「これなら、大したことはない」 と復一は呟きながら念のためプールの方へ赤土路をよろめく跣足の踵に寝まきの裾を貼り付かせ、少しだらだらと踏み下ろして行った。 プールが目に入ると、復一はひやりとして、心臓は電撃を受けたような衝動を感じた。 小径の途中の土の層から大溝の浸み水が洩れ出て、音もなく平に、プールの葭簾を撫で落し、金網を大口にぱくりと開けてしまっている。プールに流れ入った水勢は底に当って、そこから弾き上り、四方へ流れ落ちて、プールの縁から天然の湧き井の清水のように溢れ落ちていた。 復一が覗くと、底の小石と千切られた藻の根だけ鮮かに、金魚は影も形も見えなかった。 復一はかっとなって、端の綴じが僅か残っている金網を怒りの足で蹴り放った。その拍子に跣足の片足を赤土に踏み滑らし、横倒しになると、坂になっている小径を滝のように流れている水勢が、骨と皮ばかりになっている復一を軽々と流し、崖下の古池の畔まで落して来た。復一はようやくそこの腐葉土のぬかるみで、危く踏み止まった。 年来理想の新種を得るのにまだまだ幾多の交媒と工夫を重ねなければならない前途暗澹たる状態であるのに、今またプールの親金魚をこの水で失くすとすれば、十四年の苦心は水の泡になって、元も子も失くしてしまう。復一は精も根も一度に尽き果て、洞窟のように黒く深まる古池の傍にへたへたと身を崩折らせ、しばらく意識を喪失していた。 しばらくして復一が意識を恢復して来ると、天地は薔薇色に明け放たれていて、谷窪の万象は生々の気を盆地一ぱいに薫らしている。輝く蒼空をいま漉き出すように頭上の薄膜の雲は見る見る剥れつつあった。 何という新鮮で濃情な草樹の息づかいであろう。緑も樺も橙も黄も、その葉の茂みはおのおのその膨らみの中に強い胸を一つずつ蔵していて、溢れる生命に喘いでいるように見える。しどろもどろの叢は雫の露をぶるぶる振り払いつつ張って来た乳房のような俵形にこんもり形を盛り直している。 耳の注意を振り向けるあらゆるところに、潺湲の音が自由に聴き出され、その急造の小渓流の響きは、眼前に展開している自然を、動的なものに律動化し、聴き澄している復一を大地ごと無限の空間に移して、悠久に白雲上へ旅させるように感じさせる。 もろもろの陰は深い瑠璃色に、もろもろの明るみはうっとりした琥珀色の二つに統制されて来ると、道路側の瓦屋根の一角がたちまち灼熱して、紫白の光芒を撥開し、そこから縒り出す閃光のテープを谷窪のそれを望むものものに投げかけた。 鏡面を洗い澄ましたような初秋の太陽が昇ったのだ。小鳥の鳴声が今更賑わしく鮮明な空間の壁絨をあっちへこっちへ縫いつつ飛ぶ。 極度の緊張に脳貧血を起していったん意識を喪い、再び恢復して来たときの復一の心身は、ただ一箇の透明な観照体となって、何も思い出さず、何も考えず、ただ自然の美魅そのままを映像として映しとどめ、恍惚そのものに化していた。 彼は七つの金魚池の青い歪みの型を、太古の巨獣の足跡のように感じ、ぼんやりとその地上の美しい斑点に見とれていた。陽が映り込んで来て、彼の意識もはっきりして来ると、すぐ眼の前の古池が、今始めて見る古洞のように認められて来た。それは彼の出来損じの名魚たちを、売ることも嫌い、逃しもならぬままに、十余年間捨て飼いに飼っておいた古池で、宗十郎夫婦の情で、ときどき餌を与えられていたのであったが、夫婦の死後は誰も顧るものもなく憐れな魚達は長く池の藻草や青みどろで生き続けていたのであった。この池の出来損いの異様な金魚を見ることは、失敗の痕を再び見るようなので、復一はほとんどこの古池に近寄らなかった。ときどきは鬱々として生命を封付けられる恨みがましい生ものの気配いが、この半分古菰を冠った池の方に立ち燻るように感じたこともあるが、復一はそれを自分の神経衰弱から来る妄念のせいにしていた。 いま、暴風のために古菰がはぎ去られ差込む朝陽で、彼はまざまざとほとんど幾年ぶりかのその古池の面を見た。その途端、彼の心に何かの感動が起ろうとする前に、彼は池の面にきっと眼を据え、強い息を肺いっぱいに吸い込んだ。……見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に撩乱として白紗よりもより膜性の、幾十筋の皺がなよなよと縺れつ縺れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指と人差指で大幅に一囲みして形容する白牡丹ほどもあろうか。それが一つの金魚であった。その白牡丹のような白紗の鰭には更に菫、丹、藤、薄青等の色斑があり、更に墨色古金色等の斑点も交って万華鏡のような絢爛、波瀾を重畳させつつ嬌艶に豪華にまた淑々として上品に内気にあどけなくもゆらぎ拡ごり拡ごりゆらぎ、更にまたゆらぎ拡ごり、どこか無限の遠方からその生を操られるような神秘な動き方をするのであった。復一の胸は張り膨らまって、木の根、岩角にも肉体をこすりつけたいような、現実と非現実の間のよれよれの肉情のショックに堪え切れないほどになった。 「これこそ自分が十余年間苦心惨憺して造ろうとして造り得なかった理想の至魚だ。自分が出来損いとして捨てて顧みなかった金魚のなかのどれとどれとが、いつどう交媒して孵化して出来たか」 こう復一の意識は繰り返しながら、肉情はいよいよ超大な魅惑に圧倒され、吸い出され、放散され、やがて、ただ、しんと心の底まで浸み徹った一筋の充実感に身動きも出来なくなった。 「意識して求める方向に求めるものを得ず、思い捨てて放擲した過去や思わぬ岐路から、突兀として与えられる人生の不思議さ」が、復一の心の底を閃めいて通った時、一度沈みかけてまた水面に浮き出して来た美魚が、その房々とした尾鰭をまた完全に展いて見せると星を宿したようなつぶらな眼も球のような口許も、はっきり復一に真向った。 「ああ、真佐子にも、神魚華鬘之図にも似てない……それよりも……それよりも……もっと美しい金魚だ、金魚だ」 失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘のなかにへたへたとへたばった。復一がいつまでもそのまま肩で息を吐き、眼を瞑っている前の水面に、今復一によって見出された新星のような美魚は多くのはした金魚を随えながら、悠揚と胸を張り、その豊麗な豪華な尾鰭を陽の光に輝かせながら撩乱として遊弋している。
(昭和十二年十月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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