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桜の名所の玉川べりも、花はすっかり散って、葉桜が涼しい蔭を堤の上に落していた。そうだ、きょうからもう五月に入ったのだ。 帆村を案内しようという東京キネマの撮影所は、ちかごろトーキー用の防音大スタディオを建設したが、それが堤の上からよく見えた。 門を入ると、馴染の門衛が、俄かに笑顔を作りながら出て来た。 「お連れさんは?」 「これは俺の大の親友だ。帆村という……」 「よろしゅうございます。……ところで貴方に御注意しときますがな、どうも余り深入りするとよくありませんぜ」 と門衛は改まった顔で意味深長なことをいった。 「なんだい、深入りなんて?」 「……」彼はこれでも判らないかというような顔をしたのち「あれですよ、三原玲子さんのことです。貴方の御贔屓の……」 「これこれ」 私は帆村の方をちらと見たが、彼はスタディオの巨大なる建物に見惚れているようであった。 「三原玲子がどうかしたかい」 「この間、刑事がここへずかずかと入ってきましてね。あの娘を裸にして調べていったのですよ」 「そりゃ越権だナ。裸にするなんて……」 「尤も是非署へ引張ってゆくといったんですが、所長が今離せないからと頼みこんだのです。その代り、桐花カスミさんなどの女連が立ち合って裸の検査ですよ」 「ど、何うしたというんだ」 「よくは判りませんが、何か探すものがあったらしいのですよ。でも、まア三原さんの体からは発見されないで済んだようですが外に二人ほど男優とライト係とが拘引されちまって、まだ帰ってこないのです。とにかくあっしは三原玲子さんばかりはお止しなさいと云いますよ」 「変なことを[#「変なことを」は底本では「辺なことを」]云うなよ、はっはっはっ」 私は帆村の待っている方へ行って、彼を撮影場の方へ誘った。 「いまの三原レイ子とかいうのは、何うしたのだ」帆村はもうちゃんと聞いていた。 私はすっかり照れてしまった。が、隠してももう隠しきれないと思ったので、彼に一と通り説明をした――三原玲子というのは、この東キネの幹部女優桐花カスミの弟子に当る新進のインテリ女優だった、彼女は私と一緒にL大学の理科の聴講生だったことがあって、それで旧知の仲だった。その玲子はあまり美人とは云えない方で、スクリーンに出ることはまず稀で、もっぱら桐花カスミの身の周りの世話をして重宝がられていた。蒼蠅い世間は、玲子の殊遇が桐花カスミとの同性愛によるものだろうと、噂していたが、それは嘘に違いない。……私の知っていることはそれだけだというと、帆村はひとの顔を穴の明くほど見詰めて、やがてにやりと嗤った……。 厳重ないくつかの関所を通って、私達は漸くトーキースタディオに入ることができた。中へ入ると、一切の騒音は、厚いフェルトの壁に吸いとられて、耳ががあんとなったような感じがした。声を出してみると、ばさばさという音しか出ず、変な工合だった。ホールの真中には、銀座の四つ角のセットが立っていて、その前で現代劇の撮影が始まっていた。大勢の男女優が、いろいろの服装をして、シャツ一枚の撮影監督の指揮に従って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしていた。――虫籠のようなマイクロホンが、まるで深淵に釣を垂れているように、あっちに一つ、こっちに一つとぶら下っている。 「見給え、あれが桐花カスミだ」 と私は帆村に主役の女優を教えた。 帆村は一向気がないような顔をして、トーキー撮影場の天井ばかり見上げていた。 「それからついでに紹介するが、あすこでルージュを使っているのが、例の三原玲子さ」 「三原玲子?」帆村は初めて眼を天井から、群衆の方に移した。「おお、あの女が……」 帆村はなにに駭いたか、私の腕をしっかり握って目を瞠った。私はその場の事情を解しかねたが、彼はどうやら玲子を前から知っていたらしい。 「おい出よう」 いま入ったばかりなのに、帆村は私を無理やりに引張って外へ連れ出した。 私はすくなからず不満だった。それを云うと、帆村は私を宥めていった。 「興奮してはいけないよ。あの三原玲子という女は、例の暁団の一味なんだ。何を隠そう、ギロンで僕に密書を渡そうとしたのは正しくあの女なんだ」 「何だって? 玲子が暁団員……」 何という意外なことだろう。人もあろうに玲子が暁団に関係しているとは。私はさっき門衛から聞き込んだことを思い合せた。こうなれば、早く帆村に知らせてやるほかない。 「僕は今暫く玲子に見られたくないのだ」と帆村は深刻な表情をして云った。「しかし彼女が例の女に違いないということをもっと確かめたい。どこかで写真を見せて呉れないかしら」 「さあ、――」 「とてものことに、動いているやつ――つまり活動写真で見たいね。試写室はどうだろう」 試写室というわけにも行くまい。私は考えて、彼をフィルムの編集室へ連れてゆくのが一番簡単であり、そして自由が利くと思った。――それを云うと、帆村は満足げに、大きく肯いた。 フィルム編集室は、スタディオからかなり離れたところにあった。そこに働いている連中とは前々からよく知り合っていた。 「桐花さんのフィルムを映してみせてくれないか、この人が見たいというので……」 というと、木戸という編集員が出てきて、 「じゃあ、いま撮影中だけれど『銀座に芽ぐむ』の前半を見せましょうか」と気軽に引受けてくれた。 帆村と私とは、狭い編集用の試写室の中に入って黒いカーテンを下ろした。 「スタディオが出来て、録音がとてもよくなりましたよ……」 木戸氏は映写函の中から、私たちに自慢をした。やがて小さいスクリーンに、ぶっつけるような音が起ると、現代劇「銀座に芽ぐむ」が字幕ぬきでいきなり映りだした。 帆村は私の隣りで熱心に画面を見ているようだったが、三原玲子はなかなか現われてこなかった。そして暫くすると口を私の耳のところに寄せて囁いた。 「ちょっと可笑しいことがあるぜ。……桐花カスミの声は実物より迚も良すぎるじゃないか。さっき聴いて知っているが、これはどうも桐花カスミの声ではないようだ」 この質問には、実のところ私は、帆村の注意力の鋭いのに駭かされてしまった。 本当のことを云えば――これは会社の大秘密であるけれども……、桐花カスミの悪声について一つのカラクリが行われているのだった。トーキー時代が来ると、桐花カスミの如きはまさに映画界から転落すべき悪声家だった。しかし実を云えば彼女は某重役の籠い者であったから、そこを無理を云って、辛うじて転落から免れた。さりながら重役とても、会社の映画の人気がみすみす墜落してゆくのを傍観していられないから、そこでこのカラクリの手を考えた。――三原玲子は、実は桐花カスミの「声の代演者」だったのである。 声の俳優――そして三原玲子は、会社の秘密の役を演じ、桐花カスミを助けていたのであった。それは何という奇異な役柄であったろう。そんなわけで、三原玲子の存在は、一般ファンには殆んど知られていなかったのである。――そのことを手短かに帆村に語ってやると、流石の彼も感にたえかねたか、首を左右にふりながら、 「姿なき女優――はて、どこかで聴いた様な言葉だが……」 と呟いた。
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