「どう、お訣れに、銀座へでも行ってお茶を飲みません?」 真佐子が何気なく帯の上前の合せ目を直しながらそういうと、あれほど頑固をとおすつもりの復一の拗ね方はたちまち性が抜けてしまうのだった。けれども復一は必死になっていった。 「銀座なんてざわついた処より僕は榎木町の通りぐらいなら行ってもいいんです」 復一の真佐子に対する言葉つかいはもう三四年以前から変っていた。友達としては堅くるしい、ほんの少し身分の違う男女間の言葉遣いに復一は不知不識自分を馴らしていた。 「妙なところを散歩に註文するのね。それではいいわ。榎木町で」 赤坂山王下の寛濶な賑やかさでもなく、六本木葵町間の引締った賑やかさでもなく、この両大通りを斜に縫って、たいして大きい間口の店もないが、小ぢんまりと落付いた賑やかさの夜街の筋が通っていた。店先には商品が充実していて、その上種類の変化も多かった。道路の闇を程よく残して初秋らしい店の灯の光が撒き水の上にきらきらと煌めいたり流れたりしていた。果もの屋の溝板の上には抛り出した砲丸のように残り西瓜が青黒く積まれ、飾窓の中には出初めの梨や葡萄が得意の席を占めている。肥った女の子が床几で絵本を見ていた。騒がしくも寂しくもない小ぢんまりした道筋であった。 真佐子と復一は円タクに脅かされることの少い町の真中を臆するところもなく悠々と肩を並べて歩いて行った。復一が真佐子とこんなに傍へ寄り合うのは六七年振りだった。初めのうちはこんなにも大人に育って女性の漿液の溢れるような女になって、ともすれば身体の縒り方一つにも復一は性の独立感を翻弄されそうな怖れを感じて皮膚の感覚をかたく胄って用心してかからねばならなかった。そのうち復一の内部から融かすものがあって、おやと思ったときはいつか復一は自分から皮膚感覚の囲みを解いていて、真佐子の雰囲気の圏内へ漂い寄るのを楽しむようになっていた。すると店の灯も、町の人通りも香水の湯気を通して見るように媚めかしく朦朧となって、いよいよ自意識を頼りなくして行った。 だが、復一にはまだ何か焦々と抵抗するものが心底に残っていて、それが彼を二三歩真佐子から自分を歩き遅らせた。復一は真佐子と自分を出来るだけ客観的に眺める積りでいた。彼の眼には真佐子のやや、ぬきえもんに着た襟の框になっている部分に愛蘭麻のレースの下重ねが清楚に覗かれ、それからテラコッタ型の完全な円筒形の頸のぼんの窪へ移る間に、むっくりと搗き立ての餅のような和みを帯びた一堆の肉の美しい小山が見えた。 「この女は肉体上の女性の魅力を剰すところなく備えてしまった」 ああ、と復一は幽な嘆声をもらした。彼は真佐子よりずっと背が高かった。彼は真佐子を執拗に観察する自分が卑しまれ、そして何か及ばぬものに対する悲しみをまぎらすために首を脇へ向けて、横町の突当りに影を凝す山王の森に視線を逃がした。 「復一さんは、どうしても金魚屋さんになるつもり」 真佐子は隣に復一がいるつもりで、何気なく、相手のいない側を向いて訊ねた。ひと足遅れていた復一は急いでこの位置へ進み出て並んだ。 「もう少し気の利いたものになりたいんですが、事情が許しそうもないのです」 「張合のないことおっしゃるのね。あたしがあなたなら嬉んで金魚屋さんになりますわ」 真佐子は漂渺とした、それが彼女の最も真面目なときの表情でもある顔付をして復一を見た。 「生意気なこと云うようだけれど、人間に一ばん自由に美しい生きものが造れるのは金魚じゃなくて」 復一は不思議な感じがした。今までこの女に精神的のものとして感じられたものは、ただ大様で贅沢な家庭に育った品格的のものだけだと思っていたのに、この娘から人生の価値に関係して批評めく精神的の言葉を聞くのである。ほんの散歩の今の当座の思い付きであるのか、それとも、いくらか考えでもした末の言葉か。 「そりゃ、そうに違いありませんけれど、やっぱりたかが金魚ですからね」 すると真佐子は漂渺とした顔付きの中で特に煙る瞳を黒く強調させて云った。 「あなたは金魚屋さんの息子さんの癖に、ほんとに金魚の値打ちをご承知ないのよ。金魚のために人間が生き死にした例がいくつもあるのよ」 真佐子は父から聴いた話だといって話し出した。 その話は、金魚屋に育った復一の方が、おぼろげに話す真佐子よりむしろ詳しく知っていたのであるが、真佐子から云われてみて、かえって価値的に復一の認識に反覆されるのであった。事実はざっとこうなのである。 明治二十七八年の日清戦役後の前後から日本の金魚の観賞熱はとみに旺盛となった。専門家の側では、この機に乗じて金魚商の組合を設けたり、アメリカへ輸出を試みたりした。進歩的の金魚商は特に異種の交媒による珍奇な新魚を得て観賞需要の拡張を図ろうとした。都下砂村の有名な金魚飼育商の秋山が蘭鋳からその雄々しい頭の肉瘤を採り、琉金のような体容の円美と房々とした尾を採って、頭尾二つとも完美な新種を得ようとする、ほとんど奇蹟にも等しい努力を始めて陶冶に陶冶を重ね、八ケ年の努力の後、ようやく目的のものを得られたという。あの名魚「秋錦」の誕生は着手の渾沌とした初期の時代に属していた。 素人の熱心な飼育家も多く輩出した。育てた美魚を競って品評会や、美魚の番附を作ったりした。 その設備の費用や、交際や、仲に立って狡計を弄する金魚ブローカーなどもあって、金魚のため――わずか飼魚の金魚のために家産を破り、流難荒亡するみじめな愛魚家が少からずあった。この愛魚家は当時において、ほとんど狂想にも等しい、金魚の総ゆる種類の長所を選り蒐めた理想の新魚を創成しようと、大掛りな設備で取りかかった。 和金の清洒な顔付きと背肉の盛り上りを持ち胸と腹は琉金の豊饒の感じを保っている。 鰭は神女の裳のように胴を包んでたゆたい、体色は塗り立てのような鮮かな五彩を粧い、別けて必要なのは西班牙の舞妓のボエールのような斑黒点がコケティッシュな間隔で振り撒かれなければならなかった。 超現実に美しく魅惑的な金魚は、G氏が頭の中に描くところの夢の魚ではなかった。交媒を重ねるにつれ、だんだん現実性を備えて来た。しかし、そのうちG氏の頭の方が早くも夢幻化して行った。彼は財力も尽きるといっしょに白痴のようになって行衛知れずになった。「赫耶姫!」G氏は創造する金魚につけるはずのこの名を呼びながら、乞食のような服装をして蒼惶として去った。半創成の畸形な金魚と逸話だけが飼育家仲間に遺った。 「Gさんという人がもし気違いみたいにならないで、しっかりした頭でどこまでも科学的な研究でそういう理想の金魚をつくり出したのならまるで英雄のように勇気のある偉い仕事をした方だと想うわ」 そして絵だの彫刻だの建築だのと違って、とにかく、生きものという生命を材料にして、恍惚とした美麗な創造を水の中へ生み出そうとする事はいかに素晴しい芸術的な神技であろう、と真佐子は口を極めて復一のこれから向おうとする進路について推賞するのであった。真佐子は、霊南坂まで来て、そこのアメリカンベーカリーへ入るまで、復一を勇気付けるように語り続けた。 楼上で蛾が一二匹シャンデリヤの澄んだ灯のまわりを幽かな淋しい悩みのような羽音をたてて飛びまわった。その真下のテーブルで二人は静かに茶を飲みながら、復一は反対に訊いた。 「僕のこともですが。真佐子さんはどうなさるんですか。あなた自身のことについてどう考えているんです。あなたはもう学校も済んだし、そんなに美しくなって……」 復一はさすがに云い淀んだ。すると真佐子は漂渺とした白い顔に少し羞をふくんで、両袖を掻き合しながら云った。 「あたしですの。あたしは多少美しい娘かも知れないけれども、平凡な女よ。いずれ二三年のうちに普通に結婚して、順当に母になって行くんでしょう」 「……結婚ってそんな無雑作なもんじゃないでしょう」 「でも世界中を調べるわけに行かないし、考え通りの結婚なんてやたらにそこらに在るもんじゃないでしょう。思うままにはならない。どうせ人間は不自由ですわね」 それは一応絶望の人の言葉には聞えたが、その響には人生の平凡を寂しがる憾みもなければ、絶望から弾ね上って将来の未知を既知の頁に繰って行こうとする好奇心も情熱も持っていなかった。 「そんな人生に消極的な気持ちのあなたが僕のような煮え切らない青年に、英雄的な勇気を煽り立てるなんてあなたにそんな資格はありませんね」 復一は何にとも知れない怒りを覚えた。すると真佐子は無口の唇を半分噛んだ子供のときの癖を珍らしくしてから、 「あたしはそうだけれども、あなたに向うと、なんだかそんなことを勧めたくなるのよ。あたしのせいではなくて、多分、あなたがどこかに伏せている気持ち――何だか不満のような気持ちがあたしにひびいて来るんじゃなくって、そしてあたしに云わせるんじゃなくて」 しばらく沈黙が続いた。復一は黙って真佐子に対っていると、真佐子の人生に無計算な美が絶え間なく空間へただ徒らに燃え費されて行くように感じられた。愛惜の気持ちが復一の胸に沁み渡ると、散りかかって来る花びらをせき留めるような余儀ない焦立ちと労りで真佐子をかたく抱きしめたい心がむらむらと湧き上るのだったが……。
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