怪異は続く
東京朝夕新報の朝刊八頁の広告欄に、気のついた人ならば気になったであろうところの三行広告が二つ並んで出ていた。
○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に相当謝礼、姓名在社三二五番
もう一つは、次のとおりであった。
○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に莫大謝礼、姓名在社三二六番
つまり両方とも赤革トランクを返してくれと訴えているものだった。 前日トラックの運転手は、空トラックを店のガレージの前に停め、車体の点検を行ったとき、ふしぎなことに、後の荷置き場の隅に赤革トランクが逆さになって置かれてあるのを発見した。彼はそれを下へ下ろし、開いても見たが全然見覚えのないものだった。 そのうちに朋輩の誰彼がそのまわりに集って来た。そしてこのようなすてきな鞄を何処で手に入れたのかと知りたがった。 かの運転手は早速返事をして途中まで喋ったが、そこであとの言葉を嚥みこんだ。そして俄に彼は一つの創作をひねりだしてそれを以て返事に継ぎ足そうとしたとき、支配人の酒田が割込んで来て、その鞄を欲しがった。結局、運転手はその鞄を百円札五枚で支配人に譲り渡した。売った方も買った方もにこにこしていた。 酒田はその鞄を手にぶら下げて、そこから程遠からぬところにある彼の邸へ歩いて帰った。彼は目下やもめ暮しであった。家族たちはまだ疎開先に釘づけのままだった。東京のこの家には、家政婦の老婆が一人仕えているだけだった。 酒田はその鞄を持って帰ると、押入を開いて、下の段の奥へ押込んだ。そしてすぐ襖を閉めた。どういうわけでそうしたのか明瞭でないが、多分あまり安く値切って買ったのが気になっていたのかもしれない。 夕食後、彼は居間に引籠った。例の鞄を押入から出して、絨氈の上に置いて開いた。それから彼は箪笥の引出をあけて中からなまめかしい婦人の衣類を取出し、それを一々電灯の灯の近くへ持っていって眺め、指先で布地を摘み且つ匂いを嗅いだ。そして二種類に別けて積んでいったが、その一方を例の鞄の中へていねいに入れ始めた。長襦袢もあるし、錦紗もあるし、お召もあり、丸帯もあり、まるで花嫁御寮の旅行鞄みたいであった。その上にも彼は、隅の金庫を開いて中から取出した貴金属細工のついた帯留や指環の箱、宝石入りのブローチの箱、腕環の箱などをその鞄の中、ほどよきところへ押込んだ。最後に特別になまめかしい鹿の子緋ぢりめんの長襦袢を上にのせ、それから鞄の蓋をしめたのであるが、ぎゅうぎゅうに詰まっているので蓋は外に向って太鼓腹のように膨らんだ。そのあとで彼、酒田は意外なことを発見して強く舌打をした。 「ちょッ。この鞄には、鍵が二箇もぶら下っているのに、肝腎の錠前がついていないじゃないか。見かけによらず、とんだインチキものだ。ええッ、腹が立つ!」 鍵はあれども鍵穴がない。これでは仕様がない。折角トランクに詰めて、明日は横浜へ売りに行こうという寸法だったが、鍵のかからないトランクでは、あっちへ持っていったり、こっちへ預けたりしているうちにあぶないことになりそうだ。だが、折角ぎっしり詰めこんだものを、他のトランクに移すのは面倒だ、今夜はこのままにして、後は明日のことにしようと、闇屋の旦那はこのところ聊か過労の体にて、寝椅子の上へ身体をのせた。 「旦那さま。もうここの戸締りをいたしてよろしゅうございましょうか」 婆やの声である。 酒田が、締めておくれというと、婆やさんは硝子戸をあけて、長い廊下を箒でさらさらと掃き出し、それから戸袋のところへ行って板戸を一枚一枚繰り出し始めたのである。そのとき勝手の方で電話のベルが鳴りだした。婆やさんはそれに気づいて勝手の方へ駆けこんで行く。やがて婆やさんが再び駆け出して来て、酒田へ電話を取りつぐ。そこで酒田は寝椅子からむっくり起上って、婆やと共に勝手の方へ行く。電話機は勝手の廊下の隅にあって、そこは暗いので、婆やさんは電灯を急いで吊りかえなければならなかった。 こうして僅か十分足らずの時間、お座敷の方を空虚にして置いただけで、電話が終ると酒田と婆やさんとは再びお座敷の方へ戻って来て、婆やさんは雨戸の残りを戸袋から繰り出すし、酒田はラジオをちょっとひねって、そして男女合唱がとび出して来ると、すぐスイッチをひねって消し、それから煙草をつけて安楽椅子へ腰を下ろしたんだが、忽ち彼はバネ仕掛の人形のようにとびあがった。 「あれッ、ここに置いてあったトランクが見えないぞ。……トランク、どこへ持って行った?」 それからの騒ぎを一々克明にここに写している遑はない。とにかくかのトランクは煙のように消えてしまったのである。庭の植込みに隠れていたかもしれない泥坊の詮議や、一応は疑われた婆やさんのこと、酒田の物忘れについての疑惑など、いろいろのことが入りくんでややこしくなったのであるが、誰しもまさかトランクが悠々と絨氈の上から腰をあげ、明け放しの硝子戸の間から、朧月夜の戸外へと彷徨い出たものとは思わず、その事実を推理し得た者はなかったのである。 それからそのトランクはどういう出来事にぶつかったか。 外濠の堤の松の下の暗闇を連れだって行く若い女と男とがあった。女は男に対して強硬な態度をとって、男を引放してずんずん足を早めていた。その女はやがて――そのままで推移せば男のために締め殺されて、枯草の上に身を横たえなければならないのであったが、運命のくすしき足取は、女の生命を危局の寸前に救った。それは今や鼠に向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇――女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治を決行するに及ばなかった。男も女も、一応妖異に対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女は急に男に対してやさしくなり、そしてその鞄を二人で守って男のアパートへ入り、同棲生活の第一夜を絢爛と踏み出すことに両人の意見は完全なる一致をみたのであるが、この詳細もここにくだくだしく描写している遑はない。 それよりは問題はトランクの運命にある。そのトランクは翌朝両人が目ざめてみると、たしかにそこに置いた筈の夜具の裾のところには見当らず、両人は目を皿にして部屋中を匐い廻ったがどこにもなく、そこで両人互いに相手を邪推して立廻りへと移行したが、両人が相手の顔を捻じて天井へ向けたときに、そこにぴったり吸いついている前夜のトランクを両人が同時に発見した。そこで両人は再び協力し、誰がトランクを天井の桟に釘をうってそれへ引掛けたかを怪しみながら、机に椅子を積み重ね、箒や蝙蝠傘やノックバットまで持ちだしてそのトランクを下ろそうと試みた。そのうちにどうした拍子かトランクの蓋が開いて、その中身が五彩の滝となって下に落ちて来た。両人がそれにとびついて、かき集めている間に、トランクは明いた窓から黙って外へ飛び出していった。 トランクの後を追って書きつけていると際限がないので、しばらくトランクから離れた話をしようと思う。
帆村探偵登場
冬日の暖くさしこんだ硝子窓の下に、田鍋捜査課長の机があった。課長と相対しているのは、長髪のてっぺんから地肌がすこし覗いている中年の長身の紳士だった。無髭無髯の顔に、細い黒縁の眼鏡をかけ、脣が横に長いのを特徴の、有名なる私立探偵帆村荘六だった。一頃から思えば、この探偵も深刻にふけて見える。 「猫の子が宙を飛べるものなら、鞄が宙を飛んだって、仔猫の場合以上にふしぎだとはいえないわけですね」 「いや帆村君、それは違うだろう。猫の子が宙を飛ぶのは許さるべきとしても、生なき鞄が宙を飛ぶのは怪談だよ。その怪談に怯やかされてわが五百万の都民は枕を高うして睡れないと山積する投書だ。あれあの籠を見たまえ」と課長は、二つ三つ向こうの部下の机上を指す。それは尤もな風景を見せていた。 「怪談ということでは、この事件の解決はちょっとむずかしいですよ。物理学で行くなら、仔猫も鞄も同じ格です。そしてそらに飛ぶ場合も考えられないことはない。課長さん、そのことについて赤見沢博士の助手の何とかいう婦人に糾してみましたか」 「だめだ、あの小山すみれは。ああいう女は、一旦依怙地となったら、殺されても喋らないものだ。赤見沢はさすがにそれを心得て雇っている。沈黙女史は今のところそっとして置くしかない。しかし――帆村君。生もない鞄がなぜ飛び得ると考えるのか、怪談以外の考え方に於て……。ねえ君、林檎も落ちるよ、星も落ちる、猿も木から落ちる」 「万有引力が正常普通に作用するかぎり、それはその通りです。猫の子が宙を飛び、鞄が空を走るためには、それらの物体に万有引力と反対の方向に作用する相当の力が働いていると断定して間違いないわけでしょう。課長さん、これに答えて下さい」 「さあ、わしには分らんね、全く……」 「万一に考えられることは、特別の浮力です。物体が空気の中にあるために、自分が排除する容積だけの空気の重量に等しい浮力が、万有引力と反対方向に働いているのですが、こんなことは断るまでもない常識事です。そしてその浮力が仔猫の場合に於ても、鞄の場合に於ても万有引力に比して殆んど省略し得る程度の微小なる力です。これはこれで片づいたとして第二に考えられることは……」 「頭の痛くならんように喋ることはできないものかね」 「ご尤もです。……それでそれは――第二に考えられることは、万有引力常数を変えてしまうこと。第三には第三の物体を誘致し来って、それによる引力を、万有引力以上に効き目を持たせること。それから第四に、アインシュタインの設定した万有引力テンソルを……」 「待った。もうたくさん」 「第四は、今の場合論じなくてもすみますから、横へどけて」 「みんな横へどけて、怪談へ戻ろうじゃないか」 「とんでもない。要するに、第二又は第三の素因によって、仔猫が宙を飛び、鞄が空を走るものと推定し得られないことはない。赤見沢博士のユニークな頭脳はそれを装置化することに成功したのではないか。仔猫が飛び鞄が走るは、その装置化の成功を語っているのではないか。しからばもはや鞄が深夜の焼跡をうろつこうと、真昼のビル街を掠めようと問題ではない。そうでしょうが……」 「いや、おかしいよ。鞄は必ずしも空中を泳いでばかりはいない。神妙に下に落着いていることもある」 「そんなことは仕掛の工合でどうにでもなりますよ。たとえぼ、鞄の把柄を手に持って鞄を下げているときには、スイッチが外れるようになっていて異変は起らない。しかし把柄が握られていないときはスイッチが入って、鞄は例の素因により万有引力に勝って浮きあがる――つまり鞄とその中身との重さが一枚の羽毛ほどの重さに変わってしまう。そういうわけでしょうな」 「実際に出来るのかね、そんな仕掛が……」 「発明が出来れば、あとは仕掛を作ることなんか極めて容易ですよ」 「ふうん、そんな鞄がどんどん現れて管下一円を脅すことになれば、わし達は鞄狩りに手一杯となり、他の仕事が出来なくなるだろう。とにかく怪談にせよ引力にせよ、一大事件だ。早いところその核心を摘出して、犯人を検挙せにゃいかん」 「犯人というほどのものじゃないでしょうに。それに赤見沢博士は今も人事不省を続けていて、何一つ出来ない」 「わしは赤見沢が真実不能者かどうか、厳重に監視をしている。序に、あの女も小使夫婦も見張っている。赤見沢たちの犯行は、例の臼井という若僧や前知事の目賀野が出て来れば分ると思うんだが、どういうわけか彼等は姿を見せん。それはなぜだろうか、どうも分らない」 「その臼井氏や目賀野氏の行方こそ、即急に突きとめなければならないですね。それから、鞄は一日も早く取り押えなければならない。それと例の仔猫です。あの仔猫はどうなったか、あれはぜひ突き留めなければならないですね」 「はあ、仔猫か。あんなものは大したことはあるまい」 「いや、そうじゃないですよ。あれこそ最も重視すべきものだ」 「もうそろそろ本格的に化け猫になる頃だという意味かね」 「あの助手女史が保管していないでしょうか」 「あっ、そうか。よし、白状させてみる。不都合な奴だ」
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