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恐しき通夜(おそろしきつや)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-24 10:58:03 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



   第三話 大蘆原軍医の話


「それでは私が、今夜の通夜物語の第三話を始めることにしよう」そう云って軍医はスリー・キャッスルに火をつけた。
「川波大尉どののお話といま聞いたばかりの星宮君の話とは全然内容がちがっている癖に、恋愛論というか性愛論というか、それが含まれているところには、一種連続点があるようだ。そこで、私の話も、勢いその後を引継いだように進めるのが、面白いように思う。ところが丁度ここに偶然、第三話として、まことに恰好な物語があるんだ。そいつを話すことにしよう。
 実は今夜、私がここへ出勤するのが、常日頃に似合わず、大変遅れてしまって、諸君に御迷惑をかけたが(と云って軍医は軽く頭を下げた)何故私が手間どったのか、それについてお話しよう。
 今夜七時、私の自宅に開いている医院に、一人の婦人患者がやってきたのだ。美貌びぼうのせいもあるだろうが、二十を過ぎたとは見えぬうら若い女性だった。その、少女とでも云いたいような彼女が、私に受けたいというのは、実は人工流産だというんだ。一体、人工流産をさせるには、医学的に相当の理由が無くては、開業医といえどもウッカリ手を下せないのだ。母体が肺結核はいけっかくとか慢性腎臓炎まんせいじんぞうえんであるとかで、胎児たいじの成長や分娩ぶんべんやが、母体の生命をおびやかすような場合とか、母体が悪質の遺伝病を持っている場合とかに始めて人工流産をすることが、法律で許されてある。しこれに反して、別段母体が危険にひんしてもいないのに、人工流産をほどこすと、その医者は無論のこと、患者も共ども、堕胎罪だたいざいとして、起訴されなければならない。
 さて、その若い女の全身にわたって、精密な診断を施したところ、人工流産をほどこすべきやいなやについて、非常に困難な判断が要ることが判った。それというのが、打ちみたところ、この女は立派に成熟していたが、すこし心神しんしんにやや過度の消耗しょうもうがあり、左肺尖ひだりはいせん軽微びじゃくながら心配の種になるラッセル音が聴こえるのだ。この患者の体力消耗が一時的現象で、このまま回復するのだと、肺尖加答児はいせんかたるも間もなく治癒ちゆするだろうから、折角始めて得た子宝こだからのことでもあり、流産をさせないで其のまま、正規分娩にまで進ませていいのだ。だがし、この消耗が恢復せず、更に悪化するようなら、断然だんぜん流産をさせて置く方がよろしい。しからば、この女性について、見込みはいずれであろうか、と考えると、これがどっちにも考えられるのだ。私として、これは惑わざるを得ない事柄だった。
『もうト月待ってみませんか』
 と私は云いたいところだ。しかし、一ケ月後の人工流産では、すこし大きくなりすぎているので、母体の余後が少し案ぜられるのだった。けれども、私はそんなことを口に出して云わなかった。それというのが、以前この女の口からなみだをもって聞かされた話があるからなのだ。
 この若い女には、彼女の胎児にパパと呼ばせる男がなかったのだ。と云って、その男が死んでしまったわけではない。早く云えばこの女は、親の許さぬ或る男に身を委せ、とうとう妊娠にんしんして仕舞ったのだ。男は、幣履へいりのごとく、この女をふり捨ててしまったのだった。彼女は、星宮君の云うが如きロシアの女には、なりきれなかったのだ。棄てられてしまうと、彼女はやっと目が覚めた。貞操をもてあそばれた悔恨かいこんが、彼女の小さい胸に、深い深いみぞを刻みこんだ。それからというものは、彼女は人が変ったように終日ひねもすおのれの小さい室に引籠ひきこもって、家人にさえ顔を合わすのをいやがったが、遂には極度の神経衰弱に陥り、一時は、あられもない事を口走るようになってしまったのだった。
 彼女の家庭のひとびとは、彼女を捨てたその男をのろってやまなかった。中でも一番ふかい憤怒ふんぬをいだいたのは、次兄にあたる人だった。次兄は彼女が幼いときから、特別に彼女を可愛いがっていたのだった。
『大きくなったら、あたいのお嫁さんに貰おうかなア』
 などと云って両親や、伯母たちに散々笑われたほどだった。そんなに可愛いがった妹が、すくみちのない汚辱おじょくに泣き暮しているのを見ると、その次兄は、
復讐ふくしゅうだ、復讐だ! きっと其の男を殺して、八ツきにしてやるんだ。おれがその男を殺したかどにより、次の日、死刑にされたっていい』
 と家中を呶鳴どなって歩いたものだ。彼は復讐の方法をあれやこれやと考えたのだったが、遂には、それはすべて無駄だと判った。それというのが、その男は、星宮君と同じような近代的の主義思想の男で殺されても一向制裁と感じないという種類の人物だった――とマア、斯様かように連絡をつけて話をしないと、どうも面白味が出てこない」
 軍医はポケットから手帛ハンカチを探しだして汗を拭いた。このとき南に面した硝子窓ガラスまどが、カタコトと鳴って、やがてパラパラと高い音をたてて大粒の雨がうち当った。
「ほう、これはひどい雨になったな。――で其の次兄というのが、智恵袋ちえぶくろを、いくたびもいくたびもしぼりかえしているうちに、とうとう彼は、その場に三尺も躍りあがるような、素晴らしい復讐ふくしゅうを考えついたのだった。それは……」
 と、ここまで大蘆原軍医が話してくると、どこかで、
「コトコト、コトコト……」
 とドアを叩くような物音がした。三人の男は、サッと顔色をかえると、一せいに入口の扉の方にふりむいたのだった。
ッ!」
 扉が、しずかに手前へ開いてゆく。
 扉の蔭から、若い女の姿が現われた。ぴったり身体についた緋色ひいろの洋装が、よく似合う美しい女だった。
「紅子――」
 そう呼んだのは、川波大尉だった。それは、まぎれもなく川波大尉夫人の紅子に違いなかったのであった。
「紅子、お前は一体、どうしてこんな夜更よふけに、こんな場所までやって来たのだ」
「ちょいと、お顔がみたかったのよ。それだけなの、おほほほほ」
 と紅子は笑いながら、悪びれた様子もなく一座を見まわした。このときニヤリと笑ったのは、星宮学士だった。待ち構えたように、それを逸早いちはやく認めた川波大尉だった。彼は軍医の話をそちのけにして、スックリ其の場に立ち上った。
「紅子、お前にちょっと聞くが、儂が土耳古トルコで買ってきたといった珍らしい彫刻のある指環を、お前にやって置いたが、先日そいつを、どこかで失くしたと云ったね」
「エエそうですわ。でもあれは、もう済んだことじゃありませんの」と紅子は、丸い肩を、ちょっとすぼめるようにして云った。
「よォし、無いと判ってりゃ、よいのだ」大尉はそう云うとクルリと身をひるがえし、いきなり星宮学士の両腕をグッとつかんだ。「貴様! という貴様は、実に怪しからん奴だ。わしの女房を誘惑して置いて、よくもあんな無礼ぶれいきわまる口を叩いたな。死ぬのを怖れんという貴様に、殺される苦痛がどんなものか教えてやるんだ!」
 実験室の静寂せいじゃくと平和とは、古石垣ふるいしがきのようにガラガラと崩れて行った。
「ウフ。今になって気がついたか、可哀想な大尉どの。だが僕が簡単に殺せると思ったら大間違いだよ」
「言うな、色魔しきま!」
「なにを――」と星宮学士は、右のポケットにあるピストルを探りあてた。それを出そうと思って、大尉につかまれた右腕を離そうとして、必死に振りきった。べりべりッというやな音がして、学士の洋服が引裂けると、右腕が急に自由になった。
(こうなると、こっちのものだ)
 そう思った星宮学士は、ピストルを握った右の拳をグッと前にのばそうとした。そこを、
「エイ、ヤッ」
 と大尉が飛びついて、両腕をグッとじあげた。学士は捻じられながらも、いきなり大尉の脇腹を力一杯
「ウン!」
 と蹴とばしたが、この時遅し、大尉は素早く、身体を左に開いたので、気絶することから、かろうじて免れたが、その代り、二人の身体は、もつれあったまま、もんどり打って床の上にたおれてしまった。二人は跳ねおきようと、たがい死物しにものぐるいの格闘をつづけ、机をひっくりかえし、書類箱を押したおしているうちに、どうしたはずみか、ピストルが星宮理学士の手許をはなれ、ガチャンと音をたてて、向うの壁に叩きつけられた。
「さあ、この野郎。ほざけるなら、ほざいてみろ!」
 そう云って、いかにも勝ちほこった名乗をあげたのは、川波大尉だった。星宮理学士は大尉のたくましい腕にその細首をねじあげられて、ほとんど宙にぶらさがっていた。が、どんなすきがあったのだろうか、学士は両手を大尉の股間こかんにグッと落とすと、無我夢中になって大尉の急所をつかんだのだった。
「ウーム」
 と大尉がうなった。彼の顔は赤くなり、青くなりしたが、これも死にもの狂いの形相ぎょうそうものすごく、学士の身体をグッと手許へよせると、骨も砕けよと敵手のくびを締めつけた。学士は朦朧もうろうと落ちてゆく意識のうちに、しきりに口を大きくひらいてはあえいでいた。だが彼の執念しゅうねんぶかい両手は、なおも大尉の急所を掴んでそれをゆるめようとはしなかった。このままに捨てておくと、二人とも共軛関係きょうやくかんけいにおいて死の門をくぐるばかりだった。
「紅子、うう射て……ピストル、いいから……」
 大尉の声は、切れ切れに、蚊細かぼそく、夫人の援助をもとめたのだった。
 このとき紅子は、いつの間にやら、右手にしっかりとピストルを握りしめていたが、夫大尉のこの声をきくと、莞爾かんじとほほえんだ。
「いいこと!」
 紅子のしなやかな腕がグッと前に伸びる。キラリとピストルの腹が光って、引金がカチリと引かれた。
「ズドーン!」
 銃声一発――大尉と学士とは、壁際かべぎわから同体にからみあったまま、ズルズルと音をさせて、横にたおれた。
 ピストルの煙が、やっと薄らいだとき、仆れた二人のうちの一人が、フラフラと半身を起した。それは大尉にはあらで、意外にも星宮理学士だった。
 彼は、紅子が一発のもとに射ち殺したのは、彼女の夫君ふくんである川波大尉だと知ると、咄嗟とっさのうちに気をとり直し、威厳をつけて、ノッソリ起きあがると、フラフラと紅子の方に歩みよるのだった。
「星宮君。ここへ懸け給え」
 このとき、静かに云ったのは、この場の生命のやりとりに、一と言も口を利かず、片腕もあげなかった奇怪の人物、大蘆原軍医おおあしはらぐんいだった。自分の名をよばれると、流石さすがの星宮理学士も、ギョッとして、その場に立ちすくんだ。
「星宮君。私の第三話が、もうすこしで、尻切しりき蜻蛉とんぼになるところだった。幸い君は生命をとりとめたようだから、サアここへ坐って、あの話の続きを聞いてくれ給え」
 軍医は、落着きはらって、空虚になった二つの椅子を指した。学士は、眼に見えぬ糸にあやつられるかのように、ヨロヨロとよろめきながら、やっとその椅子の傍まで近付くと、崩れるように、その上に腰を下ろした。
「……」
「さア、いいかね、星宮君。さっきは、僕に手術を頼んだ娘の次兄というのが、素晴らしい復讐方法を、妹をかどわかした男に加えるため、考えついた、というところまで話したのだったね。サアその続きだが、さて、あの女の次兄が考えだした讐打あだうちというのはね、死をも怖れないと自称する人間に『死』以上の恐怖を与えることにあったのだった。それで次兄は、今夜妹を人工流産させることに決心したのだ。手術は四十分ばかりかかったが、私の手で巧く終了した。摘出されたのは、すこし太い試験管の、約半分ばかりを占領している四ケ月目の××××××だった。いいかね、その試験管の底に沈澱ちんでんしている胎児は、その男と、あの可憐かれんなる少女とが、おのれの血と肉とを共に別けあって生長させた彼等の真実の子供なのだった。でも母親の胎内を無理に引離され、こうしているその胎児には、もうすでに生命が通っていないのだった。闇から闇へ流れさった、その不幸な胎児の、今日は命日なのだ。その胎児にとって、今夜のこの話は、本当の意味の通夜物語つやものがたりなのだ。
 これだけ云えば、星宮君、君にはなにもかも判ったろう。あの胎児の父は、君なのだ。あの胎児の母は、ちどりと呼ぶ。さて此処ここで、君からかして貰いたいことがある。君に返事ができるかね。
 先刻さっき、君は私の手料理になる栄螺さざえを、鱈腹たらふくべてくれたね。ことに君は、×××××、はし尖端さきに摘みあげて、こいつは甘味うまいといって、嬉しそうに食べたことを覚えているだろうね。
 それで若し、私が、あのちどりの次兄であったとして、いやそう驚かなくてもいいよ、先刻、君が口中であじわい、胃袋へおとし、唯今は胃壁から吸収してしまったであろうと思われる、アノ××××が、栄螺さざえの内臓でなくして、実は、君の血肉ちにくけた、あの胎児たいじだったとしたら、ハテ君は矢張り、
『×××××を、ムシャムシャ喰べてみたが、たいへんに美味おいしかった』
 と嬉しがって呉れるだろうか、ねえ星宮君――」
「ウーム。知らなかったッ」
 と、ふり絞るような声をあげたのは星宮理学士だった。その顔面はみるみる真青まっさおになり、ガタガタと細かく全身をふるわせると、われとわが咽喉のどのあたりを、両手できむしるのだった。
 ああ、時はもうすでに遅かった。いま気がついて、ムカムカとを催しても、彼の喰った栄螺は、もはや半ば以上消化され、胃壁を通じて濁った血となったのだった。頸動脈けいどうみゃくを切断して、ドンドンその濁った血潮ちしおをかいだしても、かい出しつくせるものではなかった。彼の肉塊にくかいをいちいち引裂いて火の中に投じても、焼き尽せるものではなかった。彼は自己嫌悪の全身的な嘔吐おうとと、極度の恐怖とを感ずると、
「ギャッ」
 と一声、獣のような悲鳴をあげて、その場に卒倒したのだった。呪われたる人喰人種――。
     ×
 それを見届けると、大蘆原軍医は始めて莞爾かんじと笑って、かたわらにりよってくる紅子の手をとって、入口のの方にむかって歩きだした。
 今宵、紅子は、彼女の良人おっと、川波大尉を射殺して置きながら、それを振返ってみようともしないのは、どうしたことであるか。それは、川波大尉こそは、第一話に出て来た熊内中尉に、あの恐ろしい無理心中を使嗾しそうした悪漢だった。そのために、当時、鮎川紅子あゆかわべにこと名乗っていた彼女は、愛の殿堂でんどうにまつりあげておいた婚約者の竹花中尉を、永遠にうしなってしまったのだった。
 いわば、今宵こよい良人おっと射殺事件は、あたかも竹花中尉の敵打かたきうちをしたようなものだった。この隠れた事実を、紅子が知ったのは、く最近のことで、それを教えたのは、炯眼けいがんきまわる大蘆原軍医だった。今夜の紅子の登場も、無論、軍医の書いたプログラムの一つだった。
 ここへ来て、この軍医を賞讃する前に、読者諸君は、すこし考えてみなければならない。それは、いくら愛する妹の復讐とは云え、彼女の産みおとしたものを、人間に喰わせるという手段が、人道上許されるものであろうかどうか。奇怪にも友人の細君だった婦人を、れしく、かき抱いてゆく大蘆原軍医は、誰よりも一番恐ろしい、鬼か魔かというべき人物ではあるまいか。
 それはそれとして、二人の姿が、戸外の闇にまぎれて、見えなくなった丁度その時、血みどろに染った二つの死骸が転っている実験室では、真夜中の十二時を報ずる柱時計が、ボーン、ボーンと、無気味な音をたてて、鳴り始めたのだった。





底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1931(昭和6)年12月号
※「一ケ月」「四ケ月」「六ケ月」などの「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:ペガサス
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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