやうに口笛を吹きかはすだけで、充分愛の世界に安住出来るほど徹底して理解し合つた男性と女性とでありたく思ふのです。」
 微風が草のつゆを払ふ。気流の循環する加減か遠い百合ゆりの畑からの匂ひに混つて、燻臭いにほひがする。歳子が気にすると、それは近所の町の湯屋が夜陰やいんに乗じて煙突の掃除をしてゐるのだと牧瀬はいつた。そのほこりの加減か、または夜気で冷えた加減か池の面には薄く銀灰色のもやが立てめて来て、この濃淡の渦巻は眺める人に幻を突きつけて、記憶に潜在するあらゆる情緒を語れ/\と誘ふやうに見える。牧瀬はしばらくたゆたつてゐたが、靄の幻を見詰めながらたうとう語つた。
「むかしの牧神と仙女はそんな無駄なあがきを彼等の間柄の仲では一切しませんでした。彼等は愛があるうちは愛の完全透徹した力を信じてゐた。二人は子供のやうに遊び狂ひながら絶対に心は恋愛にみたされてゐた。随分性質の悪い悪戯いたずらをし合つて怒つたり、いじめたりし合つても、愛の揺ぎを感じなかつた。星の摂理を信じ、互ひの性質の自然を尊敬し合つてゐるものには、疑ひだの不平といふものを挟む必要がなかつた。さういふものを挟む必要が来た時は、もうその星のつかさどる運命は終つたので、彼等は次の星の運命の支配の下に引取られてゐるのだつた。そこでまた彼等は彼等の生命を一ぱいに張り切つた次の生活が始められる。
 わずか七八夜の僅かな話のうちに僕は判りました。あなたは愛だの好意だのに対して素直で無条件に受容れられさうな理想家風の女性らしいですね。僕の直観に従へば、あなたは僕の考へてゐる恋愛論に共鳴が出来る方らしいですね。
 この夏の七八夜あなたとここで話したメモリーは僕の一生のうちの最も好いメモリーになりさうです。こんなこと云つて失礼だつたら許して下さい。あなたは静間君と結婚なさつても僕はあなたの特異性をもらつたやうな気がします」
「私の特異性つてものがございませうか。」
「あなたの特異性を強調していふなら、あなたは純潔な処女のまゝ受胎せよといつたら、その気になる方らしいですかな……はははは……。」
「…………。」
 突然牧瀬はつか/\立つて行つて、今までの話題にかかわらせぬやうな、またその続きのやうにも、池のなぎさに祈る人のやうにひざまずいた。そして歳子をも促してさうさせた。澄む水に二人の顔が写つた。あかつきまへの水の面は磨きたての銅鏡のやうにこつくりよどんで照度に厚味があつた。
 いつの時代、どこの人間とも判らない若い男女の顔が水底から浮び出た。
 しばらく見詰めてゐた牧瀬は云つた。
「やつぱり人間の男と女だ、はははは。」
 歳子は襟元えりもとへ急に何かのけはひが忍び寄るものゝやうに感じたが、牧瀬に対してまた周囲の情勢に対して何の不安もかなかつた。
 それよりもむしろ自分の一生のうち二度と来ない夢の世界の恍惚こうこつひたつてゐるやうな渺茫びょうぼうとした気持ちだつた。
 近くの森から飛び立つた小鳥が池の面をかすめて飛ぶと二人は同時に顔をあげた。
 月は西に白けて、大空は黎明れいめいの気を見せて来た。そこに天地が口を開けたやうな一種いふべからざる神厳と空虚の面貌めんぼうの寸時がある。
 歳子はほとんど一晩語りに語り続けた青年の矛盾むじゅんしてゐるやうな、独断のやうな言葉を聞き明したが、決して退屈しなかつた。そして高踏極まる話をする青年の言葉の底にかえつて切ない人間の至情を感じて、何かなげかずにはゐられない気持ちになつた。歳子は哀れな優しい溜息ためいきをした。
「たうとうあなたに溜息をさせてしまひましたね。それは僕ばかりのせゐぢやないのです。月のせゐでもあり、夏の夜のせゐでもありますよ。夜気に湿つた草の匂ひのせゐでもありますよ。でもよく幾夜も僕の夢遊病症につき合つて下さいましたね。これが最後の夜と思へばお名残り惜しいけれど、もう夜もぢきあけます。僕たちはもうお別れしなくちや……。平凡で常識な昼日中がやつて来ます。僕たちが折角せっかく夜中よるじゅうかかつて摘みあつめた抒情の匂ひも高踏の花も散らされて仕舞しまひます。」
 そして彼はさう云つたあとはむつつりと無言で、たけの高い庭草を分けてのし/\と歩き出した。


 結婚の前夜、歳子は良人おっとに牧瀬の庭の夏の夜を話した。すると良人は例の思慮深さうに一考した後、まゆを開いて云つた。
「美しい経験だ。『夏の夜の夢』と題して、あなたのメモリーにしまつて置くといゝですね。そしてあなたのこころが結婚生活の常套じょうとうに退屈したとき、とき/″\思ひ出してロマンチツクなそのメモリーを反芻はんすうしなさい。僕もとき/″\分けてもらふ。」
 歳子はこの時から良人の頭脳の明哲を愛しかけて来た。
 間もなく歳子は牧瀬が中央亜細亜アジアへ、決死的な古代建築の遺蹟いせきの発掘に出発したといふ消息を兄から聞いた。





底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
   1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年発行
初出:「文芸」
   1937(昭和12)年7月
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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