彼は形式通り膳組されている膳を眺めながら、ビールの合の手に鍋の大根のちりを喰べ進んで行った。この料理に就ても、彼には基礎の知識があった。これは西園寺陶庵公が好まれる食品だということであった。彼は人伝てにこの事を聞いたとき、政治家の傍、あれだけの趣味人である老公が、舌に於て最後に到り付く食味はそんな簡単なものであるのか。それは思いがけない気もしたが、しかし肯かせるところのある思いがけなさでもあった。そして彼には、いわゆる偉い人が好んだという食品はぜひ自分も一度は味ってみようという念願があった。それは一方彼の英雄主義の現れであり、一方偉い人の探索でもあった。その人が好くという食品を味ってみて、その人がどんな人であるかを溯り知り当てることは、もっとも正直で容易い人物鑑識法のように彼には思えた。 鍋の煮出し汁は、兼て貯えの彼特製の野菜のエキスで調味されてあった。大根は初冬に入り肥えかかっていた。七つ八つの泡によって鍋底から浮上り漂う銀杏形の片れの中で、ほど良しと思うものを彼は箸で選み上げた。手塩皿の溜醤油に片れの一角を浸し熱さを吹いては喰べた。 生で純で、自然の質そのものだけの持つ謙遜な滋味が片れを口の中へ入れる度びに脆く柔く溶けた。大まかな菜根の匂いがする。それは案外、甘いものであった。 「成程なア」 彼は、感歎して独り言をいった。 彼は盛に煮上って来るのを、今度は立て続けに吹きもて食べた。それは食べるというよりは、吸い取るという恰好に近かった。土鼠が食い耽る飽くなき態があった。 その間、たまに彼は箸を、大根卸しの壺に差出したが、ついに煮大根の鉢にはつけなかった。 食い終って一通り堪能したと見え、彼は焜炉の口を閉じはじめて霰の庭を眺め遣った。 あまり酒に強くない彼は胡座の左の膝に左の肘を突立て、もう上体をふらふらさしていた。気をしきりに吐くのは、もはや景気附けではなく、胃拡張の胃壁の遅緩が、飲食したものの刺激に遭いうねり戻す本もののものだった。ときどき甘苦い粘塊が口中へ噎せ上って来る。その中には大根の片れの生噛みのものも混っている。彼は食後には必ず、この気をやり、そして、人前をも憚らず反芻する癖があった。壁越しに聞いている逸子は「また、始めた」と浅間しく思う。家庭の食後にそれをする父を見慣れて、こどもの篤が真似て仕方が無いからであった。 気は不快だったが、その不快を克服するため、なおもビールを飲み煙草を喫うところに、身体に非現実な美しい不安が起る。「このとき、僕は、人並の気持になれるらしい。妻も子も可愛がれる――」彼はこんなことを逸子によくいう。逸子は寝かしついた子供に布団を重ねて掛けてやりながら、「すると、そのとき以外は、良人に蛍雪が綽名に付けたその鼈のような動物の気持でいるのかしらん」と疑う。 鼈四郎は、煙草を喫いながら、彼のいう人並の気持になって、霰の庭を味っていた。時刻は夜に入り闇の深まりも増したかに感ぜられる。庭の構いの板塀は見えないで、無限に地平に抜けている目途の闇が感じられる。小さな築山と木枝の茂みや、池と庭草は、電灯の光は受けても薄板金で張ったり、針金で輪廓を取ったりした小さなセットにしか見えない。呑むことだけして吐くことを知らない闇。もし人間が、こんな怖ろしい暗くて鈍感な無限の消化力のようなものに捉えられたとしたならどうだろう。泣いても喚き叫んでも、追付かない、そして身体は毛氈苔に粘られた小虫のように、徐々に溶かされて行く、溶かされるのを知りつつ、何と術もなく、じーじー鳴きながら捉えられている。永遠に――。鼈四郎はときどき死ということを想い見ないことはない。彼が生み付けられた自分でも仕末に終えない激しいものを、せめて世間に理解して貰おうと彼は世間にうち衝って行く。世間は他人ごとどころではないと素気なく弾ね返す。彼はいきり立ち武者振りついて行く。気狂い染みているとて今度は体を更わされる。あの手この手。彼は世間から拒絶されて心身の髄に重苦しくてしかも薄痒い疼きが残るだけの性抜きに草臥れ果てたとき、彼は死を想い見るのだった。それはすべてを清算して呉れるものであった。想い見た死に身を横えるとき、自分の生を眺め返せば「あれは、まず、あれだけのもの」と、あっさり諦められた。潔い苦笑が唇に泛べられた。かかる死を時せつ想い見ないで、なんで自分のような激しい人間が三十に手の届く年齢にまでこの世に生き永らえて来られようぞと彼は思う。 生を顧みて「あれは、まず、あれだけのもの」と諦めさすところの彼の想い見た死はまた、生をそう想い諦めさすことによってそれ自らを至って性の軽いものにした。生が「あれは、まず、あれだけのもの」としたなら、死もまた「これは、まず、これだけのもの」に過ぎなかった。彼は衒学的な口を利くことを好むが、彼には深い思惟の素養も脳力も無い筈である。 これは全く押し詰められた体験の感じから来たもので、それだけにまた、動かぬものであった。彼は少青年の頃まで、拓本の職工をしていたことがあるが、その拓本中に往々出て来る死生一如とか、人生一泡滓とかいう文字をこの感じに於て解していた。それ故にこそ、とどのつまりは「うまいものでも食って」ということになった。世間に肩肘張って暮すのも左様大儀な芝居でもなかった。 だが、今宵の闇の深さ、粘っこさ、それはなかなか自分の感じ捉えた死などいう潔く諦めよいものとは違っていて、不思議な力に充ちている。絶望の空虚と、残忍な愛とが一つになっていて、捉えたものは嘗め溶し溶し尽きたら、また、原形に生み戻し、また嘗め溶す作業を永遠に、繰返さでは満足しない執拗さを持っている。こんな力が世の中に在るのか。鼈四郎は、今迄、いろいろの食品を貪り味ってみて、一つの食品というものには、意志と力があってかくなりわい出たもののように感じていた。押拡げて食品以外の事物にも、何かの種類の意味で味いというものを帯びている以上、それがあるように思われている。だが、今宵の闇の味い! これほど無窮無限と繰返しを象徴しているものは無かった。人間が虫の好く好物を食べても食べても食べ飽きた気持がしたことはない。あの虫の好きと一路通ずるものがありはしないか。 これは天地の食慾とでもいうものではないかしらん、これに較べると人間の食慾なんて高が知れている。 「しまった」と彼は呟いてみた。 彼は久振りで、自分の嫌な過去の生い立ちを点検してみた。
京都の由緒ある大きな寺のひとり子に生れ幼くして父を失った。母親は内縁の若い後妻で入籍して無かったし、寺には寺で法縁上の紛擾があり、寺の後董は思いがけない他所の方から来てしまった。親子のものはほとんど裸同様で寺を追出される形となった。これみな恬澹な名僧といわれた父親の世務をうるさがる性癖から来た結果だが、母親はどういうものか父を恨まなかった。「なにしろこどものような方だったから罪はない」そしてたった一つの遺言ともいうべき彼が誕生したときいったという父の言葉を伝えた。「この子がもし物ごころがつく時分わしも老齢じゃから死んどるかも知れん。それで苦労して、なんでこんな苦しい娑婆に頼みもせんのに生み付けたのだと親を恨むかも知れん。だがそのときはいってやりなさい。こっちとて同じことだ、何でも頼みもせんのに親に苦労をかけるようなこの苦しい娑婆に生れて出て来なすったのだお互いさまだ、と」この言葉はとても薄情にとれた、しかし薄情だけでは片付けられない妙な響が鼈四郎の心に残された。 はじめは寺の弟子たちも故師の遺族に恩を返すため順番にめいめいの持寺に引取って世話をした。しかしそれは永く続かなかった。どの寺にも寄食人を息詰らす家族というものがあった。最後に厄介になったのは父の碁敵であった拓本職人の老人の家だった。貧しいが鰥暮しなので気は楽だった。母親は老人の家の煮炊き洗濯の面倒を見てやり、彼はちょうど高等小学も卒業したので老人の元に法帖造りの職人として仕込まれることになった。老人は変り者だった、碁を打ちに出るときは数日も家に帰らないが、それよりも春秋の頃おい小学校の運動会が始り出すと、彼はほとんど毎日家に居なかった。京都の市中や近郊で催されるそれを漁り尋ね見物して来るのだった。「今日の××小学校の遊戯はよく手が揃った」とか、「今日の△△小学校の駈足競争で、今迄にない早い足の子がいた」とか噂して悦んでいた。 その留守の間、彼は糊臭い仕事場で、法帖作りをやっているのだが、墨色に多少の変化こそあれ蝉翅搨といったところで、烏金搨といったところで再び生物の上には戻って来ぬ過去そのものを色にしたような非情な黒に過ぎない。その黒へもって行って寒白い空閑を抜いて浮出す拓本の字劃というものは少年の鼈四郎にとってまたあまりに寂しいものであった。「雨降りあとじゃ、川へいて、雑魚なと、取って来なはれ、あんじょ、おいしゅう煮て、食べまひょ」継ものをしていた母親がいった。鼈四郎は笊を持って堤を越え川へ下りて行く。 その頃まだ加茂川にも小魚がいた。季節季節によって、鮴、川鯊、鮠、雨降り揚句には鮒や鰻も浮出てとんだ獲ものもあった。こちらの河原には近所の子供の一群がすでに漁り騒いでいる。むこうの土手では摘草の一家族が水ぎわまでも摘み下りている。鞍馬へ岐れ路の堤の辺には日傘をさした人影も増えている。境遇に負けて人臆れのする少年であった鼈四郎は、これ等の人気を避けて、土手の屈曲の影になる川の枝流れに、芽出し柳の参差を盾に、姿を隠すようにして漁った。すみれ草が甘く匂う。糺の森がぼーっと霞んで見えなくなる。おや自分は泣いてるなと思って眼瞼を閉じてみると、雫の玉がブリキ屑に落ちたかしてぽとんという音がした。器用な彼はそれでも少しの間に一握りほどの雑魚を漁り得る。持って帰ると母親はそれを巧に煮て、春先の夕暮のうす明りで他人の家の留守を預りながら母子二人だけの夕餉をしたためるのであった。 母親は身の上の素性を息子に語るのを好まなかった。ただ彼女は食べ意地だけは張っていて、朝からでも少しのおなまぐさが無ければ飯の箸は取れなかった。それの言訳のように彼女はこういった。「なんしい、食べ辛棒の土地で気儘放題に育てられたもんやて!」 鼈四郎は母親の素性を僅に他人から聞き貯めることが出来た。大阪船場目ぬきの場所にある旧舗の主人で鼈四郎の父へ深く帰依していた信徒があった。不思議な不幸続きで、店は潰れ娘一人を残して自分も死病にかかった。鼈四郎の父はそれまで不得手ながら金銭上の事に関ってまでいろいろ面倒を見てやったのだがついにその甲斐もなかった。しかし、すべてを過去の罪障のなす業と諦めた病主人は、罪障消滅のためにも、一つは永年の恩義に酬ゆるため、妻を失ってしばらく鰥暮しでいた鼈四郎の父へ、せめて身の周りの世話でもさせたいと、娘を父の寺へ上せて身罷ったという。他の事情は語らない母親も「お罪障消滅のため寺方に上った身が、食べ慾ぐらい断ち切れんで、ほんまに済まんと思うが、やっぱりお罪障の残りがあるかして、こればかりはしようもない」この述懐だけは亦ときどき口に洩しながら、最小限度のつもりにしろ、食べもの漁りはやめなかった。 少青年の頃おいになって鼈四郎は、諸方の風雅の莚の手伝いに頼まれ出した。市民一般に趣味人をもって任ずるこの古都には、いわゆる琴棋書画の会が多かった。はじめ拓本職人の老人が出入りの骨董商に展観の会があるのを老人に代って手伝いに出たのがきっかけとなり、あちらこちらより頼まれるようになった。才はじけた性質を人臆しする性質が暈しをかけている若者は何か人目につくものがあった。薄皮仕立で桜色の皮膚は下膨れの顔から胸鼈へかけて嫩葉のような匂いと潤いを持っていた。それが拓本老職人の古風な着物や袴を仕立て直した衣服を身につけて座を斡旋するさまも趣味人の間には好もしかった。人々は戯れに千の与四郎、――茶祖の利休の幼名をもって彼を呼ぶようになった。利休の少年時が果して彼のように美貌であったか判らないが、少くとも利休が与四郎時代秋の庭を掃き浄めたのち、あらためて一握りの紅葉をもって庭上に撒き散らしたという利休の趣味性の早熟を物語る逸話から聯想して来る与四郎は、彼のような美少年でなければならなかった。与えられたこの戯名を彼も諾い受け寧ろ少からぬ誇りをもって自称するようにさえなった。 洒落れた[#「洒落れた」は底本では「洒落れた」]お弁当が食べられ、なにがしかずつ心付けの銭さえ貰えるこの手伝いの役は彼を悦ばした。そのお弁当を二つも貰って食べ抹茶も一服よばれたのち、しばらくの休憩をとるため、座敷に張り廻らした紅白だんだらの幔幕を向うへ弾ね潜って出る。そこは庭に沿った椽側であった。陽はさんさんと照り輝いて満庭の青葉若葉から陽の雫が滴っているようである。椽も遺憾なく照らし暖められている。彼はその椽に大の字なりに寝て満腹の腹を撫でさすりながらうとうとしかける。智恩院聖護院の昼鐘が、まだ鳴り止まない。夏霞棚引きかけ、眼を細めてでもいるような和み方の東山三十六峯。ここの椽に人影はない。しかし別書院の控室の間から演奏場へ通ずる中廊下には人の足音が地車でも続いて通っているよう絶えずとどろと鳴っている。その控室の方に当っては、もはや、午後の演奏の支度にかかっているらしく、尺八に対して音締めを直している琴や胡弓の音が、音のこぼれもののように聞えて来る。間に混って盲人の鼻詰り声、娘たちの若い笑い声。 若者の鼈四郎は、こういう景致や物音に遠巻きされながら、それに煩わされず、逃れて一人うとうとする束の間を楽しいものに思い做した。腹に満ちた咀嚼物は陽のあたためを受けて滋味は油のように溶け骨、肉を潤し剰り今や身体の全面にまでにじみ出して来るのを艶やかに感ずる。金目がかかり、値打ちのある肉体になったように感ずる。心の底に押籠められながら焦々した怒ろしい想いはこの豊潤な肉体に対し、いよいよその豊潤を刺激して引立てる内部からの香辛料になったような気がする。その快さ甘くときめかす匂い、芍薬畑が庭のどこかにあるらしい。 古都の空は浅葱色に晴れ渡っている。和み合う睫の間にか、充ち足りた胸の中にか白雲の一浮きが軽く渡って行く。その一浮きは同時にうたた寝の夢の中にも通い、濡れ色の白鳥となって翼に乗せて過ぎる。はつ夏の哀愁。「与四郎さん、こんなとこで寝てなはる。用事あるんやわ、もう起きていなあ、」鼻の尖を摘まれる。美しい年増夫人のやわらかくしなやかな指。 鼈四郎はだんだん家へ帰らなくなった。貧寒な拓本職人の家で、女餓鬼の官女のような母を相手にみじめな暮しをするより、若い女のいる派手で賑かな会席を渡り歩るいてる方がその日その日を面白く糊塗できて気持よかった。何か一筋、心のしんになる確りした考え。何か一業、人に優れて身の立つような職能を捉えないでは生きて行くに危いという不安は、殊にあの心の底に伏っている焦々した怒ろしい想いに煽られると、居ても立ってもいられない悩みの焔となって彼を焼くのであるが、その焦熱を感ずれば感ずるほど、彼はそれをまわりで擦って掻き落すよう、いよいよ雑多と変化の世界へ紛れ込んで行くのであった。彼はこの間に持って生れた器用さから、趣味の技芸なら大概のものを田舎初段程度にこなす腕を自然に習い覚えた。彼は調法な与四郎となった。どこの師匠の家でも彼を歓迎した。棋院では初心の客の相手役になってやるし、琴の家では琴師を頼まないでも彼によって絃の緩みは締められた。生花の家でお嬢さんたちのための花の下慥え、茶の湯の家ではまたお嬢さんや夫人たちのための点茶や懐石のよき相談相手だった。拓本職人は石刷りを法帖に仕立てる表具師のようなこともやれば、石刷りを版木に模刻して印刷をする彫版師のような仕事もした。そこから自ずから彼は表具もやれば刀を採って、木彫篆刻の業もした。字は宋拓を見よう見真似に書いた。画は彼が最得意とするところで、ひょっとしたら、これ一途に身を立てて行こうかとさえ思うときがあった。
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