辛抱に辛抱を重ねて、短い杉箸を集めていった僕は、もうよかろうというところに達した。こんどは方針をかえて、夕飯のときの御飯をすこしずつポケットに忍びこませた。そして監守が膳を下げ、身体を点検して帰ってしまうと、その飯をとりだして、練りあわせて練飯を作った。そしてよく練れた練飯でもって、杉箸の片を四方一束に貼りあわせ、且つ一本ずつ少しばかり端を不揃いにして置いて、だんだん先へ長く継いでいった。結局一と月かかったけれどこんな風にしてとうとう二尺あまりの丈夫な棒切れを作ることが出来た。幸いに隠し方がうまかったので、監守に見つからずに済んだ。これさえあればもうしめたものである。これを手にもって、例の四角な穴から外へだし、腕金の錘りをつきあげれば扉は開く筈だった。 あとは機会を待つだけのことだったが、いよいよ今夜は、待ちに待ったその夜だった。今夜からこの黄風島の夏祭りが始まるのだった。北国にも夏はあった。それは極めて短い夏であったが、それだけに一年中で夏は尊いのだった。島は現地の人といわず、日本人といわず、昼も夜ものべつ幕なしに、飲み歌い踊って暮すのだった。僕たちの監守にとっても、それはやはり尊い夏祭りの夜だったのである。 午後九時に、僕たちの部屋を二人の監守が見まわるのが常例になっていた。そのときは人員の点呼をし、健康状態がよいかどうかをたしかめた上、就寝させられることになっていた。 果してその夜も、常例の点呼が始まった。 「第四号室。――皆居るかア。――」 一人の監守は、室内に入ると扉の陰に立って入口を守り、もう一人の監守は、室の向うの隅こっちの隅でそれぞれ勝手なことをやっている患者の傍へいちいち行って、まるで郵便函の中の手紙を押すように身体を点検した。いつも裸になっている患者には、慣例によって西洋寝衣のようなものを被せた。――最初に監守は僕の傍へ近よったが、プーンとひどく酒くさかった。入口の監守はと見ると、扉につかまったまま、靴尖でコツコツと佐渡おけさを叩き鳴らしていた。 「皆、おとなしく、早く寝ちまうのだぞオ。――」 そういい置いて、二人の監守は室を出ていった。――靴音はだんだん遠のいて、次の室を明けるらしいガチャンガチャンという音が聞えてきた。僕はなおも五分間を待った。監守が鉤型(かぎがた)に折れた向うの病棟へ廻るのを待つためだった。 いよいよ、時は熟した。 僕は煎餅蒲団(せんべいぶとん)の間から滑りだすと、大胆に行動を開始した。扉の上の欄間に隠してあった杉箸細工の棒切れをとりだすと、かねての手筈どおり、扉の下に腹匍い、棒切れをもった腕を空気穴から出して棒の先で壁を軽く叩きながら、腕金を探った。そんなことをしながらも、もしや廊下を誰かが通りかかって、この大胆な振舞を見られていやしないかと、外が見えぬ僕は、たいへん心配だった。 ――棒の先にコツンと錘りが触った。それをコンコンと叩きながら、程よい真中あたりに見当をつけ、そこへ棒切れを押しつけた。僕の心臓はにわかに激しく高鳴った。さあ、巧くゆくか失敗するか、次の瞬間に決るのだ。 「うーン」 棒の先に、だんだんと力を籠(こ)めていった。ギイギイギイと腕金の錘りが浮きだした。僕はここぞと思ってあらん限りの力を出して腕をつっぱった。…… ビシリッ! 「失敗(しま)った。――」 と思ったときは、もう遅かった。杉箸細工の棒切れはもろくも折れて、腕は空を衝き、勢あまって頭を壁にガーンとぶっつけた。
生死の分岐点
そのときの僕の残念さといったら、口にも文字にもあらわせなかった。二月ばかり、並々ならぬ苦心をして、やっと作りあげた棒が、最後の舞台で脆くも折れてしまったのだから、その口惜しさといったらなんといってよいか、腸(はらわた)が熱くなるようであった。 僕は床の上から力なく起きあがった。運命の神はこんなにも意地悪なものかと慨(なげ)きながら……。 僕は暫くジッと鉄扉を睨みつけていた。あの箸棒さえ折れなかったら、今ごろはこの扉がギイッと明いたのだ――と思いながら、指さきで鉄扉をちょんと弾いた。 「呀(あ)ッ。――」 僕は思わず大声で喚(わめ)いた。なんという思いがけないことだろう。僕の指さきに籠(こ)めた僅かばかりの力で、城壁のように動かないと思っていた扉がギイッと音をたてて外へ開いたのだった。渓谷(けいこく)のような深い失望から、たちまち峻岳(しゅんがく)のように高い喜悦(きえつ)へ、――。 (そうだ。杉箸の棒は折れたけれど、折れる前に、扉の腕金をすっかり起していたのだ! 万歳) 僕は咄嗟の間に真相を悟った。 僕は喜びのあまり、すぐに扉の外へとびだした。そして気がついて背後をふりかえると、さっきから僕のすることを興味ぶかげに寄ってみていた同室の二人が、これも続いて室内から飛び出してこようとするところだった。 「うぬッ――」 僕はふりかえりざま、二人を室内に押し戻すと、鉄扉をピシャンと閉めてしまった。いま一緒に出られては、すぐ監守に見つかってしまう。それでは二ヶ月の苦心も水の泡だった。――押し戻された二人は、争って覗き穴のところから顔をつきだし、まるで獣のように咆(ほ)えたてた。 僕は鉄扉の外から、腕金を横に仆して、もう誰も出られないようにした。そして暗い廊下の壁に身体をピタリとつけ、蜘蛛のように匍いながら出口の方へ進んだ。 出口には、とても頑丈な鉄格子があって、その真中が、鉄格子の扉になっていた。そしてその外に、監守の詰所があった。そこには灯があかあかと点っていた。 出口の鉄格子はピシャンと閉っていた。しかしその格子には、大きな錠前がついていながら、いつも錠が下りていないことを僕は予(あらかじ)め知っていた。それは出入が頻繁なので、いちいち掛けておいたのではたいへん不便なせいであろう。 「あの関所さえ越せば……」 僕は幸いあたりに人のいないのを見澄すと、胸を躍らせて鉄格子の扉に近づいた。――果然(かぜん)今夜も鉄格子には錠が下りていなかった。 「しめた」 僕は鉄格子に手をかけると、ソッと押してみた。 ギギギギギイ。 鉄格子には狂いが来ているらしく、甲高い金属の擦れあう音がして、僕の肝(きも)を冷やりとさせた。 こいつはいけない! と思ったが、格子を開けなければ外へ出られない。僕は更に気をつけて、ソッと扉を押しつづけたが、それでもギギギギギイと鉄格子はきしんだ。監守詰所にいる人に、悟られなければよいが……。 「だッ、誰? 清田君か――」 と、突然詰所のうちから声がした。かなりアルコールが廻っているらしい声だった。僕は電気にひっかかったように、その場に震えだした。露見(ろけん)か? 「おウ……」 僕は大胆にも作り声をして返事をした。 「早くしろ、早く。出かけるのが遅くなるじゃないか。……」 「うむ――」 僕は鉄扉を開くと、スルリと外へ出た。そして腰をかがめて、詰所の窓下を通りぬけ、あとは廊下をなるべく音をたてずに疾走したのだった。 「なにをしとるんだ。――」 そのとき詰所の硝子窓がガラリと開いた。 「おい。……誰だ。呀(あ)ッ、逃げたなッ。――」 監守の怒号する声、――それにつづいて乱暴にも、ダダーン、ダダーンと拳銃の響き! ヒューッ、ヒューッ――、廊下を飛ぶように走ってゆく僕の耳許(みみもと)を掠(かす)めて、銃丸(じゅうがん)がとおりすぎた。そして或る弾は、コンクリートの壁に一度当ってから、足許にゴロゴロ転がって来た。いま僕は生死の境に立っていた。無我夢中に、どこをどう突走ったか覚えがないが、建物の外へ出ると、真暗な庭にとびだし、それから、つきあたったところの高い塀にヤッと飛びついて、転がり落ちるように塀の外に落ちた。そのとき精神病院の塔の上で、ウーウーウーとサイレンが鳴りだしたのを聞いた。――僕はそれを後にして、ドンドンと祭の夜の灯の街の方へ逃げだしていった。 そのとき僕の服装は、病院の患者に支給される西洋寝衣だったので、ある橋の畔まで来たとき、それをすっかり脱いで、小脇に抱えて来た紙包を解いて予(かね)て用意の詰襟(つめえり)の学生服に着かえ、寝衣の方は紙包みにし、傍に落ちていた手頃の石を錘(おも)し代りに結び、河の中へドボーンと投げこんでしまった。そこで、どこから見ても、学生になりすましたのだった。僕は大威張りで、明るい灯の街へ入っていった。 夜の街は、沸きかえるような賑かさだった。両側の飲食店からは、絃歌の音がさんざめき、それに交って、どこの露地からも、異国情調の濃い胡弓(こきゅう)の音や騒々しい銅鑼(どら)のぶったたくような音が響いて来た。色提灯を吊し、赤黄青のモールで飾りたてた家々の窓はいずれも開放され、その中には踊り且つ歌う人の取り乱した姿が見えた。また街路の上には、音頭を歌って手ふり足ふり、踊りあるく一団があるかと思うと、また横丁から大きな竜の作りものを多勢で担ぎ出してきて、道路を嘗(な)めるように踊ってゆくのだった。
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