日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
岡本かの子全集 |
冬樹社 |
1974(昭和49)年発行 |
月の出の間もない夜更けである。暗さが弛んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。 「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。」 洋館の二階の書斎でまだ勉強してゐた兄が、歳子の足音を聞きつけて、さういつた。 窓硝子に映る電気スタンドの円いシエードが少しも動揺しないところを見ると、兄は口だけでさういつて腰を上げてまで止めに出ては来ないらしい。 「ええ、もう今夜たつた一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」 歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順しく返事をしたので、却つて気が痛みかけた。 「兄さん、棕櫚の花が咲いてますのよ。葉の下の梢に房のやうに沢山。あたし何だか、ぽち/\冷たい小粒のものが顔に当るので雨かしらと思ひましたらね、花が零れるのですわ。」 兄の気持ちを取做し気味に、歳子はあどけなくかう云つた。すると兄はすつかり気嫌よく、 「棕櫚の花が咲いたか。ぢや、下を見てご覧、粟を撒いたやうに綺麗に零れてゐるよ。」と云つた。 歳子は跼つて、掌で地をそつと撫でて見た。掌の柔い肉附きに、さら/\とした砂のやうな花の粒が、一重に薄く触れた。それは爽かな感触だが、まだ生の湿り気を持つて、情味もあつた。かの女は「闇中に金屑を踏む」といふ東洋の哲人の綺麗な詩句を思ひ出し、秘密で高踏的な気持ちで、粒々の花の撒ものを踏み越した。そして葉の緻密な紫のアーチを抜けた。歳子は今夜あたりの自分は、兄ともまた自分の婚約の良人とも、まるで縁のない人間のやうに思へた。
歳子の兄の曾我弥一郎と、歳子の婚約者の静間勇吉とは橋梁と建築との専門の違ひはあるが、同じ大学の工科の出身で、永らく欧洲に留学してゐた。文化人とは恐らくこの二壮年などをいふのであらう。彼等は近代の文化人とはあまりに知性が冴え返るその寂しさと、退屈をいつも事務か娯楽で紛らしてゐなければならないといふことを十分承知して、そして実際それをやつてゐるほどの文化人だつた。 帰朝後はいよ/\交際を密接にした弥一郎と勇吉とは、寵愛してゐるパイプ――ネクタイピン――卓上の一枝の花――を一方は割愛し、一方は愛用し始めるといつた無雑作な調子で、兄はその友人と自分の妹の婚約を取計つた。もつとも、二人の男同志の間には、歳子をよその人間には遣り度くない愛惜があつた。兄は折角素直に生ひ立つた妹の愛すべき性格を知らない他人に、猥りに逆撫でさせたくないといふ真意から、また勇吉は自分が自分とはまつたく性格の反対なこのナイーヴなロマン性の娘を兄に代つて護り育てられる資格と自信を持つたものだから歳子の授受の内容には極めて親切で緊密な了解が働いてゐた。 「あの子は近頃どうしてゐるかね」 「あの子かね。は、は、は、あの子は少し退屈してゐるやうだね。僕が少し詰めて工房へ入り切りだからね。」 何か弥一郎と勇吉が外の会合で顔を合はす場合には、こんな問答が交された。歳子をあの子と呼ぶことに二人はおの/\の立場で、歳子を愛し理解する黙契を示し合つてゐた。 「ぢや、僕の方へ少し寄越しとけ、僕はここ三週間ほど仕事の合間だから、相手になつてゐてやれる。」 こんなふうにして歳子は婚約中の良人の家と兄の家の間を愛撫され乍ら往復した。幸ひ兄はまだ独身だし、良人の家には叔母がゐたが、この中年寄は寄人の身分を自認して、何にも差出なかつた。 「一體こんな呑気なことであたしいゝのでせうか。」 歳子は飽満に気付いて、あるとき婚約中の良人に訊いた。すると良人は思慮深く考へてゐたが、すぐ明るく眉を開いていつた。 「といつて、なにも強ひて苦労を求めるのも不自然ですよ。まあ、呑気にしてゐられるうちはしてゐるんですね。」 歳子は未来の良人の頭の良さを信頼すると共に、あまり抱擁力のある明哲なものに向つて、なぜかいくらか反感を持つた。 兄の家へ戻つてから間もない日のことである。歳子は兄と一緒に音楽会へ行つて帰りにベーカリーに寄つて、そこで喰べたアイスクリームのバニラの香気が強かつたためか、かの女は家へ帰つて床についても眠られなかつた。腺病質のこどもだつた時分に、かういふ夜はよく乳母が寝間着の上に天鵞絨のマントを羽織らせて木の茂みの多い近所の邸町の細道を連れて歩いて呉れた。天地の静寂は水のやうに少女を冷やした。するとかの女は踏む足の下が朧になつてうと/\として来た。かの女の口が丸く自然に開いて小さい欠伸が出た。目敏く見付けた乳母は、「さあ、やつと宵の明星さまがお手を触れて下さいました」といつて、ふうはりかの女を抱き取つて家へ入り、深々と寝床に沈めて呉れた。 それを想ひ出したので、歳子はやはり寝間着の上へ兄が洋行土産に買つて来て呉れた編糸のシヤーレで肩を包んで外へ出て見た。今更死んだ乳母に伴つて連れて歩いて貰ひ度いといふやうな幼い憧憬の気持ちもなかつたが、さればといつて、兄や婚約中の良人にがつちり附添つて歩いて貰ひ度いと思ふ慾求も案外に薄かつた。二人の紳士は歳子の上に現はれる眠りのやうな生理的現象を生理的生活の必然的要求と受取つて、親切に労つては呉れようが、それ以上の深いものを認めては呉れないだらう。それは極めて幼稚な考へ方にしろ、あの乳母のやうに人間の総てのものとして、しんからの尊敬と神秘観を持つてかの女を扱つて呉れる素質は兄にも良人にも全然なかつた。たとへ愛の手は同じでも、あの乳母とは感触の肌触りに違つたものがあつた。歳子は生れつきかういふことを感じ分けるに敏感な本能を持つた女だつた。 かういふ時にかの女は兄と良人と、そして自分との間柄を考へて、自分はある意味で非常に幸福な女であるかも知れないが、またかういふ自分の肝腎な気持ちを自分に一ばん近しい人が了解しない以上、自分は却つて世の中で一ばん不幸な女であるかも知れないとも考へた。だが、このことは口でいつても判ることではなし、むしろ独りで夜の空気の中を彷徨する方が焦燥の感じを少くした。 歳子の兄の住む土地の一劃は、道路まで誰か個人の私有地になつてゐて、道の口々は柵門で防がれ、割合ひに用心堅固の場所だつた。女の真夜中の一人歩きもたいした心配はなかつた。かの女はそろ/\出かかつた月の光を吸ひつゝ木の茂みから来る理智的な湿り気と、大地から蒸発する肉情的な蘊気の不思議な交錯の中に漂渺とした気持ちになつて、いくつか生垣について角を折れ曲つた。鋏を入れず古い茨の株を並木のやうに茫々と高く伸びるがまゝにした道の片側があつて、株と株の間は荒つぽく透けてゐた。何気なく通るかの女は、同じく何気なく垣の中からすうつと出て来た青灰色のブルーズ着の一人の青年とぱつたり顔を見合して、思はず立停つた。山中で珍らしく人と人とが出遇つたときのやうな眼の離されない惧ろしさと、同時に物なつかしい感情がかの女の胸を掠めた。月光に明瞭に照された青年の顔は、端正な目鼻立ちにかすかな幽愁を帯びてゐた。青年はやゝ控へ目に声をかけた。 「いゝ夜ですね。曾我さんの妹さんでせう。中へ入りませんか。」 歳子はさすがに狐疑した。「これはどういふ青年なのであらう。兄がこの近所に学校の後輩の家があるといつたが、大方それだらうか。」 青年はすぐ「今夜、うちの庭はとてもいゝですよ。」と云つた。 その声はあまりに世の中の普通の言葉に何のかゝはりも持たない、卒直で親しみのある声だつた。歳子は青年の誘ふその声に自然する/\と入つてみる方に気持ちを傾けてしまつた。しかし表面静かに微笑して一応辞退した。 「有難う。でも――」 「懸念なさることありませんよ。」 「でも」 「あんたのお兄さんは僕を知つてられる筈ですよ。兄さんは僕の学校の先輩です。」 歳子はやつぱりさうかと思つた。かの女はさう了解がつくと妙な遠慮はいらないと思つた。
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