洋上の死闘
「早くその箱をこっちへ出せ。なにをぐずぐずしとる!」 トラ十は、こわい顔をしてどなった。 帆村探偵は、進退極まった。 「なぜ、出さん。命の恩人たるおれの命令に、そむく気だな。よーし、お前がそういうつもりなら、早いところ、片をつけてやる。かくごしろ」 言下に、トラ十の手に、きらりと光ったものがある。 「あ、ピストル!」 「そうだ。お前の命はおれが助けた。この船に、助けてやったからなあ。ところで、お前は、おれのいうことを聞かない。そういう恩知らずのお前なんぞを、これ以上、だれが助けておくものか」 トラ十は、ピストルの狙いを定めた。 帆村の命は、乱暴者のトラ十の前に、今や風前の灯同様である。彼の命と、貴重なX塗料とが同時に失われそうになってきた。 「兄い、そんなこわい顔をしなくてもいいじゃないか。おれは、この箱をお前に見せないとはいいはしないじゃないか。ほら、このまま兄いにまかせるよ」 がたん! と、音がして、四角い箱は、トラ十の前へ投げ出された。 帆村は気が変になったのか、あんなに大事にしていた箱を、とうとうトラ十に渡してしまったのである。 トラ十のきげんが、にわかに直った。 「なんだ、世話をやかせやがって、はじめから、おとなしくこうすればいいのだ」 トラ十は、それでもまだ油断なく、ピストルの銃口を、帆村の胸にむけたままである。そして左手で箱をあけにかかった。さあ、一大事である。 「おい、この中に入っているのは、一たい何だ。正直に申し上げろ」 トラ十の追及は、一向ゆるまない。帆村はいよいよ困って、ことばもない。帆村の困っているのをトラ十は横目で見て、ふふと鼻で笑った。 「ふふふ。どうやら説明も何もできないほど貴重な品物と見える。そうときまれば、ぜひとも中身を拝見せずにゃいられない。これは、福の神が、向こうからころげこんできたぞ」 トラ十は、にわかに上きげんになった。そして箱を拳でたたきこわすと、中から、白い布をまいた長いものを取り出した。 「おれが、あけてやろう」 「これ、お前は動くな。動くと、これがものをいうぞ」 トラ十はゆだんをしない。彼は右手にピストルをもち、左手で、その布をほどいた。中からは包紙が出て来た。 「いやに、ていねいに巻いてあるなあ。よほど大事なものと見えるが、厄介千万じゃないか。おや、まだ、その下に別な紙で包んである。これはかなわんなあ」 トラ十はだんだんじれながら、何重もの包を、つぎつぎにほごしていった。そのうちに最後の油紙包がとかれて、中からチョコレート色の、五十センチばかりの棒がでて来た。それこそ、X塗料を固めたものであった。それを、ある特殊な油を使って溶かすと、X塗料となるのだった。 「おや、へんなものが出て来やがった」 とつぜん、帆村は猛然と飛びこんだ。塗料の棒に見入るトラ十のからだに、わずかの隙を見出したのであった。帆村の鉄拳が、小気味よく、トラ十の顎をガーンと打った。 「えーッ!」 「しまった。うーん」 トラ十、顎をおさえた。 つづいて帆村は、ピストルをたたき落した。しかしトラ十は無類の豪の者である。一、二度は、どうと艫にたたきつけられたようになったが、すぐさま、やっと、かけ声もろとも、はね起きた。 「小僧め、ひねりつぶすぞ」 「なにをッ」 せまい船内で、はげしい無茶苦茶な格闘がはじまった。勝敗は、いずれともはてしがつかない。船は、今にも、ひっくりかえりそうである。帆村は、そのたびに、船の重心を直さなければならなかった。 「これでもかッ!」 「ぎゃッ」 帆村の、猛烈な一撃が、ついに勝敗をけっした。トラ十はよろよろと、後によろめくと、足を舷に払われ、あっという間に大きな水煙とともに、海中に墜落した。 帆村は、すぐさま艫へとんでいって、舵をとった。そして水面に気をくばった。 ところが、ふしぎなことに、懐中に落ちたトラ十は、いつまでたっても浮いてこなかった。二分たっても、三分たっても、とうとう十分間ばかり、水面を見ていたが、ついにトラ十は浮かんでこなかった。 「はて、落ちるとき、どうかしたのかな」と、帆村は、首をひねった。 (が、そんなことはどうでもいい。あのわずかな隙を狙って、うまくトラ十をたたきのめしたのだ。そして、自分の命をとりとめ、それから、貴重なX塗料を) 帆村はそこで、目を船内に転じて、きょろきょろとあたりを見まわした。 船内には、X塗料を巻いてあった布や紙が、ちらばっていた。帆村は、その間を探しまわった。 「おや、どこへいったろう。X塗料の棒が見あたらないぞ」 と叫んだが、ふと彼は、海中へ視線を走らせると、はっと気がついて、一瞬時に、顔面が蒼白となった。 「し、しまった。トラ十め、あれを手にもったまま、海中へ落ちた!」 さあ、いよいよ一大事だ!
無念の報告
「そいつは、遺憾至極だなあ」 黄島長官は、ほんとうに、遺憾にたえないといった語調で、とんと、卓子のうえを拳でたたいた。 ここは、検察庁の一室であった。 長官の前に、重くしずんだ面持で立っているのは、別人にあらず、帆村荘六その人であった。 帆村は、ついに一命をまっとうして、今日、東京についたばかりであった。彼は、とるものもとりあえず、重大な報告をするため、黄島長官のもとにかけつけたのだった。 「まことに、遺憾です。私は、長官に、面をあわせる資格がありません」 「うむ、君の骨折は感謝するが、せっかく、手に入れながら、失うとはのう」 長官は、X塗料の棒のことを残念がっているのだった。 「おい、帆村君。残っているのは、今ここにあるこれだけか」 長官は、卓子のうえに広げられた散薬の紙包ほどのものを指さす。その紙のうえには、なんだかくろずんだ粉が、ほんの少量、ほこりのようにのっていた。 「はい、これだけであります。これは、塗料の棒を包んであった油紙を、よく注意して、羽根箒ではき、やっとこれだけの粉を得たのです」 「実に、微量だなあ。これじゃ、分析もなにもできまい」 「はあ」 帆村は、唇をかんで、頭をたれるより外に、こたえるすべをしらなかった。 「しかし、これでも無いよりはましだ。いたずらに、取り返しのつかぬことをなげくまい。そして、不利な現状の中から、男らしく立ち上るのだ」 長官は、帆村のために、慰めのことばをかけた。帆村はいよいよ穴もあらば入りたそうである。 「とにかく、工場の方と連絡をしてみよう。彦田博士に、ここへ来てもらおう」 「彦田博士?」 「君は、彦田博士を知らないのか。博士は、篤学なる化学者だ。そして極東薬品工業株式会社の社長だ。今、呼ぼう」 長官は、ベルを押して、秘書をよんだ。 「彦田博士を、ここへ案内してくれ」 「は」 しばらくすると、秘書の案内で、彦田博士が、部屋へはいってきた。 帆村が見ると、博士は、五十を少し越えた老学者であった。 そのとき、帆村は、ふと妙な感にうたれたのである。この彦田博士には、前に、どっかで会ったことがあると。 しかしほんとうは、帆村は、まだ一度も彦田博士に会ったことがなかったのであった。それにもかかわらず、博士に会ったことがあるような気がしたのは、別の原因があったのだ。そのことは、だんだんわかってくる。 長官は、両人を、たがいに引き合わせると、 「ところで、彦田博士。例のX塗料が手に入ったのです」 「えっ、X塗料が、ほんとうですか。いや、失礼を申しました。でも、あまりに意外なお話をうかがったものですから、あれが、まさか手に入るとは」 「そこに立っている帆村君が、大苦心をして、とってきてくれたのだが、惜しいところで、大きいのを紛失して、残ったのは、そこにある紙にのっているわずかばかりだけですわい」 と、長官は、卓子の上を指した。 「えっ、この紙ですか。どこに、それが」 博士が、面食うのもむりではなかった。帆村は、また冷汗をながした。そして博士に、残る微量のX塗料のことを説明したのであった。 「どうですか、博士。それだけの資料によって、X塗料の正体を、うまく分析ができるでしょうか」 博士は、非常に慎重な手つきで、X塗料の粉の入った紙を目のそばへ近づけ、しさいに見ていたが、やがて、力なげに首をふった。 「彦田博士、どうですかのう」 「長官。これでは、微量すぎます。残念ながら、定量分析は不可能です」 「出来ないのですな」 黄島長官は、はげしい失望をかくすように目をとじた。 彦田博士も、帆村荘六も、しばし厳粛な顔で沈黙していた。しかし、ついに博士が口を開いた。 「長官。何しろこの外に品物がないのですから、困難だと思いますが、私はこれを持ちかえった上で、出来るかぎりの手はつくしてみます」 「そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜の目もねむられませんからねえ」 黄島長官は、立ち上って、彦田博士に握手をもとめ、そして、つよくふった。 「それから、帆村君を、われわれの連絡係として、ときおりあなたの工場へ、使してもらいますから、よろしく」 長官は、ことばを添えた。
捨子は悲し
話はかわって、その後の房枝はどうなったであろうか。 あのおそろしい雷洋丸の爆沈事件にあい、房枝は、死生の間をさすらったが、彼女ののったボートが、うまく救助船にみつけられ、無事に助けられたのであった。 彼女たちは、その明日の夕刻、横浜に上陸することが出来た。もう無いかと思った命を拾うし、そして故国の土をふむし、房枝の胸はよろこびにふるえた。 ここで、彼女は、同胞のあたたかい同情につつまれて、涙をもよおした。 手まわり品や、菓子や、それから、肌着や服までもらったのである。そぞろ情が身にしみる。 だが、その一方において、外事課の係官のため、厳重な取調べをうけた。なにしろ国籍のあやしい者がぬからぬ顔で入りこんでくるのを警戒する必要があったし、その上、雷洋丸の爆沈原因をつきとめるためにも、生き残った人たちをよく調べる必要があったのである。 「あなたの原籍は?」 係官は、用紙をのべて、取調をすすめる。 「さあ」 房枝は、困ってしまった。彼女は、両親を知らない。だから、原籍がどこであるか、そんなことは知らない。 松ヶ谷団長がいてくれれば、ここは、うまくとりつくろうことができたのであるが、団長は大怪我をしたと聞いた後に、どうなったかよく知らない。 「原籍をいいなさい」 「原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです」 「捨子だって、君がかい」 係官は、眼鏡越しに、目を光らせた。原籍を知らぬ奴はあやしい。 「でも、おかしいじゃないか。君の話だと、この前、日本を出発して外国へ渡航したそうだね。そのとき、もし原籍を書かなければ、旅行は許可されないよ。そのとき、原籍はどこと書いたか、それをいいなさい」 係官は、明らかに、房枝を、うたがっている様子であった。 そうでもあろう、房枝は、日本人ばなれした大きなからだの持主だったし、皮膚の色も、ぬけるような白さだったし、外国で覚えた化粧法が、更に日本人ばなれをさせていた。 「団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ」 「それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう」 「まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ」 「その証明がつかなければ、ここは通せない」 「では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ」 それから房枝は、いろいろと願って、生残りの団員たちを呼びあつめてもらった。こんなときに帆村がいれば、どんなに助かるかもしれないのだけれどと、くやしくなった。 けっきょく、仲間の人たちの証言も、係官を納得させるほど十分ではなかったが、船員の中に、房枝が乗船当時調べたことをおぼえている者があって、その証言で、やっと上陸を許可された。ただし条件つきであった。 「常に、居所を明らかにしておくこと。毎月一回、警察へ出頭すること。よろしいか」 房枝は、今日ほど自分が捨子であることを、もの悲しく思ったことはない。原籍がわからないために、こんな疑いをうけるのである。 (ああ、お母さま、お父さま。房枝は、今、こんなに悲しんでいます。ああ) 彼女は、胸に手をおいて、心の中ではげしく、まだ見ぬ父母に訴えた。 この房枝のかなしみを、いつの日、誰が解いてくれることやら。 やっと解放された房枝たちミマツ曲馬団員は、一まず横浜のきたない旅館に落ちついた。これから、一同の身のふり方を、いかにつけるのかの、相談が始まった。けっきょく、他に食べる目当もない一同だったから、人数は半分以下にへったが、ともかくも、空地にむしろを吊ってでも、興行をつづけることにきめた。そしてその第一興行地を、今生産事業で賑わっている東京の城南方面にえらび、どうなるかわからないが、出来るだけのことをやってみようということになった。 城南方面を第一興行地にしようじゃないかといいだしたのは、調馬師の黒川だった。彼は松ヶ谷団長にかわって、ミマツ曲馬団の名をつぐこととなった。 「さあ、それでは、俺と、もう一人、女がいいなあ、そうだ房枝嬢がいい。二人で、これからすぐ城南へ出かけて、借地の交渉をしてこよう。それから、何とかして、衣裳の方も東京で算段してこよう」 「おい、黒川、いや黒川団長、城南には、お前、心あたりの空地があるのか。今は、空地がほとんどないという噂だぞ」 「なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ」 極東薬品工業? 聞いたような名だ。いや、それこそ彦田博士の工場であった。今そこでは、帆村の持ちかえった極秘の塗料の研究がすすめられている。
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