「勝見さんも止したいというの。皆の真似をしなくてもいいでしょう」と百合子が皮肉めいた口を利きました。 「決してそう言うわけではありません。唯私の健康状態が許しませんので……」 「あんたが居なくなっちゃうと、今度は、姉さんの健康状態がわるくなってよ」 「どういたしまして。お姉様のようにお美しい方のところへは、幾人でも忠実な男がやって参ります」 「まあ、勝見さん。お上手なのねえ――。そしてあんたは、何処がお悪いの?」 「一寸申上げ兼ねる健康状態でございます。いずれ其の内には判ってしまいましょうが、私の口から申し上げることはお許し下さい」 「百合子ちゃん。仕方がないのよ、帰しておやりなさい」嫂は沈黙を破って突然こんなことを言いました。 「そーお」百合子が不平らしく黙ってしまうと、勝見はしずかに頭を下げ、別れの挨拶をして出て行きました。 「赤耀館の悪魔は出て行った。ホホホホ」嫂がヒステリカルに高い声をあげて笑いました。 「でも魅力のある悪魔なんでしょう。姉さん、あたし、なにもかも知っててよ」 「出て行ったんだから、何も言うことはないでしょう。百合ちゃん。あの人は悪魔でも、あれからこっち外に相談する男のひともないんですもの」 「姉さんは、水臭いひと」なにか外のことを考えているらしく、百合子が言いました。 勝見が此の家を去ってからのち、嫂は果してすこしずつ、不健康になって行ったようです。ときには、ひどい発作を起して、流石の百合子も介抱に困じ果ててしまうことさえ稀ではありませんでした。そうしたときに、嫂の感情を和げる唯一つのものは、寄港地や船から打って寄こす、簡単な私の電文であったそうです。 其の年は不思議な気象状態で、七月の半を過ぎても、夏らしい暑さは来ず、途上の行人はいつまでもネルやセルの重い単衣に肌をつつんで居りました。それは七月三十日のことです。嫂はいつになく機嫌がよく、朝からそわそわと衣裳を出して眺めたり帯上げをあれやこれやと選りわけたりしていましたが、気に入ったのが見付かったのか、着物を着換えると、行先も言わず、ただ東京まで行って来るからと百合子に言いのこした儘、外出いたしました。ところが嫂は、その夜遅くなっても帰って来る様子がなく、眠りやらぬ百合子は遂に次の日の暁が、東の窓から明るく差し込んで来るのを迎えました。今日こそおひる頃までには帰って来るであろうと、眠さも忘れ唯不安な気持一杯で待ち尽しましたが、これも亦空しい期待に終りました。それから夕陽が赫々と赤耀館の西側の壁体に照り映えるころを迎えましたが、窓から街道を見下していても、鯨ヶ丘を指して帰って来る嫂の姿は発見されなかったのです。やがて恐怖に充ちた夜が来ました。百合子はお手伝いさん達を駆りあつめて自分の室に共に寝をとらせましたが、どうしても寝つかれません。ちょろちょろと眠ると何だか真黒な魔物に乗りかかられた夢を見て呻されたり、その毎にべとべとになった寝衣を着換えたりいたしました。深夜の沈黙は死のように静かでありましたが、時々赤耀館のどこかの室で、トーントーンという鈍い物音がきこえ、其の度に胸がわくわくするのを覚えました。 嫂の変死の報せが赤耀館に到着したのは、その次の日の早朝であったのです。百合子は呆然としてしまって、どうしたものやら途方に暮れてしまいました。 使いの警官の話では、嫂らしい人が、築地の某ホテルの一室に死んでいるから、早く見に来て呉れということでした。百合子は事情をうちあけた上、これではとても自分では処理がつかないから、元此の家に勤めていた勝見伍策を警察の手で呼びよせて呉れるように、彼が残して置いた郷里の所書を示して頼みました。そして警官の案内で、その築地の某ホテルへ、すすまぬ足を運んで行ったのです。 築地の川べりに近く、真黄色な色にぬられた九階だての塔のような建物がありますが、それがそのホテルなのです。入って行きますと、見知り越しの尾形警部が、いまにも仆れそうな青い顔をして、百合子を迎えましたが、すぐ現場へ案内して呉れました。それはバスルーム付きの十六畳もあろうと思われる大きな贅を尽した部屋でした。室の一隅には、大型のベッドが二台並んでいます。その一方に死んでいるのが、紛う方なき嫂の綾子なのでした。 「一体どうしたのでございましょう?」百合子は縋りつかんばかりにして尾形警部に尋ねかけたのでした。 「さあ、どうしたものですか」と警部もすこし顔を和げてこれに答えました。「今度は一つ徹底的な捜査をしたいと思っています。幸に事件は私に委されましたし、現場もこの通りあまり荒されていませんので、きっと何か判ることと思います。その前に是非とも貴女にお伺いしたいことがあるのですが……」 と百合子を別室に導き、嫂の近情や、家を出た前後の模様などを訊ねました。 赤耀館は厳重な家宅捜査をうけ、ことに嫂の室は壁紙まで引きはがすほどの徹底さを以て探査をすすめられた結果、数束の嫂へあてた手紙が悉く其の筋へ押収せられました。中でも尾形警部が、特に注意して読んだものは、兄丈太郎から貰ったものの外に、笛吹川画伯、勝見伍策、それから私からの手紙でありました。 嫂の屍体は、入念に法医学教室で解剖に付せられましたが、消化器と循環器との系統のものは、どんな微細な点までも、剖検されたのです。 「お嬢さん、今度はすこし手応えがあったようですよ」と尾形警部が、心持ち顔を明るくしながら言ったことです。「お姉様の死は、疑いもなく青酸中毒から来ているのです」 「青酸中毒でございますって? では姉は殺されたので御座いますか、それとも自殺でございましょうか」百合子は身を震わせながら警部の言葉を待ちました。 「他殺か自殺か、それは未だ残された問題なのです。ですが解剖の結果、青酸中毒の反応が充分出て来たことと、青酸加里を包んであったらしいカプセルの一部が胃の中に発見せられました。それからお姉様の枕頭にはレモナーデのコップがあったのです。覚えていらっしゃいますか、お兄様の死体の側にもレモナーデのあったことを。それから、これは一寸お嬢様には申し上げ悪いことなのですが、お姉様のおやすみになった寝台には何者か男性がいたことが確認されました。しかしホテルの方では、お姉様はたしかに人をお待ちのようでしたが、その人は遂に来なかったらしいと申しています。恐らく、男はその旅館の中に、知らぬ顔をして泊っていたのでしょう。しかし自殺か他殺かは、前にも申した通りわかっては居りません。只今は、極力、お姉様と一夜を共にした男を捜査中でございます」 「では、兄も青酸で死んだのでございましょうか」 「恐らくそうであろうと思います。この方も改めて調べて見たいと思うのですが、その前に是非お訪ねしたいのは、勝見伍策とお姉様の関係について、御存知の事実をお話し下さいませんか。いや、もう大体の見当は、お姉様の室にあった手紙から判っているのですが……」それは警部の嘘であった。 百合子は、すっかりその手に乗せられて、嫂が兄の死後、勝見にたよっていたこと、又勝見が深夜に嫂の室を訪ねるのを見たことなどをうちあけてしまいした。警部は満悦そうに頷き乍ら、 「お兄様の御生前には、そうしたことをお気付きでありませんでしたか」 「疑えば疑えないでもありませんが、よくは存知ません。唯、兄と姉とが、勝見のことで変に皮肉な言葉のやりとりをしているのを一二度、耳にしたことがございました」 「いや、よく判りました。おっつけ勝見を呼び出しますから、一層事実がわかることでしょう」 尾形警部は、その上で、笛吹川画伯や兄や私について、詳細をきわめた質問をしたそうです。百合子は、これから力になって貰いたいと思う勝見に、香しくない疑惑のあるのを情けないことに思いました。この上は、もはや、印度洋あたりを航海している筈の私の帰朝の一日も早いことを祈らずにはいられなかったのです。しかし彼女は始めて私に会うわけなのですから、私という男がどんな人間であるかも判りかね、幾分の不安を伴うのでありました。 尾形警部は勝見の引致が大変手間どれるのに苛々していました。警部は、勝見を兄夫妻殺しの犯人と睨んでいたのでした。ホテルで嫂と一夜を明かしたものは、勝見であるに違いはないのです。勝見を訊問することにより笛吹川画伯の頓死に溯り、赤耀館事件の一切が明白になると考えて、夜の目も睡られぬほどに興奮していました。 ところが予定よりも数日おくれて、勝見を迎えにやった腕ききの刑事が、狐につままれたような顔をして尾形警部の前にぼんやり立ちました。 「どうしたんだ、勝見はどうしたんだ?」尾形警部は気の短かそうな声を張りあげたのでした。 「どうもおかしなことになりました。私は早速、彼奴の郷里である岡山県のS村に行きましたが、彼奴の居所がさっぱりわからないのです。村の人達にきいてやっと知れたことは、勝見は病気のため村を去ったそうです」 「病気? そしてどこへ行ったのか?」 「村人の話では、肉腫が出来ていたそうで、実に気の毒なことだと言っています。行先は村役場できくことが出来ましたが、K県の管轄になっている孤島であります。療養所が設けられてあるところだそうです。私は思い切ってその島を尋ね、勝見に会って来ましたが、気の毒なものです。しかし勝見の写真で見覚えのある面影があった上に、赤耀館のことも何から何までよく知っていましたから、勿論勝見に違いありません。そんなわけで彼奴をひっぱって来ることは、絶対に不可能なんです。それにひっぱって来たって駄目なことが判りました。というのは、綾子夫人が死んだ七月三十日には、彼奴は療養所の中から一歩も外へは出なかったことが判明したのです。御覧なさい、ここに療養所長の証明書があります」 尾形警部は沈痛な面持で、療養所長の証明書を一瞥しました。大きな四角い字で次のような字句が記されてあったのです。
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