ターネフ邸にて
自動車がついたのは、一軒のりっぱな洋館であった。その間も黒川は、なにかさかんにわめいていたが、舌がもつれていて、何をいっているのかさっぱりわけがわからなかった。 なにしろ、黒川の怪我の程度が、はっきりしないので、房枝は心配であった。今、黒川にどうかなってしまわれると、せっかく息をふきかえした、新興ミマツ曲馬団の全員が、また路頭に迷わなければならない。だから、房枝は、黒川をまもり、そして彼に、一刻も早く医師の手当をうけさせたいと思ったのである。 そのために、彼女は、心ならずも、帆村のそばを車で通りすぎてしまったのだ。もっとも彼女は、運転台のターネフに向かい、車をとめてくれるようにとこえをかけたが、ターネフはそれがわからないらしく、車は、ずんずんとスピードをあげていったのだった。 それに、そばにいるニーナが、 「お嬢さま。しんぱいいりません。よいドクトルをしっていますから、その人にみせましょう。わたくしが、手落なくしますから、しんぱいいりません」 と、しきりに房枝をなぐさめたのであった。 「ええ、どうか、一刻も早く、医師にみせていただきたいのです。これは、あたくしたちの大事な主人ですから」 「わかります。よくわかります」 美しいニーナは、うなずいた。 自動車は、附近の病院の門をたたくかと思っていたのに、そのままずんずん山の手の方へ走って、やがて今もいったように、大きな洋館の、玄関についてしまったのである。 自動車の警笛がきこえたとみえて、玄関の扉があき、中からきちんと身なりをととのえた日本人のボーイが、とんででてきた。 「さあ、ここが、わたくしの邸です。おはいりください」 ニーナは、ひじょうな愛嬌をみせて、房枝にいった。 ターネフは、運転台からとび下りるようにして、ボーイになにかを叫んだ。 ボーイは、それをきくと、あわてて玄関の中へとびこんだ。彼は、またすぐ、中からとびだしてきた。彼のうしろには、たくましい数名の外人ボーイがしたがっていた。そして自動車の扉を開いて、まだ呻っている黒川団長のからだを、皆して、しずかに担ぎだしたのであった。 房枝も、そのあとにしたがって、玄関をはいっていった。 中は、見事にかざられた大広間であった。 ニーナは、房枝をまねいて、その隅にある小さい卓子へ案内した。 その卓子のうえには、電話機がのっていた。ニーナは、受話器をとって、廻転盤をまわした。 しばらくして、相手が出てきた。ニーナは、英語で早口に喋る。ドクトル・ワイコフという名が、しきりに出てくる。 「では、すぐにお出でをお願いしてよ。こっちは、皆でしんぱいしているのですからね。えっ、それはそうよ。ふふふふ。とにかく、おいでをお待ちしていますわ」 房枝は、巡業先がメキシコであったので、英語は少しわかっていた。だから、ニーナの電話も、だいたい了解した。ドクトル・ワイコフがすぐ診察にきてくれることがわかった。だが(ええ、それはそうよ、ふふふふ)とは何のことであろうか。ちょっと気になる語であった。 (ゆだんはならない!) 房枝はそう思った。 ドクトル・ワイコフが現れたのは、それからものの十分とたたない後のことだった。長身のひじょうに貴族的な顔をもった医師だった。 彼は、長椅子の上に寝ている黒川のそばに、自分のもってきたカバンを開き、診察にとりかかった。 「うん、ちょっと重傷だが、今手当をして、しばらく安静にさせとけばいいでしょう。お湯がわいているでしょうね。早くもってきてください。ちょっと手当をしておきますから」 房枝は、黒川の後頭部の傷を見ていると、なんだか気が遠くなりかけた。こんなことではいけないと思い、なんとかして、黒川の手当の終るまで、がんばろうと、自分の気をはげましたのであった。手当はなかなかすまなかった。ニーナは、房枝のそばへきて、彼女を横から抱えながら、大丈夫よ、大丈夫よと、しきりになぐさめた。そのころになって房枝は、やっと雷洋丸でこのニーナと会ったことを思い出したのであった。
悩ましい花園
房枝は、その夜をニーナの邸ですごした。 黒川の傷は、かなり重く、熱が高くて、うわごとをいいつづけだった。だから房枝は、ニーナやドクトル・ワイコフの意見にしたがって、黒川をそのままそこに寝かせておくほかないと思った。 ニーナとワイコフ医師とは、いくたびか、その広間へ下りてきて、親切にも、黒川を見守り、そしてまた房枝をなぐさめた。師父ターネフだけは、寝室へはいったらしく、はじめにちょっと顔を出しただけで、あとは現れなかった。 (ずいぶん親切な人たちだわ) と、房枝は、心の中で、あつい感謝をささげた。 房枝は、なにもしらない純情な少女だったのである。かりそめにも、このようなニーナたちの親切の中に、おそろしい棘がかくされていようなどとは、思ってもみなかった。お人形のように純情なことは、いいことである。しかし、そういう場合に、おそろしい棘のあることを気づかないでいることは、いいことではない。 夜は明けはなれた。 カーテンをひくと消毒薬でむんむんする室内のにごった空気が外へ出ていって、入れかわりに、サイダーのようにうまい朝の外の空気が入ってきた。 「ああ、房枝さん。あなた、おつかれでしょうねえ」 ニーナ嬢が、いつの間にか階段を下りて、房枝の横に立っていた。房枝は、外に見えるうつくしい花壇にながめ入っていたので、ニーナの近づいたのを知らなかった。 房枝は、しみじみと礼をいった。黒川は、熱は高いが、幸いにも今ぐっすりと、ねこんでいるのだった。 「ああ、そう」 と、ニーナはうなずいて、 「じゃあ、あの花壇のあるところへいってみません? いろいろとうつくしい花や、香のいい花が、たくさんあるのです。あなた、花おきらいですか」 「いいえ、花はだいすきですの」 「ああそう。では、これからいって、あなたの好きな花を剪ってあげましょう。あなた、どんな花、好みますか」 「さあ、好きな花は、たくさんございますわ」 房枝は、黒川がよくねむっているのに安心して、ニーナ嬢とつれだち、花壇へ下りた。全くすばらしい花園だ。小学校の運動場ほどの大きさのなだらかな斜面が、芝生と花でうずめられているのだった。朝陽をあびて花は赤、青、黄、紫の色とりどりのうつくしさで、いたいほど目にしみた。そしてえもいわれぬ香が、そこら中にただよい、まるで天国へ来たような気がするのであった。 「まあ、うつくしい」 房枝は、徹夜の看護に充血した目を、まぶしそうにしばたたきながらいった。 「ここにある花の種類は、七百種ぐらいあります」 「え、七百種。ずいぶん、種類が多いのですわねえ」 「その中に、メキシコにあって、日本にない花が、三百種ぐらいもまじっています。なかなか苦心して持ってきました」 「そういえば、あたくしがメキシコでお馴染になった花、名前はなんというのかしりませんけれど、その花があそこに咲いていますわ」 「じゃあ、あれをさしあげましょう」 「いいえ、花はあのままにしておいた方がいいんですの。きっていただかない方がいいわ」 と、房枝は、上気した頬を左右にふって、辞退した。 「えんりょなさらないでよ」 「いいえ、その方がいいのです」 と、房枝はニーナの好意を謝したが、そのとき気がついて、 「あーら、このいい香は、なんでしょ。あら、バラの匂だわ。まあ、これは大したバラ畠ですわね」 房枝は、とつぜん目の前にひらけた一面のバラの園に、気をうばわれた。 ところがニーナは、そのすばらしいバラの園を、なぜか自慢しなかった。そして、房枝の腕をとると、前へ押しやるようにして、そのところを通りぬけた。 房枝は、ニーナの心を、はかりかねた。 「ニーナさんは、バラの花が、おきらい」 「えっ」 と、ニーナは、妙に口ごもり、そしてあわてて首をふった。 「わたくし、きらいではありませんけれど、好きでもありません」 と、わけのわからないことをいった。 そのとき、房枝のあたまに、ふと浮かんだことがあった。それは何であったろうか。 外でもない。バラオバラコという怪しい名前のことだ、あの脅迫状に託してあった。
朝刊におどろく
バラオバラコ? これを、房枝は、こじつけかもしれないが、次のように、あたまの中で書きなおしてみた。 バラ雄バラ子! そしてこのニーナの邸には、すばらしいバラの花園があるのだった。しかもニーナは、そこを通るとき、いやな顔をした。すると何だか、バラ雄バラ子というのが、わけがありそうにもおもわれないこともない。 (でも、まさか、あたしたちは、あの脅迫状を書いた人のとこへ来ているのではないでしょうに。あのとき、ネオン・ビルで、あたしたちを待ちかまえていたのは、トラ十だったんですもの。だとすると、バラオバラコというのは、トラ十の変名だということになるけれども……) 妙なことから、房枝はきゅうに里ごころがついた。 「あのう、ニーナさん。しばらく黒川さんのことを、おねがいしますわ」 「ええ、いいです。しかし、どうかしましたか」 「いいえ、べつにどうもしませんけれど、あたし、ちょっと曲馬団へかえってきますわ。ゆうべから、団長とあたしが団の方へかえってこないので、皆が心配しているでしょうから」 「ああ、そうですか。あのう、それ、もっとあとになさいませ。食事の用意できたころです。一しょに食事して、それからになさい」 「でも、皆が心配しているといけませんから」 「まあ、待ってください。とにかく、食堂へいってみましょう。あたくし、十分ごちそう、用意させました。メキシコから来たよいバタあります。チーズ、おいしいです」 ニーナは、しきりに房枝をとめるのだった。 房枝は、それまで黒川の重傷を心配するあまり、曲馬団の仲間のことを、すっかり忘れていたが、さぞ今ごろは、彼らはさわぎだして、警察へいったりしていることだろう。警察へいっても、房枝たちのいどころがわかるわけがない。房枝は、すぐにかえる決心をした。 ニーナは、屋内へいそぐ房枝の腕をかかえて、しきりに朝食をとっていけとすすめる。 広間へ房枝が上ったとき、彼女は、 「あらっ」 といった。それは[#「それは」は底本では「それに」]、師父ターネフが、彼女を見ると、あわてて奥へ姿を消したからであった。そのときのターネフは、一向牧師らしからぬ服装をしていたからであるかもしれない。ニッカーをはいていて、まるでゴルフにでもいくような姿だった。靴は、泥にまみれていたようにも思われる。それにしても、まさかあわてて奥へ逃げこむこともなかろうものを。 ニーナは、房枝をむりやりに食堂へひっぱっていった。その食堂には[#「その食堂には」はママ]、映画でよく見るのと同じく、華麗ですがすがしい広間で、芝居の舞台に使うような椅子や卓子がならんでいた。 房枝は、むりやりに、一つの椅子に腰をかけさせられてしまった。 ニーナは、ちょっとといって、いったんかけた席を立って奥へひっこんだが、間もなく急ぎ足で現れた。手には、日本の新聞を手にしている。 「おお房枝さん。あたくし、あなたの帰るのをとめて、いいことをしました」 「え。まあ、どうして」 房枝は、ニーナにそういわれてひどく胸さわぎがした。 「この新聞、ごらんください。たいへんです」 「えっ、たいへんとは、どうしたんでしょう」 房枝は、ニーナの手にした新聞を、おそるおそるのぞきこんだ。 「この記事、ごらんなさい。けさミマツ曲馬団、火災をおこして焼けてしまいました」 「まあ」 房枝は、夢を見ているのではないかと、あやしんだ。 だが、手にとった新聞には、まちがいなくミマツ曲馬団が今暁二時、一大音響とともに火を出して、すっかり焼けてしまったことと、そして団員と思われる二十数名の犠牲者が、その焼跡から発見されたことが、写真まではいって報道されているのであった。 「な、なんということでしょう」 その写真には、炎々たる焔に包まれた、ミマツ曲馬団の天幕がうつっていた。夢ではないのだ。なんという不運なミマツ曲馬団であろうか。一体、この火事の原因は何であろうか。 新聞記事には“原因は目下取調中であるが、ガソリン樽が引火爆発したのではないかとの説もある”[#「説もある”」は底本では「説もある。」] (ガソリンの樽――そんなものはない。ガソリン樽の引火なんて、そんなことはうそだ!) と、房枝は、はやくも、記事のあてにならないことを見やぶった。 では、一体どうしたのであろうか。 爆発するものなんか、おいてなかったはずである。しかも団員が、それがために二十数名も死んでしまうなんて、そんなひどい爆発力をもったものはないはず。 (だが、ひょっとしたら、あれではないかしら) 房枝の胸は、それを考えついたとき、まるで早鐘のように鳴りだした。 ああ、あの花籠だ! あれこそ爆薬入りの花籠ではなかったか? おそろしかった雷洋丸事件の当時のことが、今更にありありと思いだされた。房枝は、そばにニーナ嬢が立っていることも忘れて、 「ああ、きっとあれだ!」と、こぶしを握って叫んだ。
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