あの方は画かきだとばかり思っていましたが、中々勉強もなさると見えて、どの壁も本棚でギュウギュウ言っているんです。お通夜に来た、ご近所の三人の人たちも、こんなに本のある家は、見たこともない。上野の図書館とかにでも、真逆、この倍と本があるわけじゃなかろう、と言っていましたよ。こんな勉強をなさる方が亡くなったのは、全く惜しいものだ、これはきっと勉強がすぎたんだろう、ずいぶん夜も遅くまで御勉強のようでしたからな、と其の人達は言ってましたよ、へえ。 今夜は是非、お通夜をしましょう、という話でしたが、勝見さんが、わしにもう九時だから、けえれ、けえれと言うのです。わしも通夜するだと言いましたけンどな、勝見さんはそいじゃお邸が不用心だからどうしても帰って呉れと言うのでがす。じゃ帰ることにしようと、尻を持上げましたがナ、今度は勝見さんが近所の人に、引取って呉れ引取って呉れと言ってましたよ。勝見さんは、あんな淋しい処で、死人と一緒に居て怖がらないんですぜ、わしなら、真平御免でがす」 伴造から勇気を推奨せられた執事の勝見は五日経って、十五日に邸へかえって来ました。すこしやつれた様子だったが、元気はよかったのです。いつもよりハキハキと用事を勤めているように見えましたが、兄の眼には、勝見の態度が、反って変に白々しく映ったのでした。自分が短刀を持っていたのを殺意ありと解した勝見は、それ以来、自分を敬遠しているのに違いあるまいと思われたのです。勿論勝見は其の夜のことを再び口にしなかったし、兄も言い出しはしなかった。兄は勝見に暇を出したくはあったが、例のことを喋られるのを恐れて、絶対に馘首が出来ない。それでますます、勝見が悩しき存在となって来たのでありました。 ところが、兄は更に勝見に対するこだわりを深くしなければならないことになったのです。いや、そればかりではなく、彼の恋女房である綾子をさえ、真面に見ることができなくなったのです。それは、勝見が笛吹川画伯の埋葬を済ませて帰って来てから、一週間ほどのちの出来事でした。兄が綾子の室へ用事があって扉の把手に手をかけたとき、何事にも気が付かないような熱心さで、綾子と勝見が言い合っているのを聞いてしまったのです。 「笛吹川さんは、ほんとうに死んだの」 「本当でございます。お疑いならば日暮里の火葬場へお尋ね下さい。それから画伯の骨を埋めた今戸の瑞光寺へお聞き合わせ下さい。しかし何故、奥様はそんなことをおっしゃるのです」 「わたしには、あの人が死んだように思われないの。あの通りエネルギッシュな笛吹川さんが、そう簡単に死ぬもんですか。ことに心臓麻痺で頓死なんて、可笑しいわね」 「可笑しくても仕方がありません。画伯はもう骨になっています。それでも死んでいないとおっしゃるのですか」 「あんたの言うようなら、死んだのに違いないでしょう。しかしわたしの直感を正直に言ってしまえば、笛吹川さんは、死んでいないか、さもなければ、誰かに殺されたのに違いない。――あんたは何か知っているのでしょう」 「はい、私は二三のことを存じて居ります」 「言ってごらんなさい、なにもかも」 「では申しあげます。先ず第一に、笛吹川画伯の亡くなった時刻に、奥様は何処にいらっしゃいましたか?」 「まア、お前は……。何を失礼なことを考えているんです。わたしは、どこにいようと、余計なお世話です」 「失礼だとあれば、私は追窮はいたしますまい。しかし万一、捜査課の警部たちがひきかえして来て、奥様にこの質問をいたしたものと仮定しますと、唯失礼だと許りで追払うことは出来ますまい。不幸にもあの時刻に於ける奥様の現場不在証明は不可能でいらっしゃいましょう」 「……」 「第二には、旦那様のご存じないところの、笛吹川画伯と奥様との御交渉でございます。これも失礼と存じますので、内容は申しあげません。第三に……」 そのとき兄は、大きな咳払と共に、重い扉を押して室内に入って来ました。勝見は白々しく敬礼を捧げましたが、再び嫂の方に向い、 「では麻雀競技会にいらっしゃるお客様は、八十名と考えましてお仕度をいたしましょう。会場は階下の大広間を当てることにいたしましょう。卓の方は、早速、聯盟の事務所と打合せまして、ハイ、もう外に伺い落したことはございませんか。では……」 勝見はすこしも臆れる様子もなく、扉をあけて去りました。兄夫婦の間には、しばらく白々しい沈黙が過ぎて行きました。 「あなた、このごろ勝見の様子が、どこか変じゃありませんこと?」 「笛吹川が亡くなったので、気を落しているのだろう」 「そうでしょうか。勝見が独りでいるところを横から見ていますと、何かに憑かれているようなんですよ。話をして見ても、言語のはっきりしている割合に、どことなく陰険なんです。それに勝見はこんな顔をしていたかしらと思うこともあるのです。あの眼。このごろの勝見の眼は、死人の腐肉を喰べた人間の眼ですよ」 「そりゃ、よくないね。君は神経衰弱にかかっているようだよ。養生しなくちゃ……」 「神経衰弱なんでしょうか?……でも気味が悪いんですもの。わたしもあの男に喰べられてしまうかも知れないわ」 「馬鹿なことを言っちゃいけない。だからこれからは、麻雀競技会を時々開いて大勢の人に来て貰うのさ。今に、親類のように親しくなる人が三人や四人は出来るよ」 「勝見に暇をやることはいけなくって?」 「ウム。いけないこともないが、時期がある。つまらないことを喋られてもいやだからな」 「私はもうこの館が、いやになったわ」 兄は毎日を家の中に居て、別にすることなく暮していました。言わば、典型的な有閑階級に属する人間でした。そういう種類の人間は必ず何か趣味を持っているものなのですが、兄の場合には強いて挙げるならば三つの趣味とも娯楽ともつかないものを持っていました。 その一つは、麻雀でした。彼はこの勝負事に一時かなり熱中したことがありました。多分最初は、麻雀という時間のかかる競技が、彼のように多くの閑を持つ人間を、無聊から救ってくれたからでありましょう。しかし段々と競技をすすめて見ると、一か八かの勝敗から、その日、その月の彼の運命が勝負の中に織りこまれて来るのを、喜ぶようになったらしいのです。 あとの二つは、園芸と、物理学の実験とでありました。園芸の方は、半分は他人委せであったのにひきかえて、物理実験の方は一から十まで彼自身が手を下してやりました。それも人に煩わされることが多いというので、最近には、別に小さい物理実験室を、赤耀館から小一町も距ったところに建てて、時には一日中も其の中に立籠っていることがありました。彼の実験は、勿論、博士論文を作ろうとするわけでもなく、普通の物理実験教材に散見する程度のもので、無線電信の時報信号を受けたり、毎日の温度や湿気や気圧の変化を調べたり、又好んで分析光学に関するものをやっていました。分光器の調整を壊されたり、X線発生装置の管球に罅をこしらえられるのを嫌って、掃除人は勿論のこと、嫂さえなかなか入れず、いつもは、たった一つしかない表の入口に、複雑な錠前をかけて置くことにして居りました。 兄にとっては、実験に倦きると、花壇に出て、美しい花を摘み、夕餐がすむと、嫂と百合子と、執事の勝見を相手に麻雀を闘わすのが、もっとも彼の動的な生活様式で、あとは唯もう、赤耀館の中で瞑想に耽っているという風でした。 さて赤耀館を明るくするための麻雀競技会が六月の二十九日の夕刻から開かれました。八十名に近い若い麻雀闘士が、鯨ヶ丘の上に威勢よく昇って来ました。麻雀聯盟の委員長である賀茂子爵の鶴のような痩身の隣りには、最高の段位を持つ文士樋口謙氏の丸まっちい胡桃のような姿を見かけました。五月藻作氏と連れ立った断髪の五月あやめ女史や、女学校の三年生で三段の腕を持つ籌賀明子さんなどの婦人客が一座の中に牡丹の花のように咲いていました。あちこちで起る笑声が、高い天井にまで響き上り、シャンデリアの光も、今宵はいつもより明るさを増していたようです。兄夫婦はこの上ない上々機嫌で、満悦の言葉を誰彼に浴びせかけていました。この陽気さに赤耀館の悪魔は今夜、どこかの隅へ追放されなければなりませんでした。 競技が始ると一座はしんとして来ました。折々「チー」や「ポン」の懸声があちこちに起り、またガチャガチャと牌をかきまわす異国情調的な音が聴えて来ました。どうしても来ない客が二人ほどあったために兄夫婦はあとにのこっていなければなりませんでしたが、賀茂子爵のアドヴァイスにより、夫妻の卓には姪の百合子と執事の勝見とが入って競技をはじめることになりました。 二荘目の東風戦に、少女麻雀闘士の明子さんが、九連宝燈という大役を作りあげたので、その卓の近所からはわッと喚声が湧き上りましたが、それを最高潮として、一座はだんだん気味のわるい静寂に襲われて来ました。兄夫妻の卓では、勝見がしきりに大当りをやっていましたが兄と嫂との方は一向にふるわず、二回戦の終りに兄は四千点以上も負けてしまいました。嫂は嫂で、何をぼんやりしていたものか満貫をふりこみました。百合子は、大して上手な方ではなかったが、兄夫妻の当らないためにか、すこし宛勝っていた様子でした。 第二回目の戦が終ったのが午後九時すこし前でした。皆はほっとした顔付で静かに煙草をくゆらしたり、貼り出された得点表の前に雑談を交えたりしていました。いよいよ最後の第三回戦は九時五分過ぎから、始められるのです。手伝いに来ていたボーイが、冷たいレモナーデのコップを配りました。それは興奮を癒すための、まことに爽やかな飲料でもあり、蒸し暑くなって来た気温を和げるための清涼剤でもありました。 「やあ、とうとう降って来た。凄い大粒だ」 窓近くにいた誰かが喚くのをきっかけに、窓外の闇をすかして、銀幕を張ったような大雨が沛然と降り下りました。硝子戸をバタバタと締める音がやかましく聴えます。その騒ぎの中に時計は九時を五分過ぎ、十分過ぎ、もうかれこれ十五分を廻りましたが、一向試合開始のベルが鳴る様子がありません。 「どうしたんです。主人公は?」賀茂子爵が苛々した風で、奇声を張り上げました。 「どう遊ばしたのでしょうか。私も先程から不思議に思っていたのでございますが……。少々御待ち遊ばして。お室を探して参りましょう」 執事の勝見が不安の面持で、急いで探しに行きました。しかし兄の姿は階上の私室にもなく、廊下にも発見することが出来ませんでした。階段の下で、これも兄を探しているらしい百合子と出会いましたが、彼女は、 「勝見さん、兄さんは屹度実験室よ、行ってみて下さい」 「承知しました。――奥様は?」 「姉さんはあちらよ。姉さんがそう言ったわ、銚子無線の時報を聞きに行ったんでしょうって……」 勝見は本館を離れて屋外の闇に走り出ました。雨は今の大降りをケロリと忘れたように小やみになっていましたが、赤耀館の真上には、墨を流したような黒雲が渦を捲きつつ垂れ下っていました。 勝見が気でも変になったような大声を挙げ、競技会のある大広間に飛びこんで来たのは、それからものの五分と経たないうちでした。 「主人が実験室に卒倒して居ります。どなたか、手をお貸し下さい。早く、早く……」 こう叫ぶと彼は身体を飜して駆け出しました。一同は呀ッと声を合せて叫びましたが、勝見の後を追って戸外の闇の中に犇きながら、実験室のある方向へ走って行きました。雨はもうすっかり上っていたようです。 実験室の建物は、四角な身体を、黒々と闇のなかに浮ばせていました。正面に長方形の扉が開きっぱなしとなり、黄色い室内の照明が、戸外にまで流れていました。それが黒猫の瞳ででもあるかのように気味のわるい明るさを持っていました。
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