海野十三全集 第2巻 俘囚 |
三一書房 |
1991(平成3)年2月28日 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷 |
1
これは或るスパイ事件だ。 ところで、これから述べてゆく其の物語の中には、日本人の名前ばかりが、ズラズラと出てくるのだが、読者諸君は、それ等を悉く真の日本人だと早合点されてはいけない。実はその間諜一味は××人なのである。本来ならば「丸木花作事本名張学霖は……」といった風に書くのが本当なのであるが、それを一々書くのが、煩しい程、××人が出てくることであるから、一つ思切って、味噌も糞も悉く日本人名前の方だけを書くことにした。 どうかお読みになっている裡に、錯覚を起さないようにして戴きたいと、お願いして置く。さて――
2
霧の深い夕方だった。 秘密警備隊員の笹枝弦吾は、定められた時刻が来たので、同志の帆立介次と肩を並べてS公園の脇をブラリブラリと歩き始めていた。もう冬と名のつく月に入ったのだったが、今夜はそう寒くもなかった。しかしこう霧が降りていては、連絡をとるのに稍困難を覚えた。その連絡員というのがうまく自分達を探しあてて呉れればいいが……。 「ウーイ、こらさのさッ――てんだ」 向うから酔払いの声が聞える。顔も姿もまだ見えないが……。 弦吾は肘でチョイと同志帆立の脇腹を突いた。 ぬからず帆立が、 「ピ、ピーイ、ピッ……」 とヴァレンシアのメロディーを口笛で吹き始める。 ヒョロヒョロと、向うから人影が現れた。 弦吾はツと帽子を被り直した。 どおーン。 酔払いが突き当った。 「ヤイ、ヤイ、ヤイッ」酔払いが呶鳴った。 「つッ突き当りやがって、挨拶をしねえとは何でえ。こッこの棒くい野郎奴」 「……」 「だッ黙ってるな。いよいよもう、勘弁ならねえ、こッ此の野郎ッ」 どおーンと突き当ったのはいいが拳固を振り下ろすところを、ヒラリと転わされて、 「ぎゃーッ」 と叫ぶと、酔漢は舗道の上に、長くのめった。 弦吾と同志帆立とは、酔漢の頭を飛び越えると足早に猿江の交叉点の方へ逃げた。 細い横丁を二三度あちこちへ折れて、飛びこんだのはアパートメントとは名ばかりの安宿の、その奥まった一室――彼等の秘密の隠れ家! 「どうだった?」入口の扉にガチャリと鍵をかけると、帆立が云った。 「ウン、これだ」 弦吾は掌を開くと、小形のたばこやマッチを示した。酔払いから素早く手渡された秘密のマッチ箱だった。小指の尖で、中身をポンと落しメリメリと外箱を壊して裏をひっくりかえすと、弦吾はポケットから薬壜を出し、真黄な液体をポトリポトリとその上にたらした。果然、見る見る裡に蟻の匍っているような小文字が、べた一面に浮び出た。 本部からの指令だった!
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