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それから二十四時間ほど経った。 同じ警察署の夜更けである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ閑としていた。 そのとき署の玄関の重い扉を、外から静かに押すものがあった。 ギーッ、ギーッという音に、不図気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は部厚な犯罪文献らしいものから、顔をあげて入口を見た。 「だッ誰かッ」 夜勤の署員たちは、熊岡の声に、一斉に入口の方を見た。しかし今しがたまでギーッ、ギーッと動いていた重い扉はピタリと停って巌のように動かない。 「うぬッ」 熊岡警官は席を離れると、ズカズカと入口の方へ飛んでいった。そして扉に手をかけると、グッと手前へ開いた。そこには外面の黒手のような暗闇ばかりが眼に映った。 「オヤー」 熊岡警官は、何を見たのか扉の間からヒラリと戸外に躍り出た。バタンと扉はひとり手に閉まる。一秒、二秒、三秒……。空間も時間も化石した。 風船がパンクするように戸口がサッと開いた。 「さア、こっちへ這入れ!」 熊岡警官の怒号と諸共、黒インバネスを着た一人の男が転げこんできた。署員は総立ちになった。「何だ、何だッ」 昨夜とは違った当直の前にその男はひき据えられた。帽子を脱いだその男の顔を見て、駭いたのは熊岡警官だった。 「なあーンだ。君は妹の轢死体を引取って行った男じゃないか」 「うん、隅田乙吉だな」見識り越しの刑事も呻った。「どうしたのか」 たしかにそれは、隅田乙吉だった。昨夜の悠然たる態度に似ず、非常に落着かない。何事か云いだしかねている様子だった。 「何故、僕を見て逃げようとしたのだ。署の戸口を覗うなんて、何事かッ」 「いや申します、申上げます」熊岡警官の追窮に隅田はとうとう声をあげた。「実は大変な間違いをやっちまったんです」 「うむ」 「昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を頂戴いたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない死に様でございますから、お通夜も身内だけとし、今日の夕刻、先祖代々伝わって居ります永正寺の墓地へ持って参り葬ったのでございます」 「それから……」 「葬いもすみまして、自宅の仏壇の前に、同胞をはじめ一家のものが、仏の噂さをしあっていますと、丁度今から三十分ほど前に、表がガラリと明いて……仏が帰って来たのでございます」 「なにーッ、仏が帰って来た?」警官の顔がサッと緊張した。いやな顔をして背中の方に首を廻した刑事もあった。 「死んだ筈の梅子が帰ってきたんです。こりゃ、てっきり化けて出たのだと思い、一同しばらくは寄りつきませんでしたが、いろいろ観察したり押問答をしているうちに、どうやら生きている梅子らしい気がして来ました。そこで寄ってたかって聞いてみますと、梅子のやつ情夫と熱海へ行っていたというのです。それを聞いて同胞は、夢のように喜び合ったわけでございますが、一方に於きまして、真にどうも……」と隅田乙吉は下を向いて恐れ入った。 「莫迦な奴ッ」と宿直が呶鳴った。「では昨夜本署から引取っていった若い女の轢死体というのは、お前の妹ではなかったというのだな」 「どうも何ともはや……」 「何ともはやで、済むと思うかッ」宿直はあとでジロリと一座の署員を睨みまわした。昨夜の当直の名を大声で云って、(馬鹿野郎)と叩きつけたい位だった。他人の死骸を引取って行った奴も奴なら、引取らした奴も奴である。 「昨夜この男がデスナ」と側らの刑事が弁解らしく口を挿んだ。「轢死婦人の衣類や所持品を一々点検しまして、これは全部妹の持ち物に違いない。このコンパクトがどうの、この帯どめがどうのと本当らしいことを云っていったのです。ですから昨夜の当直も信じられたのだと思います」 「イヤ全く、あれは本当なのです」と隅田乙吉がたまりかねて声をあげた。「あれは出鱈目でなくて間違いないのです。妹のものに違いないのですが、さっき漂然と帰宅した本物の妹も、あれと同じ衣類を着、同じハンドバッグや、コンパクトなどを持っているのです。つまり同じ服装をし、同じ持ち物をした婦人が二人あったという事になるので、これは私どもには不思議というより外、説明のつかないことなのです」 これを聞いていた一座は、ギクリと胸に釘をうたれたように感じた。どうやらこれは単純な轢死事件ばかりとは云えぬらしい。 「しかし隅田」と当直は口を開いた。「兎に角、お前は他人の屍体を処分してしまったことになるネ。あの轢死婦人の骨は持ってきたか」 「いや、それがです。実は火葬にしなかったのです」 「火葬にしなかった?」 「はい。私どもの墓地は相当広大でございまして、先祖代々土葬ということにして居ります。で、あの間違えたご婦人の遺骸も、白木の棺に納めまして、そのまま土葬してございますような次第です」 「ううん、土葬か」当直は、なあンだというような顔をした。「では直ぐに掘り出して、本署へ搬んで来い。警官を立ち合わせるから、その指揮を仰ぐのだ。よいか」 熊岡警官は、隅田乙吉について現場へ出張することを命ぜられた。 どうも、粗忽にも程があるというものだ。いくら独り歩きをさせてある妹だからといって、顔面が粉砕してはいるが、身体の其の他の部分に何か見覚えの特徴があったろうし、また衣類や所持品が同じだといっても、そんなに厳密に同じものがあろう筈がない。これは警察の方でも屍体を持てあまし、早く処分したいと考えていたので、よくも検べず下げ渡したもので、引取人の乙吉が生れつきの粗忽者であることを知らなかったせいであると、当直は断定した。そして熊岡警官が、婦人の屍体を掘りだしてくれば、再検査をすることによって、どこの誰だか判明するだろうと考えた。 皆が出ていってから時間が相当経った。もう今頃は、隅田家の墓地へ着いて暗闇の中に警察の提灯をふっているころだろう。掘りだした屍体がここへ帰ってくるまでには、まだ暇があった。今のうちに喰べるものは喰べて置かないと、たとい若い婦人にしても、顔面のない屍体を見ると食慾がなくなるだろうと考えて、当直は夜食の親子丼の蓋をとった。 二箸、三箸つけたところへ、署外からジリジリと電話がかかって来た。 「当直へ電話です」と電話口へ出た見習警官が云った。 「おお」当直は急いでもう一と箸、口の中に押しこむと、立って卓子電話機をとりあげた。 「はアはア。……うん、熊岡君か。どうした……ええッ、なッなんだって? 墓地を掘ったところ白木の棺が出た。そして棺の蓋を開いてみると、中は藻抜けの殻で、あの轢死婦人の屍体が無くなっているッて! ウン、そりゃ本当か。……君、気は確かだろうネ。……イヤ怒らすつもりは無かったけれど、あまり意外なのでねェ……じゃ署員を増派する。しっかり頼むぞッ」 ガチャリと電話機を掛けると、当直は慌ただしくホールを見廻した。そこには一大事勃発とばかりに、一斉にこっちを向いている夜勤署員の顔とぶっつかった。 「署員の非常召集だッ」 ピーッと警笛を吹いた。 ドヤドヤと階段を踏みならして、署員の下りて来る跫音が聞えてきた。 当直は気がついて、喰べかけの親子丼に蓋をした。 ――とうとう、本当の事件になってしまった。隅田乙吉の妹梅子に間違えられた轢死婦人は一体、どこの誰であるか。どうして、地下に葬った筈の屍体が棺の中から消え失せてしまったか。 熊岡警官が保管している「茶っぽい硝子の破片のようなもの」は何であるか。何故それが、轢死婦人のハンドバッグの底から発見されたか。 さて筆者は、この辺でプロローグの筆を擱いて、いよいよ「赤外線男」を紹介しなければならない。
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