大海底
僕は目を見はった。 大きな硝子ばりの窓を通して、眼下にひらける広々とした雄大なる奇異な風景! それは、あたかも那須高原に立って大平原を見下ろしたのに似ていたが、それよりもずっとずっと雄大な風景であった。鼠色の丘がいくつも重なり合って起伏している。それから空を摩するような林が、あちらこちらにも見える。 と、その林がとつぜんゆらゆらと大きくゆれるのであった。すると林の中から、まっ黒な颶風の雲のようなものが現われ、急行列車のようなすごいスピードで走る――と見えたは、よく見れば何千何万という魚群なのであった。そしてうしろの林、これは、ポプラの木に似ているが実はそうではなく、大きな昆布の林だということが分ってきた。 雲のような魚群が、左から右からとぶっちがい、あるいはとつぜん空から舞い下りて来るように見えたり、あるいはまた急にすぐ前の硝子ばりの向こうを嵐のように過ぎて、まるでトンネルの中へ入ったようにしばらくは何にも見えなくなることもあった。すばらしく活発な魚群だった。 大海底の住民は、魚群なのだ。 その大海底が、ふしぎにも月光に照らし出されたように、はっきりと遠くまでが見えているのであった。あとで聞くと、これは海底全体に強い照明が行われているのだった。 「お客さん、分りましたか。向こうに見えるへんなものが何であるか、お分りですか」 僕はタクマ少年の声によって、びっくりして、吾れにかえった。 「ああ、そうだったね。何かへんなものが見えるだろうと、君はさっきからいっていたんだね。それはどこかね」 「あそこですよ。今、鯛の大群が下りていった海藻の林のすぐ右ですよ」 「ああ、見える、見える、あれだね。なるほど、へんなものが丘の上にある。まるで傾いたお城のようだが、一体何だろう」 「分りませんか。よく見て下さい」 僕はそのお城が地震にあったようなふしぎなものをしばらくじっと見つめていた。そのうちに僕は、はたと思いあたった。 「分った。あれは沈没した軍艦じゃないか。ねえ君、そうだろう」 僕がふりかえると、タクマ少年は無言でうなずいてみせた。 「軍艦にしてはずいぶん大きい軍艦だね。形もかわっているし、航空母艦じゃあないだろうか」 「そうです。あれは航空母艦のシナノです」 「シナノ? すると、あの六万何千トンかあったやつかね。太平洋戦争中に竣工して、館山を出て東京湾口から外に出たと思ったら、すぐ魚雷攻撃をくらって他愛なく沈没してしまったというあれかね」 「そうですよ」 「あんなものを、なぜあんなところへ持って来ておいたんだい」 「シナノは、あそこで沈没したんですよ」 「ああ、そうだったか。すると、ここは東京湾口を出たすぐのところの海底だというわけだね」 僕は、始めて自分が今立っている位置を知ることが出来た。しかしなんという変りかたであろう。海底にいつの間にかこんな立派な海のぞき館が出来ているなんて。 「ねえタクマ君。あんなシナノをなぜ片づけてしまわないのかね。目ざわりじゃないか」 「そういう意見もありましたがね、しかし多数の意見は、シナノをあのままにしておいて、われわれが再び人類相食む野蛮な戦争をしないように、そのいましめの記念塔として、あのままおいた方がいいということになったのです。日本が戦争放棄を宣言して以来、世界の各国は次から次へとわしの国も戦争放棄だといいだして、今のような本当の平和世界が完成したんです。この平和世界の始まりの記念塔としても、あの不ざまな沈没艦は観光客によろこばれているのです」 「なるほどねえ」 僕はしみじみと昔を思い出した。 敗戦のあとの苦しかったあの年々のこと。希望もなんにもなくなって死のことしか考えられなかったときに、それまでは敵として戦ってきた戦勝国のアメリカなどが意外にもわれわれの手をとって泥溝の中から救い上げてくれ、そしていろいろと慰め、元気づけ、そして行くべき道を教えてくれたこと。ああ、その偉大なる愛の力によって今このような楽しい時代が来たのである。 「さあ、それでは、これからにぎやかな下町の方へご案内しましょう。お客さんにはきっと気に入りますよ」 タクマ少年が、僕の服の袖をひっぱってそういった。
雄大なる誕生
タクマ少年の案内で、僕は下町へ向かった。また例のとおり、気味のわるい動く道路の上に乗った僕は、こんどは前よりも少しうまく身体の釣合をたもつことが出来るようになった。 その道々、僕はタクマ少年にいろいろと話しかけた。さっき海底をのぞかせられてから、僕は胸の中にふに落ちないことがたくさんたまったからである。 「ねえ少年君。僕はさっぱり世の中のことにうといんだが、一体これはどういうわけなんだろうね」 「何がですか」 「何がといって、つまりこの町のことさ。なぜこんな海の底に人間が住むようになったのかね」 「そのわけは簡単ですよ。今から二十年前に日本は戦争に負けて、せまい国になってしまったことは知っているでしょう。しかしその後人間はどんどんふえで、陸の上だけでは住む場所もなくなったんです。なにしろ相当広い面積を農業や林業や道路などに使わねばならず、輸出のための工場も広い敷地がいるので、いよいよ窮屈になったんです。そこで困って考えて、ついに考えついたのが、海底に都市をつくることでした。これはすばらしい名案でした。この名案を思いつかなかったら、日本の国はどんなに苦しい目にあわなければならなかったか分りません」 タクマ少年の声は泣いているような、ひびきを伝えた。 「でも、海底に都市をつくるなんて、たいへんな工事じゃないか。水圧のことを考えてみただけでも身ぶるいがする。あのすごい水圧に対して耐える材料といえば、鉄材とセメントを使ってするにしても、たいへんな量がなければならない。それにさ、うっかりするとそれに穴があいて、水が町へどっと滝のように流れこんできたら、これはいよいよたいへんだよ。海底の町に住んでいる人は、ほとんど皆、おぼれ死んでしまわなければならないわけだからね。またその工事にしても何十年何百年かかるかもしれない……」 「待って下さい、お客さん」 タクマ少年はおかしさをこらえきれないという顔つきでいった。 「まさかお客さんは日本人が原子力を使うことを知らないとおっしゃるのじゃないでしょうね」 「原子力? ああそうか。あの原子爆弾の原子力か」 「いえ原子爆弾ではありません、原子力を使ってエンジンを動かしどんどん土木工事をすすめるのです。昔は蒸気の力や石炭や石油の力、それから電気の力などを使ってやっていましたが、あんなものはもう時代おくれです。原子力を使えばスエズ運河も一ヵ月ぐらいで出来るでしょう。また海の水をせきとめる大防波堤も、らくに出来上ります。昔のエンジンの出す力を、かりに蟻一匹の力にたとえると、今どこにでもある一番小さいエンジンの出る力は、七尺ゆたかな横綱力士が出す力ぐらいに相当するんですからねえ、まるで桁ちがいですよ」 「なるほど、そういわれると、そのはずだねえ。しかし……」 「しかしも明石もありませんよ。原子力エンジンが使えるおかげで全世界いたるところに大土木工事の競争みたいなものが始まったことでしたよ。そして日本では、この海底都市の建設が始まったわけです。三浦半島のとっさきの剣崎の付近から原子力エンジンを使ってボーリングを始めましたが、どんどん鋼材とセメントを注ぎこんで、その日のうちに工事は海面下五十メートルに達するという進み方です。翌日は更に掘って二百メートル下まで掘り下げ、それからこんどは横に掘り始めたんです」 「そうかね、そんなに速く工事が進むとは、夢のようだ」 「最初の設計では、大体海面下に十階建くらいの大きなビルのようなものを作るつもりでしたが、工事があまり楽に行くので、急に設計替えとなり、陸地をはなれること十五キロの地点を中心とした海底都市を作ることになりました。そしてその探さは、浅いところでは海面下百メートルという範囲に人口がおよそ百万人見当の都市を建設することになりました。……聞いておいでですか」 「ああ、聞いているとも」 「その海底都市の骨格に相当する八十階で建坪一万一千平方キロメートルの坑道ががっちり出来たのが、実に起工後十四日目なんです。それからこんどは、生活に必要な設備をしたり、町を美しく装飾したり、各工場や商店や住宅や劇場などの屋内をそれぞれ十分に飾りたて、道具を置くのに、更に一週間かかって遂に出来上ったんです」 「ふうん、信じられない。信じられないことだ」 僕はとうとう本心を言葉に出して、つぶやいた。
海溝の大工事
「信じられないというんですか、はははは。分りましたよ。お客さんは、まだ原子力エンジンが仕事をしているところを、ごらんになったことがないのでしょう」 タクマ少年は、動く道路の上で僕の方をふりかえってそういった。 「まだ見ていないことは、見ていないんだけれどねえ……」 僕は、きまりのわるいおもいをして、本当のことを告白するしかなかった。だが、そのとき僕は自分の心の中で、くりかえしさけんでいた。 (うそだ。うそだ。いくら原子力エンジンかは知らないが、こんなりっぱな海底街が、たった三週間で完成するものかい。うそだ。うそだ) このときタクマ少年は、大きくうなずくと僕の腕をとって引立てた。 「それじゃ、下町へご案内するのを後まわしにして、先に原子力エンジンを動かして仕事をやっている工事場の方へおつれいたしましょう」 「それはたいへん結構だね。ぜひ一度見て、おどろかされたいと思っていたところだ。だがね、僕は生まれつき心臓がつよいから、ちょっとや、そっとのことでは、おどろかない人間だからねえ」 僕は、やせがまんのようだが、そういってやった。これくらいつよくいっておかないと、僕はますますタクマ少年にばかにされそうであった。 「さあ、この先で、動く道路を乗りかえるのです。私と調子をあわせて、べつの道路へうまく乗りかえてくださいよ。もし目がまわるようだったら、私にそういって下さい。すぐおくすりをあげますからね」 「おくすりなんかいらないよ」 僕は行手に、虹のような流れが左右にわかれて遠くへ流れ動いていくのを見、目がくらみそうになった。 「来ました、来ました、乗りかえ場所のヒナゲシ区です。はい、一、二、三、それッ」 僕の身体は、ふわりと浮いた。と、身体は左へひったくられたようになった。身体の釣合がやぶれた。(あぶない!)と口の中でさけんだとき、僕の腰は何ものかによってしっかり抱きとめられていた。いうまでもなく、僕を抱きとめたのはタクマ少年であった。少年に似合わぬすごい力だ。それにもなにかわけがあるのかもしれない、などと思っているうちに、少年はしずかに僕を、下におろした。道路は気持よく走っていた――あの辻のところで、僕らは道を左へ乗りかえたらしい。と、道は下り坂になった。 あたりはひろいトンネルの中の感じで、間接照明によって、影のない快い照明が行われていた。さっきの辻のところまでは、にぎやかな街の家並が見え、買物や散歩の人々の群をながめることが出来たものだが、今はそういうものは全く見えない。単調なトンネルの感が強い。 「いやに、さびしいところだね」 と、僕がいったら、タクマ少年は、 「ここは一昨日出来上がったばかりのところなんですからね、それだからまださびしいのです。それにこの道は、これからご案内する海溝の棚工事のための専用道なんです」 海溝の棚工事? いったいそれはどんなことであろう。僕は、すぐ少年に聞きかえさずにいられなかった。 「海溝というのは、ご存でしょう。海の底が急に深く溝のようにえぐられているところです。こっちで一番有名なのは日本大海溝です。その外にも海溝があります。――こんどの工事は、海溝の上に幅五キロ、深さ百キロの棚をつくり、その棚の先から下へ壁深さ五十キロのをおろし、そして中の海水を外へ追出してしまうのです。すると、それだけの海溝が乾あがってわれわれ人間が潜水服などを着ないで行けるようになります。ねえ、そういうわけでしょう」 「そういうわけには違いないが、そんな誇大妄想のような大工事が、人間の手でやれるかい」 「この棚工事は、この海底都が始まって以来の新しい種類の工事なので、先例はないのですが、やってやれないことはないんだと、みんないっていますよ。しかしさすがに不安なところもあると見え、技師たちは念入りに工事計画をしらべていますよ」 「一体、そんな棚工事をして、どんな利益をあげようというのかね」 「それは分っていますよ。海溝のような大深海における資源を、一度に完全に、こっちのものにしようというんです」 「なんだか、とても大きなバクチの話を聞いているような気がするよ。――それで、その資源というと、どんなものかね。特別の掘出し物でもあるのかね」 「それはいろいろあるという話ですがね、中でもみんなの期待しているのは……」 といいかけたとき、僕たちは急に明るい広々とした大造船所みたいなところへ出た。
原子エンジン
こんな大仕掛な造船所を、いまだ見たことがない。しかも地上にあるのならとにかく、海底の国にこんな造船所を設備して、いったい何になるのであろうかと、僕はふしぎに思いながら、そのすばらしい機械の動きに目をみはっていた。 「お客さん。今、ここから海溝へ棚をつきだしているのですよ」 とタクマ少年はいった。 「もう一時間もすれば、予定の棚は全部出来上るそうです。棚が出来たところからは、更に下へ向かって柱をたてます。どんどん柱が立ったところで、それを横につらねて、堅固な壁が出来ます。そうして一区画ずつ出来上ると、こんどは排水作業をやります。壁の下部に排水孔がありますから、そこから海水を押出すのです。ああここに工事のあらましを書いた図面がありますから、これをごらんなさい」 タクマ少年は、やすんでいる起重機の上にのっていた青写真をとりあげると、僕に見せてくれた。なるほど、その図面には、今少年が話をしてくれたとおりの、大胆きわまる大深海の工事が略図になって、したためられてあった。 「すばらしい着想だ。が……」 僕は、あとの言葉をのみこんだ。 「だが、どうしました。どこかおかしいですか」 少年は、すっかり僕を田舎者にしてしまって、おとなしくその相手になってくれる。前のように、僕がとんちんかんなことをいっても、あざ笑うようなことはなくなった。 「つまりだね、棚を海中に横につきだすという考えはいいが、その棚を横につきだすにはたいへんな力が要るよ」 「それはわけなしです。原子力エンジンでやればいいですからね」 「ふん、原子力エンジンか。なるほど。しかしだ、棚を海中へにゅうと出す。すると棚と、われているこの地下街の壁との間に隙間が出来るだろう。その隙間から、海水がどっと、こっちへ噴きだすおそれがある。なんしろ海面下何百メートルの深海だから、この向こうにある海水の圧力は実に恐るべきものだ。ああ、僕は心臓がどきどきして来た」 僕の顔から血がさっとひいて、皮膚が鳥肌になるのが、僕自身にもよく分った。 「お客さん、大丈夫ですよ。そんなことは、始めから考えに入れて計画してあるんですから、危険は絶対にないですよ。石炭やガソリンを使った昔のエンジンに、危険はあったにしろ、原子力エンジンになってからは、そんな危険は一つもないですよ。それというのが昔のエンジンは出力が小さいのでそのために能率をうんとあげなければならず、そこに無理が出来てよくエンジンの故障や機関の爆発などがあったんですよ。今の原子力エンジンでは、出力は申し分なく出ます。能率は、低いものでも三千パーセント、いいですか百パーセントどころじゃなくて、三千パーセントですぞ。つまり三十倍に増大して行くんですから、出力は申し分なしです。ですから、昔のように無理をして使うということがない。従って、危険だの何だのという心配は、絶対にしなくていいんです」 タクマ少年の話を聞いているとたいへんうれしいやら、そしてまた僕自身の頭の古さが腹立たしいやらであった。 だが、それにしても、僕は知ったかぶりをしてはよろしくないと思った。分らないことは何でも分るまで聞いておくがいいと思った。ことにこの案内人のタクマ少年と来たら、肩のところにかわいい羽根をかくしている天国の天使じゃないかと怪しまれるほどの純良な無邪気な子供だったから、僕は知らないことを知らないとして尋ねるのに、すこしも聞きにくいことはなかった。ただ、自分の頭の悪さに赤面することは、しばしばあった。 「さあお客さん。実物を見た方が早わかりがしますよ。あれをごらんなさい。ぐんぐんと向こうへ押し込まれていく不錆鋼の長い桿[#ルビの「かん」は底本では「かく」](ビーム)をごらんなさい。あれが棚になる主要資材なんです」 なるほど、巨人国で使うレールのような形をした鉄材が数十本、上下から互いに噛み合ったようになったまま、ぐんぐん壁の向こうへ入っていく。すさまじい力だ。原子力エンジンを使ってうちこんでいるのだ。 「よく見てごらんなさい。あの長い桿には、端というものがないですからね。どこまでも一本ものとして続いているでしょう。あれは蚕が糸をくりだすのと同じ理屈で桿が製造され、そして製造される傍からああして押し出され、うちこまれていくのです」 全くすばらしく進歩した技術だ、僕は舌をまいて感心のしつづけだ。 そのとき僕は、これは夢をみているのではないかと思った。それはかかる大工事が行われているのにも拘らず、よく工場で耳にするあのやかましく金属のぶつかる音が、すこしもしないのであったから……。
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