怪事件突発!
なにしろこういう絶海の孤島も同じようなところで、まっくろになって昼夜を分かたず、激しい労働に従っている人たちが三千人もいるのであるから、人間の心もあらくなっている。だから彼等をなぐさめるために、食堂とか酒場とか映画館その他の見世物までもあり、人気のわるいことは格別であった。 もちろん非番の者にちがいないが、ぐでんぐでんに酔払ったり、その揚句のはてに呶鳴ったり打つ蹴るの激しい喧嘩をやっている者もある。 まるで裏街みたいなところもある。 その間を、帝国軍人はきちんとして通り、皇軍の威容を、飛行島の連中にも心に痛いほど知らせることができた。 夕方の午後六時になって、総員帰艦を終った。 総員の点呼がはじまった。 もちろん、一人のこらず皆、帰艦している――と思いの外、ここにはからずも意外な椿事が起った。 「川上機関大尉が見えません」 驚くべきことが、副長のもとへ届けられた。 「なに、川上機関大尉がまだ帰艦していないというのか」 副長もさすがに驚きの色をかくすことができなかった。 「もう一度、手分して艦内をさがせ」 そこでまたもや捜索となったが、どうしても川上機関大尉の姿が見えない。 どうしたというのだろう。 大尉の身のまわりをしている杉田二等水兵が副長の前によびだされた。 「川上機関大尉の上陸したのを知っているか」 「はい知っております。午後三時十分ごろ、自分と一しょに舷門を出て行かれました」 「うむ、それからどうした」 「はあ。それから機関大尉と甲板の上まで一しょにあがりましたが、そこで私は機関大尉と別れたのであります。それ以後のことは、私は――私は知らんのであります」 「知らない。ふむ、そうか」 副長はさらに大勢の兵員を集めて聞いてみたがどうも分からない。 川上機関大尉が帰艦していないことは、長谷部大尉の耳にも入らずにはいなかった。 彼はすぐさま機関室へとんできた。 「川上機関大尉が帰らぬというが本当か」 それは遺憾ながら本当のことだった。 「これはけしからぬ。よし、俺がいって探してこよう」 長谷部大尉は、すぐさま艦長のところへ駈けつけて、機関大尉を探すために上陸方をねがい出でた。 すると艦長は、 「司令官にお聞きするから、暫く待て」 といった。 暫くたって、長谷部大尉は艦長によばれていってみた。嬉しや上陸許可が下りたかと思いの外、 「司令官はお許しにならぬ。誰一人も上陸はならぬといわれる。また一般にも、言葉をつつしみ、ことに飛行島の方に川上機関大尉のことを洩らすなとの厳命だ。のう、分かったろう。分かったら、そのまま引取ってくれ」 艦長は、長谷部大尉の胸中を思いやって、苦しそうにいった。 そういわれれば、下るよりほかない軍律だった。しかし長谷部大尉の肚のうちは、煮えかえるようだった。 不安と不快との夜はすぎた。遠洋航海はじまっての大椿事だ。 帝国海軍の威信に関することだから、全艦隊員は言葉をつつしめということなので、皆の胸中は一層苦しい。 夜が明けた。 早速捜索隊が派遣されるものと思いこんでいた長谷部大尉は、それにぜひとも参加をさせてくれるようにと、艦長のところへ願い出でた。 艦長は、眉をぴくりと動かして、 「捜索隊は出さぬことになった」 「えっ、それはどうして――」 「司令官の命令である。帰艦するものなら、そのうちに帰ってくるだろう。捜索隊などを上へあげて、それがために脱艦士官があったなどと知れるのはまずいといわれるのだ」 「それはあまりに――」 といったが、考えてみると司令官の言葉にも一理はある。といって、どうして捜索隊を出さずにいられるものか。川上機関大尉をめぐって、飛行島上には何か変ったことがあったのにちがいない。このままにおけば、午前十時すぎには、空しくここを出港してしまうのだ。そんなことになってはいけない。 長谷部大尉は、艦橋につったったまま、眼を閉じてじっと考えこんだ。 (許さん――と一旦司令官がいわれたら、なかなか許すとはいわれない) そのとき大尉が思い出したのは、川上機関大尉の部屋をしらべてみるということだった。 彼はすぐさま、その足で川上機関大尉私室へいってみた。 すると、その私室の前には、四五名の兵員が声高になにか論争していた。 彼等は長谷部大尉の姿を見ると、ぴたりと口を閉じて、一せいに敬礼をした。 「お前たちは、何を騒いどるのか」 すると兵の一人が、 「はっ、私は不思議なることを発見いたしました。川上機関大尉の衣服箱を検査しましたところ、軍帽も服も靴も、すべて員数が揃っております。つまり服装は全部ここに揃っているのであります。機関大尉は素裸でいられるように思われます」 「なに、服装は全部揃っているって。なるほど、それでは裸でいなければならぬ勘定になるが、しかし川上機関大尉は軍服を着て舷門から出ていったんだぞ。それは杉田二等水兵が知っとる」 「おかしくはありますが、本当に揃っているのでありまして、不思議というほかないのであります」 兵は自説をくりかえした。 そうなると、長谷部大尉も、ふーむとうならないわけにゆかなかった。一たいどうしたというのだろう。浮かぶ飛行島をめぐる怪事件の幕は、こうして切って落された。 極東の風雲急なるとき、突如として練習艦隊内に起ったこの事件は、そもいかなる意味があるのか。 南シナ海の上は、今日もギラギラと熱帯の太陽が照りつけて、海は毒を流したように真青であった。
おしゃべり水兵
幾度考えてみても、奇怪な事件である。 だが、奇怪なのはそればかりでなかった。 長谷部大尉が、水兵から聞いたところによると、機関大尉の服は一着のこらず、ちゃんと私室に揃っているというのである。 それなら機関大尉は、いま裸でいなければならぬ理窟になる。 ところが、いつも身のまわりの世話をしていた杉田二等水兵の話によると、彼は機関大尉に連れられて、その日の午後飛行島に上陸したが、その時機関大尉はちゃんと海軍将校の服装をしていたという。 実に奇妙な話である。この謎は一たいどう解けばいいのだろうか。 練習艦明石は、怪事件をのせたまま夜を迎えた。 いつも夜は元気のいい水兵たちの笑声で賑やかな兵員室も、今夜にかぎってなんとなく重苦しい空気につつまれていた。 「杉田は、まだ帰って来ないぞ」 と、太っちょの大辻という二等水兵が、士官室の方に通ずる入口を見やった。 「まったく遅いねえ。艦長のところで、杉田はなにか申開きのできない始末になっているのじゃないかね」 と、同僚があいづちをうった。 すると別の水兵が、いきなり顔を大辻の方に出して、 「おい大辻」 「なんだ。魚崎」 「なんだじゃないぜ。貴様が余計なおしゃべりをするから、杉田がこんな目にあうんだぞ」 「なんだって、俺が余計なおしゃべりをしたって。なにをいうんだ。この大辻さまは、余計なことなんか一言もしゃべったことはないぞ」 魚崎はじめ同僚が噴きだした。大辻のおしゃべりは艦内の名物だ。彼が何かを知ったら、それから十分後には、艦内の水兵たちが皆それを知ってしまうくらいだ。 「なにをいっているのだ。大辻、貴様がいけないんだぞ。川上機関大尉の服は全部私室に揃っております。だから機関大尉はいま素裸でいられるのでありますなどと、余計なことをいったじゃないか」 「あれえ、――」 と大辻はぐりぐり眼玉をむいて、 「こら魚崎、そういったのが、どこがいけないんだ。それは本当のことじゃないか。それとも貴様は、上官に対し嘘をつけとでもいうのか。次第によっては、日頃汁粉を奢ってもらっている貴様といえども、許さんぞ。上官に対し嘘をつけというのか。やい」 「そんなことはいっとらん。余計なことをいうなといっとる。貴様のいった、いま素裸でいられますは、余計なことじゃないか。帝国軍人が、いくら暑いからといって、こんな外人のいるところへ来て、不恰好な素裸でいられるものかい。帝国軍人の威信に関わる」 「おや、なんだか議論が怪しくなったね。さては貴様、俺にいいまかされたことがやっと分かったんだろう。軍服が全部揃ってりゃ、素裸でいるにきまってるじゃないか」 「ばかをいえ。絶対に素裸でいられない」 「なにがばかだ。服がなけりゃ素裸でいるよりほかにしようがないじゃないか」 「へへん、そうじゃないよ。俺は信ずる。すくなくとも褌はしめていられると」 「ふ、ん、ど、し!」 大辻は狒々のように大口をあいて、 「ば、ばかっ」 「いや、それは冗談だが、襦袢を着ていられるかもしれない。または寝間着を着とられるかもしれない。いろんな場合があるんだ。だのに、貴様はあわてて、私室に軍服がそっくり揃っていますから、いま川上機関大尉は素裸でありますなんてことをいった。とにかく杉田がなかなか艦長室から帰って来ないのも、もとはといえば余計な貴様のおしゃべりのせいだぞ」 それを聞いていた大男の大辻は、突然顔をゆがめて、 「お、俺は、そんなつもりでしゃべったんじゃないんだ。杉田のやつが悲痛な顔をしてやがるから、俺も一しょにしらべて、一刻も早く川上機関大尉の行方をさがしだしてやろうと思ってしゃべったんだ。それだのに、貴様らは――貴様らは――うへっへっへっ」 大辻は涙をぽろぽろ出して、泣きだした。 同僚はあわてた。大男の大辻が泣くところをはじめてみたからである。しかもなんという奇妙な泣声だろう。うへっへっへっなんて、泣声だか、それとも笑声だか分かりゃしない。 「おい大辻。わ、分かった分かった」と魚崎は立ちあがって、やさしく大男の肩をなでてやった。 「貴様の友達おもいの気持はよく分かっとる。泣くな泣くな、みっともないじゃないか。布袋さまみたいな貴様が泣くと、褌のないのよりも、もっとみっともないぞ」 どっと一座は爆笑した。 大辻も、それにつりこまれて、涙にぬれた顔をあげながら、にっこり笑った。
飛行島を出港
同僚たちが心配していた杉田二等水兵は、その夜更十二時近くになってはじめて帰された。 彼が、ただ一つ残されたハンモックを天井に釣りはじめた時、その隣で寝ていた魚崎や大辻が眼をさました。 「おう、杉田、帰ってきたか。みんなが心配していたぞ」 「杉田、俺のおしゃべりのせいで、貴様が引張られたんだといって、みんなが俺をいじめやがった。そんなことはないなあ、杉田」 が、杉田は、なにも口を開こうとはしなかった。 「おい杉田。どうしたんだ。艦長に対してどう御返事をしたのだ」 杉田はハンモックの中にもぐりこんだ。そして顔を僚友の方へちょっとだけ向けて、 「おい皆。どうもすまん。俺の気のつけようが十分じゃなかったんだ。しかし皆、どうか信じていてくれ。俺だって帝国軍人だ。卑怯なことはせん。よくそれを覚えていてくれ。――もう俺は寝る」 そういって杉田二等兵は、毛布のなかに顔をうずめてしまった。 僚友たちも、それをみると、やや安堵して自分のハンモックにかえっていった。 しかしこの事件について何かの疑いをかけられている杉田二等水兵は、今宵はたして安らかに眠れるであろうか。 練習艦明石にとって、記録すべき不祥事件の夜は、やがて明けはなれた。 「総員起し」の喇叭が、艦の隅から隅へとひびくのであった。水兵たちは、また元気に甲板上を、そうして狭い艦内をとびまわる。平生とは、なんの変ったこともない風景であった。 午前十時、練習艦隊はいよいよ飛行島の繋留をといて出港ときまった。その用意のため、練習艦明石は、早朝から忙しかった。 当直将校は長谷部大尉だった。 「川上のやつはどうしたろう」 大尉は、前艦橋で飛行島の方を睨みつけながら、胸の中をぐっとついてくる憂鬱をおさえつけた。 一人の下士官が艦橋に上って来て、とことこと大尉の方に歩みよった。 長谷部大尉は、それと見るより、 「おう、御苦労。どうだった」 「はいっ。やはり駄目でありました。川上機関大尉は、今朝にいたるもまだ帰艦しておられません」 「うむ、そうか」 あとは黙って、大尉は飛行島の方へまた顔を向けなおした。 下士官は敬礼をすると、帰っていった。 (まだ帰って来ない) 大尉は口のなかでつぶやいた。 出港は、間近にせまっている。幼いときから、一しょに学び一しょに遊んできた川上を、この南シナ海の真中に残してゆくのは、実につらいことだった。 それも捜索したあげく、見つからなかったというのなら諦めもつくが、飛行島を眼の前にしながら、上陸厳禁という艦長の命令は、あまりにもつらいことだった。だが、軍規は、あくまで厳粛でなければならない。長谷部大尉の眼には、涙一滴浮かんでいないが、胸の中は、はりさけんばかりであった。 前艦橋に艦長が出てこられた。 いよいよ出港だ。 嚠喨たる喇叭が艦上にひびきわたった。 桁には、するすると信号旗があがった。 「出港用意!」 伝令は号笛をふきながら、各甲板や艦内へふれている。 艦首へ急ぐもの、艦尾へ走るもの。やがて、飛行島へつないでいた太い舫索が解かれた。 機関は先ほどから廻っている。 そのうちに、飛行島の鉄桁が横にうごきだした。艦尾は白く泡立っている。小さい波が、後にひろがってゆく。 練習艦明石は、飛行島を離れたのだ! 一番艦の須磨はと見れば、もうかなり先へ進んでいる。 ららららら。ひゅーっ。 飛行島の上からは、さかんに帽子をふる、手をふる。白人も黒人も、顔の黄いろい東洋人も――。 ららららら。ひゅーっ。 飛行島の最上甲板には、飛行島建設団長のリット少将の見送る顔も見える。 桁には、また新たに信号旗がするするとあがった。 「出港に際し、リット少将に対し、深甚なる敬意を表す」 白髪紅顔のリット少将は、にっこりとしてまた挙手の礼を送った。 飛行島の信号鉄塔の上にも、安全なる航海を祈るという旗があがった。 飛行島に働いている連中は、仕事をやめて、盛んに手をふり、口笛をふく。 前艦橋につったって、長谷部大尉は双眼鏡を眼にあてて、この盛大なる見送りの人々をじっと眺めていた。顔、顔! 数百数千の顔を一人も見落すまいと! 鉄桁の間、起重機の上、各甲板、共楽街の屋根、アパートの窓――どこにも顔、また顔の鈴なりだ。 その中から大尉は心に念ずるただ一つの顔をさがし出そうとして、一生懸命であった。大尉の念ずる顔とはいうまでもなく、川上機関大尉のあの凛々しい顔であった。 長谷部大尉は、双眼鏡を眼にあてたまま、彫像のように動かない。その鏡中には、さだめし数えつくせないほどの顔が動いていることだろう。 「うむ、――」 とつぜん長谷部大尉がうなった。双眼鏡をもつ大尉の手が、ぶるぶるとふるえた。彼はいそがしく、双眼鏡のピントをあわせた。―― 飛行島の第三甲板にある労働者アパートの、はしから三つ目の窓に、鈴なりの男女の肩越しに、頭に繃帯を巻いた東洋人の顔がこっちを見ていた。 大尉の胸は、にわかに高鳴った。 彼は穴のあくほど、その東洋人の顔をみつめた。そしてもっとはっきり見たいと思って、ピントを合わせなおしたが、そのとたんに、窓から消えさった。 それからは、いくど双眼鏡を向けてみても、もうふたたびその顔は入ってこなかったのである。 「ああ――」 と長谷部大尉は双眼鏡をおろして、嘆息した。 (あの頭に繃帯して、こっちを覗いていた男は、川上の顔のように思ったが、気の迷いだったろうか) まさか川上機関大尉が、あのような労働者アパートの男女の中にまじっているとは、ちょっと考えられない。 「――どうも分からない」 大尉は吐きだすように独言をいった。
脱艦兵
軍艦明石は、ぐんぐん船あしを早めてゆく。 南方に遠ざかる飛行島を、長谷部大尉は胸もはりさける思いで、じっと見送った。 川上機関大尉の失踪事件は、こうして、未解決のまま、よくない帳簿の上に永く記録せられることになったのだ。 飛行島の影は、謎を包んだまま、ずんずん小さくなってゆく。もうなんとも手の出しようがない。 そのときであった。 「当直将校!」 大きな水兵がばたばたと駈けてきて、さっと挙手の礼をした。大辻二等水兵だった。彼の顔には、ただならぬ緊張の色が浮かんでいる。 「おう、なにか」 「杉田二等水兵の姿が見えません。私はしゃべりたくないのでありますが、当直将校にはおとどけしておきます」 「なんだ、そのいい方は――」と大尉はたしなめて、 「杉田がいないのか。杉田といえば川上の世話をしていた水兵だろう」 「はっ、そうであります」 「そうか、杉田が姿を消したか」 大尉はさてはと思ったが、顔色には出さず、 「すぐ行くから、お前は先へ分隊へ行っておれ」 「ははっ、先へ参ります。しかし……」 大辻は体をかたくして、 「当直将校。私がしゃべったことは、ないしょにねがいたいのであります」 「なぜか」 「ははっ、私はいま、村の鎮守さまに願をかけまして、向こう一年間絶対にしゃべらんと誓ったところであります。でありますから、私がしゃべったということは、お忘れねがいたいのであります」 「変なことをいいだしたね。それほどにいうのなら、お前のいうとおりにしよう。さあ、早く先へ行っておれ」 「あ、ありがたいであります」 大辻は、やれやれと胸をなでおろしながら、昇降口の方へ駈けていった。 長谷部大尉は副長に、この新たな事件を伝えると、すぐその足で、杉田二等水兵の分隊へ行った。 そこでは分隊長以下が集って、憂わしげな面持で、一枚の紙切を読んでいるところだった。 「杉田二等水兵が姿を消したそうだな」 と長谷部大尉は、分隊長に声をかけた。 「おお当直将校。そういう妙な噂が立ったので、いま杉田の衣嚢をとりよせて調べてみると、ほら、こういう遺書がでてきました」 「えっ、遺書? どれ、――」 と長谷部大尉が手にとってみると、なるほど用箋一枚に、何か、かんたんに書きつけてある。 それを読むと、 「杉田ハ決心シマシタ。飛行島ニ川上機関大尉ノ行方ヲタシカメルタメ脱艦ヲイタシマス。再ビ生キテ皆サマニオ目ニカカレナイコトト覚悟ヲシテイマス。シカシ御安心下サイ。杉田ハ決シテ卑怯ナフルマイヲ致シマセン。郷里ノ方ヘハ、海ニ墜チテ死ンダトダケオ伝エクダサイ」 とうとうやったな――と、長谷部大尉は思った。 杉田二等水兵は、ついに機関大尉の行方を案じて、脱艦したのである。脱艦事件というものは、外国の軍艦にあっても、わが帝国軍艦には例のないことだ。それはたいへん重い罪としてある。杉田は、その重い罪であることを十分承知で、死の覚悟をもって脱艦したのである。その目的は、川上機関大尉の行方を、たしかめるためだというのだ。ああなんという悲壮な決心であろうか。 長谷部大尉はその遺書を手にしたまま、分隊長はじめ一同の顔をぐるりと見まわした。誰もみな沈痛な顔をしていて、一語も発する者がなかった。 「本当に脱艦したものだろうか。脱艦したとすれば、どこからどういう風に脱艦したものだろうか」 と、長谷部大尉は、誰に問うともなくそういった。 「遺憾ながら、私はなんにも知らないのです」 分隊長は首をふった。 「あの――、杉田は、艦側から、海中にとびこんだのであります」 と、誰かうしろの方で大声で叫んだ者があった。 「なに、艦側から? よく知っているのう。おい、誰か。もっと前へ出て話をせよ」 分隊長はのびあがって、このおどろくべきニュースを報道した者の姿をさがした。 「はっ、――」 と答えはしたが、その先生は急に頭をかいて、こそこそ逃げ出そうとする。その姿を見ると、外ならぬ大辻二等水兵だった。 「なんだ、大辻じゃないか。早くこっちへ出て当直将校の前で話せ」 大辻はもじもじしながら長谷部大尉の前に出てきた。 「ははあ、お前か。――」 長谷部大尉は呆れた。村の鎮守さまにおしゃべりをしない誓をたてたといった例の大男である。杉田の脱艦したことを自分がしゃべったことは、ないしょにしておいてくれと、さんざん頼んでいったその大辻二等水兵だったから、これが呆れずにいられようか。 大辻は、ふだんから赤い顔を一層赤くしながら、いまにも泣き出しそうである。 「わ、私がしゃべらないといけませんか」 「あたりまえだ」 長谷部大尉は一喝した。 「杉田の脱艦について要領よく、ありのままにしゃべれ、村の鎮守さまの方は、あとから俺があやまってやる」 「うへっ、――」と大辻は眼を白黒させ、 「――では申し上げますが、杉田はいま申しましたとおり、午前十時二十分、艦側から海中にとびこんだのであります」 「ふむ――それから」 「杉田は水中深くもぐりこみました。彼はもと鮑とりを業としていたので、なかなかうまいのであります。かれこれ三分ほどももぐっていたでありましょうか、やがて彼はしずかに海面に顔だけを出して、泳ぎだしました」 「ばかに話がくわしいが、一体それはどうして分かった」 「それは――それはつまり見張人が見張っていたのであります」 「なに、見張人? 誰がそんな脱艦を見張っていたのか。――ははあ、貴様だな」 長谷部大尉は、かっと両眼をむいて大辻を睨みつけた。 「……」 大辻はそれに対して返事ができなかった。ただ両眼から、豆のような大粒の涙を、ぽろんぽろんと落しはじめた。 「黙ってちゃ分からぬ。なぜ答えないのだ」 「うへっへっへっ」 と大辻は奇妙な泣声をあげながら、 「そうおっしゃいますけれど、杉田のあの苦しい胸中も考えてやって下さい。あ、あいつは海へとびこむ前に、手をあわせて、この私を拝みました。どうぞこの俺に川上機関大尉の後を追わせてくれ。もし機関大尉が生きていられたら、きっと連れ戻る。もし死んでいられたら、俺もその場で死ぬる覚悟だ。機関大尉の先途を見とどけないで俺のつとめがすむと思うか。どうか俺を男にしてくれ。それに俺には、いやな疑いがかかっているのだ。俺が川上機関大尉の行動を知っていていわないように思われている。俺は知らないのだ。たとえそれを察していても、川上機関大尉は自分の命も名も捨てて行かれたのだ。それをどうしていえるものか。俺は貴様みたいにおしゃべり病にかかってはおらん。――あわわ、しまった。とにかくそういって杉田は泣いて私に見張を頼んだのであります。わ、私も泣きました。それで見張に立ちました。涙があとからあとから湧いて、見張をしてもよく見えませんでした。私は覚悟しています。どうか厳罰に処してください」 一座はしーんと水をうったよう。誰か痍をすする者がある。 眼を真赤にしている者がある。 「よおし、よくしゃべった。おい大辻、俺と一しょに艦長室へこい」 そういった長谷部大尉の眼も赤かった。
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