「さあ、こんどは座って下さらない。……そっとですよ。そっとネ」 僕はいうとおりにした。 「もう目隠しはとってもいいわ、あとのことが出来ないから、仕方がないわ」 目隠しをとってみると、想像していたよりも愕いた。僕は首から下に、美しい女の身体をもっているのだった。乳房は高く盛りあがり、膝もふっくりと張り、なげだした袂の間からは、艶かしい緋の襦袢がチラとのぞいている。――僕は半ば夢ごこちだった。 「さあ、頭を出して下さい」庵主は背後にまわると、僕の頭に布を巻いた。 それから、どこに蔵ってあったのか、匂いの高い白粉を出して来て、僕の顔に塗りはじめた。呆(あき)れかえっているうちにそれも終った。 「すこし重いわよ」 そういう声の下に、頭の上からズッシリ重いものが被(かぶ)せられた。そして耳のうしろで、紐がギュッと頭を縛めつけた。 「さあ、出来上った。――まあ貴方、よく似合うのネ。ほんとに惚(ほ)れ惚(ぼ)れするようないい女になってよ、まあ――」 鏡があれば、ちょっと僕も覗いてみたい衝動に駆られた。それにしても、庵主はなぜこんな艶めかしい衣裳や、それから鬘までも持っているのだろう。彼女はどう見ても唯ものではない。 「ホホホホ。ちょっとここを御覧遊(あそば)せ。――見えるでしょう? どう気に入って」 ハッと振りむいてみると、庵主は間の襖を指していた。そこを見ると、背のすらりとした高島田の女の影がうつっているのではないか。僕はいまだかつて経験したことのない愕(おどろ)きと昂奮のために、呼吸をはずませるばかりだった。 「これなら大丈夫ですわよ。……時間は丁度いい頃です。お祭りはいま絶頂の賑いを呈していることでしょう。さあその混雑に紛れて、港まで逃げるのです。そこには極光丸という日本の汽船が今夜港を出ることになっていますから、入口で船長を呼び、この手紙を見せるのです。すると船長さんはきっと貴方を安全に保護して、君島まで連れていって下さるでしょう。……では貴方の幸福をお祈りして、そしてお別れしますわ」 手紙を差出す庵主の手を、僕は思わずグッと握りしめた。 「ありがとう。どんなにか感謝いたします。……しかし僕は気が変わりました。もう行きません。殺されてもいいです。貴方の傍にいたいのです。僕はもう、なにもかも分りました。僕が脱走した夜、街の軒下でこの庵室を教えてくれた美しい島田髷の娘さんは、誰だったか分ったのです。それは庵主さん、貴方だったのです。……」 と女装の僕は庵主を抱えようとした。 「まあ、そんなに……」 と、若い庵主は身を引いた。 「愛する貴方を置いて、どうして僕だけ逃げられましょう。でなかったら、これから僕と一緒に逃げて下さい。僕は生命のあるかぎり、貴方のために闘います」 「貴方は男らしくないのねえ。……」と庵主は急に冷やかな顔になって、壁ぎわへ身を引いた。「そんな人、あたし大嫌いよ」 「ああ、――」僕は呻(うめ)いた。 「では、やっぱり行きます。それがお約束でした。では貴方のお身の上に、神仏の加護があることを祈っています。僕は君島で、貴方の来るのをいつまでもいつまでも待っています。……」 そういい置いて、僕は名残り惜しくも、庵室を後にすると、暗闇の外面に走り出たのだった。
小田春代という女
ここは君島の、或る機関に属する洋館の窓に倚って、沖の方を眺めているのは、秀蓮尼の助けによって、危く黄風島の脱走に成功した僕だった。珍らしく、一台の飛行機が空を飛んでいるのが見える――全く秀蓮尼のお陰だった。女装していればこそ、厳重な脱走青年監視の網をくぐって無事、港にまで逃げのびられたのだった。極光丸は聞くとすぐ知れた。あとは板の上を滑るようにスラスラとうまく運んで、次の朝この君島へ着いたばかりか、船長の説明によって、このような立派な館に客となることができたのだった。 これらの破格の取扱いは、すべて秀蓮尼の信用によるものらしかった。不思議なる人物秀蓮尼! 彼女はどうしたことだろう。それからこっちへ既に七日、いまだに彼女の消息はなかった。僕は毎日のように、沖合から人の現われるのを待ちつづけているのだった。 中天に昇った太陽が、舗道の上に街路樹の濃い影を落しているとき、一台の自動車が風を切ってこの通へとびこんで来た。見れば幌型(ほろがた)の高級車だった。それは館に近づくと、急に速力を落し、スルスルと滑って、目の下に着いた。――すると中から、元気よく一人の学生が飛び出して来た。 その学生は、帽子も被っていない丸坊主だったが、いきなり僕が頭を出している二階を見上げるとヒラヒラと右手をあげてうちふった。 誰だろう? 「呀(あ)ッ、――帰って来たのだッ」 僕はその学生が誰であるか、やっと分った。あまり思いがけない服装をしているから分らなかったが紛う方なき秀蓮尼だった。 僕は階下へ駆けだしてゆくと、やがて上ってくる彼女と鉢合わせをした。 「よく帰って来たね」 「ええ、……心配していた?」 僕は彼女を伴って二階へ案内した。 男装の彼女は非常に元気だった。尼僧なんかどこかへ振り落してしまったようであった。 「よくそんな格好で帰って来たねえ」 「ホホホホ、これ貴方の洋服よ。こんどはあたしが貴方のを借りちまったわ。しかし実に大変だったのよ。これが無かったら、あたしうまく脱出できたかどうか疑問だわ。つまり、こうなのよ。――あたし序(ついで)に、貴方の仇敵(かたき)もとってきたわよ」 「ええッ。――それは何のこと?」 彼女は冷い炭酸水を摂(と)りながら、意外なる出来ごとについて、僕に話して聞かせるのだった。―― それによると、あの森虎造という男は、僕の亡き父準之介を殺した悪人だということだった。僕は今まで、父が米国で脳溢血で斃(たお)れたこととばかり思っていたが、そうではなくて、森虎造、通称ハルピン虎のために殺害されたという。そのわけは、ハルピン虎がその地で或る重大な悪事を犯しているところを、領事である亡父準之介に見られたため、理不尽(りふじん)にも執務中の父を薄刃の短剣で背後から刺し殺したのだった。同時にその部屋に父が秘蔵した例の貼り交ぜ細工の小函を値打のあるものと思い、鍵もろとも奪って逃げたのだった。 あまりにも敏速な犯罪のために、亡父殺しの犯人は分らなかったばかりか、或る国際事情のため、領事が暗殺されたことを発表しかねたので、駆けつけた副領事の計(はから)いで、即時死因を脳溢血とし一般に知れわたることを防いだ。ただ証拠としては、特別の形をもった薄刃の凶器と、そのとき紛失した小函とその風変りな鍵の行方とが、後に残された。 ハルピン虎は、何喰わぬ顔をして帰朝し、今は未亡人となったお鳥を訪ねて、悔(くや)みやら向うの模様を都合よく語ったりしたが、そのうちにお鳥の容色に迷い、遂に通じてしまったばかりか、実は莫大な遺産が僕の上に落ちてくるのを見すまし、悪心を起して横領を企てるに至った。継母お鳥も、いまは情念の悪鬼となり、虎に同意をして、下心あってあの黄風島へ渡り、計画に従って僕を病気として精神病院に入れ、折を見て殺害し、遺産を横領しようというつもりのところ、僕に脱走されてしまったのだった。その騒ぎの大きかったのも無理はない。――秀蓮尼は、こっちへかえるとき、ハルピン虎を正当防衛で射殺して来たそうだ。だから僕のために仇敵をうったも同然だ。 「どうして貴方は、虎なんかと渡りあったんです」 と僕が尋ねると、彼女は言葉をついで云ったことである。 それはもちろん、例の小函を探すためだった。僕が持っていた鍵によって、小函がハルピン虎の手にあることを知り邸内に忍びこんで、トランクを合鍵で開けて盗み出し、出ようとするところをハルピン虎に見つかったのだった。そして既に危くなったので、彼女は已(や)むなく彼を一発の下に射殺したのだった。しかし街はこのために俄かに厳重な警戒が敷かれ、だんだん調べの結果、犯人として秀蓮尼だということが分り、それがため追跡がいよいよ急になった。僧服を捨て、僕が残していった学生服に着かえ危地を脱走した。そして飛行機に乗って、今朝がた黄風島を抜けだし、先刻当港へついたということだった。 「でも、どうして森虎が犯人である確証が上ったんですか」 と訊(き)くと、彼女は、 「それは、函の中に、彼が殺人に使った薄刃(うすば)の短剣が血にまみれた儘(まま)入っていたのですわ。そして血染の彼の指紋まで出ていましてよ。その上、あの日お父さんの部屋から失(う)せた小函を持っていただけでも怪しいことが分るでしょう」 僕はその言葉を聞いて、あの虫の好かぬ森虎が、亡父の仇敵だったことをハッキリ知って、彼女に感謝した。しかしまだもう一つ腑に落ちぬことがあった。 「一体どうして貴方は、あの小函を探す必要があったんです。また父は、その小函の中にどんな大事なものを入れてあったのでしょう」 彼女はそこですこし照れたらしく唇を噛みながら囁(ささや)くようにいった。 「……どうでもお聞きになりたいのね。じゃあ仕方がありませんわ。――あの小函をハルピン虎が開いてみますね、中にはなんにも大切なものが入っていなかったのよ。ただ彼はあの中に血染めの凶器をかくして小函を利用したわけなのね。ところが実はあの小函には、日本政府があるところからお預りしている非常に大切な書類が入っていたのよ。そういえばもうお察しがついたでしょうが、あの函は二重底になっていて、その間に挟んであったわけなのよ。もし政府がその保管に任ずることが出来ず、外へ行ってしまったとなると、とんでもない事態となるんです。それでどうしてもあれを探しだす必要があったのよ。そこまでいえば、あたしが何者であるかもお分りになるでしょう。もちろんあたしは尼さんでもなんでもないのよ。命令によって働いている婦人警官の小田春代という女なんですわ。あたしは特に選ばれて、すこし臭いハルピン虎を探(さ)ぐる係となり、黄風島へ出かけて尼僧に化けているところを貴方にお目にかかり、それからあの鍵をみて、それでこの大成功をおさめたのよ。しかしね、あたしはもうこの事件を最後に退職する決心ですわ」 「退職するって。そしてそれから後をどうするの?」 「さあ、どうしましょうかねえ、あなた……」 「……」僕は黙って傍の棚の上から島田髷の鬘(かつら)を下ろすと彼女の頭にかぶせた。するとそこにははっきりと鍵から抜けだした横顔の女が現われた。「これが結えるくらい髪が伸びるのを待って、君と僕との盛大な結婚式をあげようね」
底本:「海野十三全集 第2巻」三一書房 1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「富士」 1936(昭和11)年4月号 入力:浦山聖子 校正:もりみつじゅんじ ファイル作成:もりみつじゅんじ 2002年1月3日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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