甥の蜂葉助手
女客を送出した帆村が、読書室へしずかに足を踏み入れたとき、窓ぎわに立っていた青年がふりかえった。 「おじさま、お早ようございます」 「やあ、ムサシ君か」 甥の蜂葉十六、十六だから〔十六六指というゲームがあるから〕ムサシだとて帆村は彼をムサシという。しかしこの古い洒落は今どきの若い者には通じない。 「僕はみんな聞いていましたがねえ」と蜂葉は壁にはめこみになっている応接室直通のテレビジョン装置を指し、「おじさんは今の女に惚れているんですか」 物にさっぱり動じない老探偵ではあったが、彼の甥だけは老探偵の目をむかせる特技を持っていた。――帆村は目を大きくむいて失笑した。 「惚れているとは……よくまあそんな下品な言葉を発し、下品なことを考えるもんだ。今の若い者の無軌道。挨拶の言葉がないね」 「だって、そういう結論が出て来るでしょう。おじさまは今のお客さんから当然聞き出さなくてはならない重大な項を、ぼろぼろ訊き落としています。なぜ名探偵をして、かの如く気を顛倒せしめたか。その答は一つ。老探偵――いや名探偵は恋をせり、あの女に惚れたからだと……」 「というのが君の推理か。ふふん。で、私がいかなる重大事項を訊き落としたというのかね」 「たとえば、ええと……あの婦人がなぜその男を恐れているのか、その根拠をはっきりついていませんね」 「恐怖の理由は、あのひとがはっきり説明して行った。その男の顔がたいへん恐ろしいんだそうな。それがいつもあのひとをつけねらっていると思っている。それだけの理由だ」 「それはあまりに簡単すぎやしませんか。恐怖の理由をもっと深く問い糺すべきでしたね。真の原因は、もっともっと深いところにあると思う」 「君はわざわざ問題を複雑化深刻化しようとしている。それはよくないね。物事は素直に見ないと誤りを生ずる」 「でも、それではおじさまの判定は甘すぎますよ。これはすごい大事件です」 「そうかもしれないが、とにかくあの婦人の立場においては、あれだけのことさ」 「僕は同意が出来ませんね。おじさま。あの婦人が恐怖しているその男はどんな顔の男か。それを訊かなかったじゃないですか。こいつは頗る大切な事項なのに……」 「そんなことは訊くまでもないさ。これから行って、あのひとにまといついているその男の顔を実際にわれわれの目が見るのが一番明瞭で、いいじゃないか」 「呑気だなあ」 「ムサシ君。事件依頼者からは、なるべくものを訊かないようにするのがいいのだよ。こっちの手で分ることなら、それは訊かないに越したことはない」 「そうですかねえ」 甥の蜂葉十六は不満の面持だ。 「君も一緒に行ってくれるだろう。私はあと五分で出掛ける。もちろんあの恐ろしい顔の男を見るためにだ」 「僕はもちろんお供しますよ、おじさま」 甥は急に笑顔になった。 水銀地階区三九九――が谷間シズカと碇曳治との愛の巣の所在だった。 老探偵は甥と肩を並べて、その近くまでを動く道路に乗って行き、空蝉広場から先を、歩道にそってゆっくり歩いていった。 このあたりは五年ほど前に開発された住宅区であったが、重宝な設計のなされているのに拘らず、わりあいに入っている人がすくなかった。それは場所が、最も都心より離れていて、不便な感じのするためであったろう。しかし時間の上からいえば、高速度管道を使えば、都心まで十五分しかかからないのであったが……。みんな性かちになっているんだ。 探偵は、ゆるやかな坂道をあがっていった。この坂の上が三九九の一角で、そこにアパートがあるはずだった。最近のアパートは目に立たぬ入口が十も二十もあって、人々は自分の好む通路を選んで入ることが出来る。――それだけに探偵商売には厄介だった。 「来たね。ふうん。これはあのあたりから入りこむのがいいらしい」 老探偵の直感は、多年みがきをかけられたものだけに凄いほどだった。甥は、いざとなれば、すぐ伯父の前へとび出して、相手を撃ち倒すだけの心がまえをして、しずかについて行く。 地中に眼鏡橋が曲ってついている――ような通路がついて、奥の方へ曲って入りこんでいる。が、天井にはガス放電灯が青白い光を放って、視力の衰えた者にも十分な照明をあたえている。 老探偵が、急に立停った。心得て甥が伯父の背越しに頤をつき出す。 「七つ目のアーチの蔭に――ほら、身体を前に乗り出した」 「見えます、僕にも。ああッ。……実にひどい顔!」 「ううむ」老探偵も携帯望遠鏡を目にあてたまま呻る。「ああいう畸形にお目にかかるは始めてだ。胎生学の原則をぶち壊している。傾壊しかかった家のようじゃないか」 「おそろしい顔があったものですね」 前につき出した顔や、後に流れたような顔は、それほどふしぎではない。その他のおそろしい顔であっても、まず原則として、顔のまん中の鼻柱を通る垂直線を軸として、左右対称になっているものである。おそろしい大関格のお岩さまの顔であっても、腫物のためなどで左右の目がやや対称をかいているが、全体から見ると顔の軸を中心として左右対称である。――ところが今見る顔はそうでない。第一、鼻柱が斜めに流れている。そして全体が斜めに寝ている。ふしぎな顔だ。その上に、腫物のあととも何とも知れぬ黒ずんだ切れ込みのようなものが顔のあちこちにあって、それが彼の顔を非常に顔らしくなくしている。唇も左の方に、かすがいをうちこんだようなひきつれが縦に入っている。こんな曲った顔、こんな気味の悪い顔は、図鑑にものっていない。いびつな頤は見えるけれど、いびつである筈の頭蓋は茶色の鍔広の中折帽子のために見えない。 老探偵は、いつの間にか相手を小型カメラの中におさめていた。 「おいムサシ君。これからあの人物に、面会を求めてみる」 「逃げ出すようなら取押えましょうか」 「いや、相手の好きなままにして置くさ。機会はまだいくらでもある」 その言葉が終るが早いか、老探偵は通路の角からとび出した。甥はそれを追いかけるようにして進む。 が、老探偵の歩調は、だんだん緩くなっていった。彼の口には、いつの間にかマドロス・パイプが咥えられていた。煙草をすっかりやめた彼にも、仕事の必要からして代用煙草のつまったパイプを嘗めることもある。彼はゆっくりした歩調で、怪漢の前に近づいた。そして遂に足を停めた。 「失礼ですが、谷間シズカさんという方の住居が、このへんにございませんでしょうか」 突然話しかけられて怪漢はびっくりしたらしく、奇怪な顔が更にひん曲ってふしぎな面になったが、男はすぐ手袋をはめた両手で、自分の目から下の顔を蔽った。彼ははげしく左右に首を振った。 「左様で。ご存じありませんか。それは失礼を……。へんなことを伺いますが、あなたさまは前に船に乗っていらっしゃらなかったでしょうか。わしも永いこと船乗りだったんですが、わしはあなたさまを何処かでお見受けしたように思いますがな……」 すると相手は、獣のような叫び声をあげた。そして老探偵をその場へつきたおすと自分は素早くばたばたと逃げ出した。甥の蜂葉が、ピストルを構えた。老探偵が「射つな」と叫んだ。怪漢は、ひどく足をひきながら、蝙蝠が地面を匐うような恰好で逃げていった。そして坂の途中で、アパートとは反対の左側の壁へとびこんでしまった。
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