怪しき男
そういっているとき、部屋の扉を、とんとんとたたいた者があった。 ポーニンとノルマンは、顔を見合わせた。 「誰だ」 と、ノルマンが声をかけると、 「はい、私で……」 と、はいって来たのは、事務長だった。 「なに用だ、事務長」 「なんだか、へんなやつが、船へやってきましたよ。ロロー船長がこっちに来ていないでしょうか、と、たずねているのです」 「なに、ロロー船長?」 ロロー船長というのは、警部モロのことだった。彼のことなら、もうとくのむかしに、この世から息を引取っているのだった。船長ノルマンは、ポーニンと顔を見合わせて、意味深長な目くばせを交わした。 「船長ロローは、上陸したが、なにか用事があって、まだ帰ってこない――と、そういえ」 「はい」 「それから、なにか用なら、聞いといてやるからと、そういってみろ」 「はい、かしこまりました」 事務長は、出ていった。 船長ノルマンは、ポーニンの方に、身体をすりよせ、 「ごらんなさい。さっそく警備庁の連絡係が、ロローのところへのりこんできたんですよ」 「ふん、あの一件を嗅ぎつけたんだろうか。それとも、平靖号の乗組員が、こっちを裏切って、密告したんだろうか」 「さあ、どっちですかね。ねえ、ポーニンさん、ともかくも、そのすじの奴等に雑草園をしらべられると困りますから、それを胡麻化すため、例の骨折賃の饗宴を、すぐさま雑草園で始めてはどうでしょう。わいわい酒をのんでさわいでいりゃ、なにがなんだか、わかりませんよ。そのうちに夜が明ける。荷役が終る。おひるごろには、このノーマ号も平靖号も、サイゴン港を、おさらばする。ちょうどだん取がうまくはこぶじゃありませんか」と、船長ノルマンは、なかなか悪智恵をはたらかす。 「ふん、それでよかろう。では、さっそく、雑草園で、大盤ふるまいをはじめよう。お前、みなにそう伝えろ。船にのこっているやつも、できるだけ、上陸させてやるがいい」 「ええ」 「どうする、その大盤ふるまい始めの命令は。お前がもう一度上陸して、伝えることにするかね」 「いや、私はここにいます。そして事務長を上陸させましょう。」 「お前は上陸しない。なぜだ」 「雑草園には、あなたや私がいない方がいいのですよ。いりゃ、またそのすじのやつなどにつかまって、こっちも、したくない返事をしなきゃならない。われわれがいないで、みなに勝手に飲ませて、大いにわいわいさわがせておけば、官憲が調べようたって、手のつけようがありませんよ」 「ふむ、なるほど。それは名案だ。じゃあ、事務長をよんで、お前から上陸命令をつたえろ」 「よろしゅうございます」 こうして、二人の巨魁は、ノーマ号に残っていることになった。 一方、竹見は、サイゴンの町に急ぐと、医者をたずねてまわった。 だが、なにしろ深夜のことではあるし、竹見の風体がよくないうえに言葉がうまく通じないという有様で、医者に来てもらう交渉は、どこでも、なかなかうまくいかなかった。 (ちぇっ、ぐずぐずしてりゃ、ハルクの奴は冷くなってしまう!) と、竹見は、気が気でないが、相手の病院では、一向うごく気配がない。でも、最後の一軒で、ようやく蛇毒を消す塗薬を小壜に入れてもらうことができた。 竹見は、それで満足したわけではなかったが、ハルクを、あまり永く放りぱなしにしておくこともできないので、ようやくにして得た塗薬の小壜を握ると、再び、倉庫へ引きかえした。 そのころ雑草園には、荷役に従事した人夫や船員たちが押しかけ、思いがけない深夜の大盤ふるまいに、飲む食うおどる歌うの大さわぎの最中だった。 竹見は、そのさわぎをよそにハルクのねている倉庫の中にとびおりた。 「おい、ハルク。どうだ、容態は?」といったが、竹見は、けげんなかお! 「おや、ハルクがいない。あいつ、動けるような身体じゃないのに、どうしたんだろう?」
桟橋
竹見は、大きな心痛のため、気が遠くなりそうだった。 「このまま放っておいては、たいへんだ。よし、どんなにしても、ハルクをさがしあてないじゃいないぞ」 それから水夫竹見は、気が変になったようになって、重態の恩人ハルクをさがしまわった。 倉庫裏のせまい路地を、彼は鼠のようにかけまわりもした。雑草園の饗宴のどよめきに気がついて、ふるまい酒にさわいでいる仲仕や船員たちの間をかきわけて、ハルクのすがたをさがしもとめてもみた。路傍のねころがっている人をゆりうごかして、たずねてもみた。だが、一切の努力は無駄におわった。 水夫竹見は、がっかりしてしまった。 彼は、疲労の末、魂のぬけた人のようになって、桟橋のうえに佇んだ。 「まさか、ハルクのやつ、この桟橋から、とびこんだんじゃあるまいな」 そういった彼は、もう動くのもいやになるほど、疲れ果てていた。彼はいつの間にか、桟橋のうえに、ごろりとたおれていた。涼しい夜風が快い眠りをさそったのだ。 「おい、おい!」彼は、目がさめた。だれを呼んでいるのであろうと、目をみらいてみると、眩しい懐中電灯が、彼のかおをてらしていた。彼はびっくりして、跳ねおきた。 「だ、誰だ!」 「なんだ、やっぱり竹じゃねえか」 「そういうお前は……」 「誰でもねえや。おれだ。丸本だ!」 「えっ、丸本、なんだ、貴様だったのか。ちえっ、おどかすない」 丸本というのは、竹見と同じく平靖号乗組の水夫で、彼のいい相棒の丸本秀三だった。 丸本は、彼のかたわらにすりよって、 「こら、あんな雑草園のふるまい酒ぐらいに酔いたおれるなんて、だらしがないぞ」 「冗談いうな。おれは酔っちゃいない」 そこで竹見は、手短かに、ハルクのことをはなして、丸本にもハルクを見かけなかったかとたずねたが、丸本もやはり知らないとこたえた。竹見は、いよいよ落胆した。 「おい、ハルクのことをしんぱいするのもいいが、ちと、虎隊長のことも考えてくれ。隊長は、雑草園へもいかなんだ。がっかりしているらしいが、色にも出さないで、平船員の部屋で本をよんでいるよ。お前も何か、隊長にいって、元気をつけてあげてくれ」 いわれて竹見は、気がついた。 「おお、そうか。虎船長は、いまは平靖号の船長ではなくなって、さぞさびしいことだろう。おれは、ひょっとすると、ハルクが、平靖号へにげこんでやしないかとも思っていたところだから、これから一緒に平靖号へ帰ろうじゃないか」 「うん。帰るというのなら、ちょうどいま、ランチが一せき、あいているんだ。おれは、それにのって帰ろうと思っていたところだ。じゃあ、ちょうどいい」 丸本は、竹見をうながして、桟橋のうえを、ランチの方へと歩いていった。 二人が、ランチの索をといているところへ、また一人、飛ぶように駈けつけてきた者があった。 「おーい、そのランチ、待て」 「だ、誰だ」 「おれだ」 飛びこんできたのは、これも平靖号乗組の一等運転士の坂谷だった。 「おや。一等運転士。どうなすったので」 「うん、雑草園でぐいぐいと酒をあおっていたんだが、妙に船が気になってなあ。それでぬけて来たんだ」 「えっ、そうですか。妙に船が気になるなんて、どうしたというわけです」 「どうもわからん。こんな妙な気持になったことは、初めてだ」 「ははああ、虎船長のことが、やっぱり心配になるんでしょう」 「いや、船長のことは心配しなくともいいんだが、船のことが、いやに気になってねえ。ともかくも、早くランチをやれ」 「へえ、合点です。おい、竹見、考えこんでないで、手つだえよ」 「なんだ竹もいるのかね」 「へい、一等運転士。そういえば、わしもなんだか船のことが気がかりなので……」 「よせやい、竹。お前の心配しているのは、ハルクのことじゃないか。いやに調子を合せるない」 「うん、ところが、おれも急に今、船のことが気がかりになってきたんだ。どうもへんだねえ」 「ふん、何をいい出すか……」 そこでランチは、沖合に信号灯の見えている平靖号さして、波をけ立てて進んでいった。
血染の手紙
ランチは、平靖号の舷側についた。 「いやに静かだねえ」 「そうでしょうとも。虎船長のほかに、だれもいないんですよ」 「まさかネ」 三人は、するすると縄梯のぼって、甲板へ――。 「隊長! 虎隊長!」 一等運転士は、気になるものと見え、虎隊長のところへ、とんでいった。 隊長は、平船員のベッドにもぐりこんで、暗い灯火の下で、本を読んでいたが、とつぜん帰ってきた三人の顔を見て、たいへんよろこんだ。 「隊長、るす中なにかかわったことはありませんでしたかねえ」 と、一等運転手は、わざと何気なき体で、それを尋ねた。 「船のことかね、それとも、わしのことかね。どっちも大丈夫さ。心配するなよ」 と、破顔大笑したが、途中で、急に改まった調子になり、 「――そういえば、思い出した。さっき、丁度この真上の甲板あたりで、がたんと、大きな音がしたんだ。なにか、物をなげつけたような音だった。行ってみようと思ったが、生憎傍にはだれもいないし、そのままにしておいた。あれは何の音だったか、だれかいって、見てくるがいい」 「はあ、この真上の上甲板あたりでしたか。その音のしたのは?」 一等運転士の坂谷と、水夫竹見とが、一緒にそこをとびだした。 駈あがった二人は、甲板のうえを探しあるいた。 「あっ、これだ!」 一等運転士が叫んだ。 竹見が、かけつけてみると、一等運転士は、一挺の水兵ナイフをにぎっていた。 「おや、血が……」 竹見の心臓が、どきんと大きく波うった。 「あっ、それはハルクの持っていた水兵ナイフだ!」 「えっ?」 ハルクの持っていた水兵ナイフが、なぜこんなところにあるのだろうか。そのナイフこそは、ハルクが自ら右脚をきりおとしたナイフだった。 「おい、なにか手紙みたいなものが、えにまいてあったぞ」 「手紙?」 一等運転士の手には、手帳の一頁をひき裂いたものが、にぎられていたが、それも血にそまっていた。 「なに、ほう、これは竹見、お前あての手紙だ」 「なんですって、何と書いてあるんですか」 竹見には、英語がよくよめない。手紙は、英文だった。 「こういうんだ“親愛ナル竹ヨ。俺ハ復讐ヲスルンダ。コノ手紙ヲ見タラ、オ前ノ船ハスグニ抜錨シテ、港外へ出ロ。ハルク”どういう意味だろうか、この手紙は」 「えっ、復讐! 復讐は、わかるが、お前の船は、すぐにいかりをあげて、港外にでろというのがわからない」 「ふむ、お前に喧嘩を売るんだったら、親愛なる竹よは、へんだね」 「あっ、そうだ!」 と、竹見は、とつぜん弾かれたように、とびあがった。 「一等運転士、すぐに抜錨を命じてください。でないと、この船は沈没しますぞ」 「なぜだ、とつぜん何をいう。なぜ、そんなことを」 「さあ、すぐ抜錨しないと危険です。一秒を争います。さあ、命令を……」 「おお、この事かなあ、さっきからの、わしのむなさわぎは!」 一等運転士は、やっと、自分のむなさわぎに関係をつけ、すぐさま船長のところへ、おどりこんだ。 「大至急、抜錨。総員、部署につけ!」 「な、なんだって!」 総員といっても、集まってきたのは、たった七人だった。七人で、抜錨ができるか。でも、大至急、それをやる命令が、一等運転士によって発せられた。 虎船長は、かつがれて、船橋へ。すべて非常時のかまえだった。 汽缶には、すぐさま石炭が放りこまれた。間もなく蒸気は、ぐんぐん威力をあげていった。 「避難演習かね、これは」 「だまって、はやくやれ! 本物なんだぞ」 「気はたしかかね」 「お前、死にたくないのなら、黙って、命ぜられたとおりやれ!」 水夫竹見は、ハルクを信じていた。だから、この大切な平靖号を、一秒も早く港外にうつさないと、取りかえしのつかぬことが起ることを信じていたのだ。その一大事が、どんな形で現われるか、そんなことを考えている暇は、今の彼にはなかった。瀕死のハルクが、平靖号の甲板へ、血染めの水兵ナイフをなげこんでいったというそのことが、いかに驚異的であるか、それが分れば、まっしぐらにハルクの忠言に従うよりほかなかったのであった。
大椿事
信仰のあつき一等運転士坂谷も、これまた、出来事の真相は、よくのみこめないが、霊感にもとづいて、死力をつくして出航を急いだ。 エンジンは、ようやくうごき出した。しかし錨は、なかなかひき上げられなかった。これには、一等運転士はよわってしまったが、 「早くやるんだ。じゃあ、錨は、そのままにしておいて、船を出せ。全速力! 全速力でやるんだ」 「全速といっても、錨が……」 「かまうことはない、錨索はフリーにしておいて、船を走らせるんだ」 船は、うごきだした。だから、錨索は、がらがらと船内からくり出していった。 「全速まで、早くあげろ。錨索を切ってしまえ」 そんな無茶な命令を、聞いたことがない。 「よし、おれがやろう!」 竹見は、大きなハンマーをかついで、甲板へとびだした。彼は、力一杯、走る錨索の上を、がーんと、どやしつけた。しかしそんなことで錨索は切れない。 そのうちに、とうとう錨索は、ぴーんと張ってしまった。船はエンジンをかけているが、錨のために、もはやすこしも前進しなくなったのだ。 「だめです。一等運転士。錨が上らなきゃ、もうどうしてもうごきません」 「もっと石炭を放りこめ、蒸気が、まだ十分あがっていないじゃないか」 「だめです。そんなに早くは…………」 「石炭! 送風機! バルブ全開! 錨を切っちまにゃ……」 ガーン。ガーン。 竹見の傍に、丸本もやってきて、どっちも重いハンマーをふりかぶって、錨索のうえに打ちおろす。錨索は、繰り返えされる衝撃のため、だんだん熱してきた。 ガーン。 がらがらがら、どぼーン。 「ああ、切れた!」 つよく錨索が引張られていたところへ、二人のハンマーが調子よく当ったので、錨索は、とうとう見事に切断して、水中へとびこんでしまった。 「おお、切れた! 全速」 平靖号は、弦を切って放たれた矢のように、水面を滑りだした。 「おお」 虎隊長は、朱盆のようなかおをして、自ら舵器を握っている。船は飛ぶ。 平靖号が走りだしてから、それは正二分ののちのことであった。天地も崩れるような大音響が、それに瞬間先んじて一大火光とともに、平靖号をおそった。 「ああッ!」 「うむ、爆発だ!」 ひゅーと、はげしい風の音とともに、平靖号の真上を、なにものかが走り過ぎた。つづいて、ばらばらがらがらと、さかんに物が横なぐりに、甲板へとんでくる。竹見と丸本の両水夫は、甲板にうつぶせになって生きた心地はない。 爆音、また大爆音! だが、平靖号は、さいわいにして、さしたる損傷もうけなかった。その大爆音は、はるかにサイゴン港内において頻発しているのであった。そのものすごい火の海を、なんといって形容したらいいのであろうか、また天地のくずれ落ちるような大爆音を、なんといって言い現わしたらいいであろうか。爆発はまた新たなる爆発を生んで、いつ果つべしとも分らない。 火災だ! サイゴンの街に火がうつってもえだした。 「ああ、ハルクの復讐だ! 彼奴は、ノーマ号のつんでいた火薬に火をつけたのだ! それにちがいない!」 水夫竹見は、しばらくして甲板からかおをあげ、炎々たる港内の火をきっと見つめながら、うめくようにいった。 全くおそろしい出来事だった。これで、もう二分間おそければ、平靖号も、そば杖をくらって、船体はばらばらに壊れてしまい、虎船長以下、竹見も丸本も、今ごろは屍になっていたかもしれない。 ノーマ号は、あと形なく飛び散った。船長ノルマンも、怪人ポーニンも、ともに一まつの瓦斯体となって消え失せた。それとともに、かのごくひの大計画である海底要塞の建設事業も、一たん挫折してしまったのだ。この怪人たちの陰謀のそばつえを食ったサイゴン港こそ、悲惨の極であった。沈没艦船三十九隻、焼失家屋五百八十余戸、死者三千人、負傷者は数しれず、硝子の破片で眼がみえなくなった者が、三百余人と伝えられる。 平靖号の船員も、相当死んだが、元気な虎船長や竹見水夫がいる限り、これにこりず、改めてさらに壮途をつづけることであろう。
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