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夏の夜の夢(なつのよのゆめ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:01:43 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 日本幻想文学集成10 岡本かの子
出版社: 国書刊行会
初版発行日: 1992(平成4)年1月23日
入力に使用: 1992(平成4)年1月23日初版第1刷
校正に使用: 1992(平成4)年1月23日初版第1刷

底本の親本: 岡本かの子全集
出版社: 冬樹社
初版発行日: 1974(昭和49)年発行

 

月の出の間もない夜更けである。暗さがゆるんで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられないたのしい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。
「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。」
 洋館の二階の書斎でまだ勉強してゐた兄が、歳子の足音を聞きつけて、さういつた。
 窓硝子ガラスに映る電気スタンドの円いシエードが少しも動揺しないところを見ると、兄は口だけでさういつて腰を上げてまで止めに出ては来ないらしい。
「ええ、もう今夜たつた一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」
 歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順おとなしく返事をしたので、かえつて気が痛みかけた。
「兄さん、棕櫚しゅろの花が咲いてますのよ。葉の下のこずえに房のやうに沢山たくさん。あたし何だか、ぽち/\冷たい小粒のものが顔に当るので雨かしらと思ひましたらね、花がこぼれるのですわ。」
 兄の気持ちを取做とりなし気味に、歳子はあどけなくかう云つた。すると兄はすつかり気嫌よく、
「棕櫚の花が咲いたか。ぢや、下を見てご覧、あわいたやうに綺麗きれいに零れてゐるよ。」と云つた。
 歳子はせぐくまつて、てのひらで地をそつとでて見た。掌の柔い肉附きに、さら/\とした砂のやうな花の粒が、一重に薄く触れた。それはさわやかな感触だが、まだ生の湿り気を持つて、情味もあつた。かの女は「闇中あんちゅう金屑かなくずを踏む」といふ東洋の哲人の綺麗きれいな詩句を思ひ出し、秘密で高踏的な気持ちで、粒々の花のまきものを踏み越した。そして葉の緻密ちみつ※(「くさかんむり/威」、第3水準1-91-11)のうぜんかずらのアーチを抜けた。歳子は今夜あたりの自分は、兄ともまた自分の婚約の良人おっととも、まるで縁のない人間のやうに思へた。


 歳子の兄の曾我弥一郎と、歳子の婚約者の静間勇吉とは橋梁きょうりょうと建築との専門の違ひはあるが、同じ大学の工科の出身で、永らく欧洲に留学してゐた。文化人とは恐らくこの二壮年などをいふのであらう。彼等は近代の文化人とはあまりに知性がえ返るその寂しさと、退屈をいつも事務か娯楽で紛らしてゐなければならないといふことを十分承知して、そして実際それをやつてゐるほどの文化人だつた。
 帰朝後はいよ/\交際を密接にした弥一郎と勇吉とは、寵愛ちょうあいしてゐるパイプ――ネクタイピン――卓上の一枝の花――を一方は割愛し、一方は愛用し始めるといつた無雑作むぞうさな調子で、兄はその友人と自分の妹の婚約を取計とりはからつた。もつとも、二人の男同志の間には、歳子をよその人間にはくない愛惜があつた。兄は折角素直に生ひ立つた妹の愛すべき性格を知らない他人に、みだりに逆撫さかなでさせたくないといふ真意から、また勇吉は自分が自分とはまつたく性格の反対なこのナイーヴなロマン性の娘を兄に代つて護り育てられる資格と自信を持つたものだから歳子の授受の内容には極めて親切で緊密な了解が働いてゐた。
「あの子は近頃どうしてゐるかね」
「あの子かね。は、は、は、あの子は少し退屈してゐるやうだね。僕が少し詰めて工房へ入り切りだからね。」
 何か弥一郎と勇吉が外の会合で顔を合はす場合には、こんな問答が交された。歳子をあの子と呼ぶことに二人はおの/\の立場で、歳子を愛し理解する黙契を示し合つてゐた。
「ぢや、僕の方へ少し寄越よこしとけ、僕はここ三週間ほど仕事の合間だから、相手になつてゐてやれる。」
 こんなふうにして歳子は婚約中の良人おっとの家と兄の家の間を愛撫あいぶされながら往復した。幸ひ兄はまだ独身だし、良人の家には叔母おばがゐたが、この中年寄ちゅうどしより寄人よりうどの身分を自認して、何にも差出なかつた。
「一體こんな呑気のんきなことであたしいゝのでせうか。」
 歳子は飽満に気付いて、あるとき婚約中の良人にいた。すると良人は思慮深く考へてゐたが、すぐ明るくまゆを開いていつた。
「といつて、なにもひて苦労を求めるのも不自然ですよ。まあ、呑気にしてゐられるうちはしてゐるんですね。」
 歳子は未来の良人の頭の良さを信頼すると共に、あまり抱擁力のある明哲なものに向つて、なぜかいくらか反感を持つた。
 兄の家へ戻つてから間もない日のことである。歳子は兄と一緒に音楽会へ行つて帰りにベーカリーに寄つて、そこで喰べたアイスクリームのバニラの香気が強かつたためか、かの女は家へ帰つてとこについても眠られなかつた。腺病質せんびょうしつのこどもだつた時分に、かういふ夜はよく乳母うばが寝間着の上に天鵞絨ビロードのマントを羽織はおらせて木の茂みの多い近所の邸町やしきまちの細道を連れて歩いてれた。天地の静寂は水のやうに少女を冷やした。するとかの女は踏む足の下がおぼろになつてうと/\として来た。かの女の口が丸く自然に開いて小さい欠伸あくびが出た。目敏めざとく見付けた乳母は、「さあ、やつと宵の明星さまがお手を触れて下さいました」といつて、ふうはりかの女を抱き取つて家へ入り、深々と寝床に沈めてれた。
 それを想ひ出したので、歳子はやはり寝間着の上へ兄が洋行土産みやげに買つて来て呉れた編糸あみいとのシヤーレで肩を包んで外へ出て見た。今更死んだ乳母うばに伴つて連れて歩いてもらいといふやうな幼い憧憬あこがれの気持ちもなかつたが、さればといつて、兄や婚約中の良人おっとにがつちり附添つて歩いて貰ひ度いと思ふ慾求も案外に薄かつた。二人の紳士は歳子の上に現はれる眠りのやうな生理的現象を生理的生活の必然的要求と受取つて、親切にいたわつては呉れようが、それ以上の深いものを認めては呉れないだらう。それは極めて幼稚な考へ方にしろ、あの乳母のやうに人間のすべてのものとして、しんからの尊敬と神秘観を持つてかの女を扱つて呉れる素質は兄にも良人にも全然なかつた。たとへ愛の手は同じでも、あの乳母とは感触の肌触りに違つたものがあつた。歳子は生れつきかういふことを感じ分けるに敏感な本能を持つた女だつた。
 かういふ時にかの女は兄と良人と、そして自分との間柄を考へて、自分はある意味で非常に幸福な女であるかも知れないが、またかういふ自分の肝腎かんじんな気持ちを自分に一ばん近しい人が了解しない以上、自分はかえつて世の中で一ばん不幸な女であるかも知れないとも考へた。だが、このことは口でいつても判ることではなし、むしろ独りで夜の空気の中を彷徨ほうこうする方が焦燥しょうそうの感じを少くした。
 歳子の兄の住む土地の一劃は、道路まで誰か個人の私有地になつてゐて、道の口々は柵門さくもんで防がれ、割合ひに用心堅固の場所だつた。女の真夜中の一人歩きもたいした心配はなかつた。かの女はそろ/\出かかつた月の光を吸ひつゝ木の茂みから来る理智的な湿り気と、大地から蒸発する肉情的な蘊気うんきの不思議な交錯の中に漂渺ひょうびょうとした気持ちになつて、いくつか生垣いけがきについて角を折れ曲つた。はさみを入れず古いいばらの株を並木のやうに茫々ぼうぼうと高く伸びるがまゝにした道の片側があつて、株と株の間は荒つぽく透けてゐた。何気なく通るかの女は、同じく何気なく垣の中からすうつと出て来た青灰色のブルーズ着の一人の青年とぱつたり顔を見合して、思はず立停たちどまつた。山中で珍らしく人と人とが出遇であつたときのやうな眼の離されないおそろしさと、同時に物なつかしい感情がかの女の胸をかすめた。月光に明瞭めいりょうに照された青年の顔は、端正な目鼻立ちにかすかな幽愁ゆうしゅうを帯びてゐた。青年はやゝ控へ目に声をかけた。
「いゝ夜ですね。曾我さんの妹さんでせう。中へ入りませんか。」
 歳子はさすがに狐疑こぎした。「これはどういふ青年なのであらう。兄がこの近所に学校の後輩の家があるといつたが、大方それだらうか。」
 青年はすぐ「今夜、うちの庭はとてもいゝですよ。」と云つた。
 その声はあまりに世の中の普通の言葉に何のかゝはりも持たない、卒直で親しみのある声だつた。歳子は青年の誘ふその声に自然する/\と入つてみる方に気持ちを傾けてしまつた。しかし表面静かに微笑して一応辞退した。
「有難う。でも――」
「懸念なさることありませんよ。」
「でも」
「あんたのお兄さんは僕を知つてられるはずですよ。兄さんは僕の学校の先輩です。」
 歳子はやつぱりさうかと思つた。かの女はさう了解がつくと妙な遠慮はいらないと思つた。

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