泉鏡花集成4 |
ちくま文庫、筑摩書房 |
1995(平成7)年10月24日 |
2004(平成16)年3月20日第2刷 |
1995(平成7)年10月24日第1刷 |
一
「小使、小ウ使。」 程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面……というが頤頬などに貯えたわけではない。不精で剃刀を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い漢である。 「へい。」 とただ云ったばかり、素気なく口を引結んで、真直に立っている。 「おお、源助か。」 その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先生は、縞の布子、小倉の袴、羽織は袖に白墨摺のあるのを背後の壁に遣放しに更紗の裏を捩ってぶらり。髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱を右手へ引附け、一冊覚書らしいのを熟と視めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆い、髯の無い、頤の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所という教頭心得。何か落着かぬ色で、 「こっちへ入れ。」 と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。 意味ありげな体なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注せ、では無さそうな処から、小使もその気構で、卓子の角へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、 「御用で?」 「何は、三右衛門は。」と聞いた。 これは背の抜群に高い、年紀は源助より大分少いが、仔細も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附けた青道心の、いつも莞爾々々した滑稽けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。 「同役(といつも云う、士の果か、仲間の上りらしい。)は番でござりまして、唯今水瓶へ水を汲込んでおりまするが。」 「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」 と云う。閉込んだ硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ灰汁を湛えて、上から揺って沸立たせるような凄まじい風が吹く。 その窓を見向いた片頬に、颯と砂埃を捲く影がさして、雑所は眉を顰めた。 「この風が、……何か、風……が烈しいから火の用心か。」 と唐突に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。 「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」 と例の渋い顔で、横手の柱に掛ったボンボン時計を睨むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。 そう言えば、全校の二階、下階、どの教場からも、声一つ、咳半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午になる一時間ほど、寂寞とするのは無い。――それは小児たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。 「もう、これ午餉になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸らせましたが――いや、どの小児衆も性急で、渇かし切ってござって、突然がぶりと喫りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷を。」 「火傷を…うむ。」 と長い顔を傾ける。
二
「同役とも申合わせまする事で。」 と対向いの、可なり年配のその先生さえ少く見えるくらい、老実な語。 「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様、水をフト失念いたしましたから、精々と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」 と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭を掉った。 「いや、三右衛門でなくってちょうど可いのだ、あれは剽軽だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」 出方が出方で、源助は一倍まじりとする。 先生も少し極って、 「もっとこれへ寄らんかい。」 と椅子をかたり。卓子の隅を座取って、身体を斜に、袴をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。 「卓子の向う前でも、砂埃に掠れるようで、話がよく分らん、喋舌るのに骨が折れる。ええん。」と咳をする下から、煙草を填めて、吸口をト頬へ当てて、 「酷い風だな。」 「はい、屋根も憂慮われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風のこう烈しい事は、十年以来にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あたりはどういたして、また襯衣に股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠を引覆しますような事でござりまして、ちょっと戸外へ出て御覧じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌ぎ切れませんではござりますまいか。 三右衛門なども、鼻の尖を真赤に致して、えらい猿田彦にござります。はは。」 と変哲もない愛想笑。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅が染む。 「実際、厳いな。」 と卓子の上へ、煙管を持ったまま長く露出した火鉢へ翳した、鼠色の襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立てるようにぐいと擡げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張り、両腕をずいと扱いて、 「御免を被れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰だ。源助、当れ。」 「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日にも塞ごうと思いました、部屋(と溜の事を云う)の炉にまた噛りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸で炭を開けて、五徳を摺って引傾がった銅の大薬鑵の肌を、毛深い手の甲でむずと撫でる。 「一杯沸ったのを注しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」 「源助、その事だ。」 「はい。」 と獅噛面を後へ引込めて目を据える。 雑所は前のめりに俯向いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込み、 「閉込んでおいても風が揺って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」 とまた一つ灰を浴せた。瞳を返して、壁の黒い、廊下を視め、 「可い塩梅に、そっちからは吹通さんな。」 「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達の歩行いた跡は、平一面の足跡でござりまするが。」 「むむ、まるで野原……」 と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、 「源助、時に、何、今小児を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜へ遣ったっけが、何は、……部屋に居るか。」 「居りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」
三
「嬢ちゃん坊ちゃん。」 と先生はちょっと口の裡で繰返したが、直ぐにその意味を知って頷いた。今年九歳になる、校内第一の綺麗な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?…… 「しょんぼりしている。小使溜に。」 「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有ったとばかりで、悄れ返っておりまする。はてな、他のものなら珍らしゅうござりませぬ。この児に限って、悪戯をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐を掻いて、火をほじりほじり、仔細を聞きましても、何も言わずに、恍惚したように鬱込みまして、あの可愛げに掻合せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋を附着けて、頻りとその懐中を覗込みますのを、じろじろ見ますと、浅葱の襦袢が開けまするまで、艶々露も垂れるげな、紅を溶いて玉にしたようなものを、溢れまするほど、な、貴方様。」 「むむそう。」 と考えるようにして、雑所はまた頷く。 「手前、御存じの少々近視眼で。それへこう、霞が掛りました工合に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」 「茱萸だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた体であった。 「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。 青梅もまだ苦い頃、やがて、李でも色づかぬ中は、実際苺と聞けば、小蕪のように干乾びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。 「家から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児のお詫を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手をする。 「どうだい、吹く事は。酷いぞ。」 と窓と一所に、肩をぶるぶると揺って、卓子の上へ煙管を棄てた。 「源助。」 と再度更って、 「小児が懐中の果物なんか、袂へ入れさせれば済む事よ。 どうも変に、気に懸る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可いが、と思うんだ。 昨日夢を見た。」 と注いで置きの茶碗に残った、冷い茶をがぶりと飲んで、 「昨日な、……昨夜とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」 「山道の夢でござりまするな。」 「否、実際山を歩行いたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は自から得ている。私は本と首引きだが、本草が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々と谷々へ釣込まれて。 こりゃ途中で暗くならなければ可いが、と山の陰がちと憂慮われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」
四
「山時分じゃないから人ッ子に逢わず。また茸狩にだって、あんなに奥まで行くものはない。随分路でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜は野宿かと思ったぞ。 でもな、秋とは違って、日の入が遅いから、まあ、可かった。やっと旧道に繞って出たのよ。 今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛で、すたすた来ると、幽に城が見えて来た。城の方にな、可厭な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。 その内に、物見の松の梢の尖が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽しの丘へ出る。……後は一雪崩にずるずると屋敷町の私の内へ、辷り込まれるんだ、と吻と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場が、一方谷、一方覆被さった雑木林で、妙に真昼間も薄暗い、可厭な処じゃないか。」 「名代な魔所でござります。」 「何か知らんが。」 と両手で頤を扱くと、げっそり瘠せたような顔色で、 「一ッきり、洞穴を潜るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。 ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹ぐらいな処を、熊笹の上へむくむくと赤いものが湧いて出た。幾疋となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱つくように……皆猿だ。 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王の社がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面の赤いのに不思議はないがな、源助。 どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤だろう。 しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群り続いて、裏山の峰へ尾を曳いて、遥かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。 で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻の行列を山へ投懸けて視めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。 夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」 源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤の毛をすくすくと立てた。 「はあ。」 と息を内へ引きながら、 「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」 「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。 そこへな、背後の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨に前へ抜越したものがある。…… 山遊びの時分には、女も駕籠も通る。狭くはないから、肩摺れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停まる処を、抜けた。 下闇ながら――こっちももう、僅かの処だけれど、赤い猿が夥しいので、人恋しい。 で透かして見ると、判然とよく分った。 それも夢かな、源助、暗いのに。―― 裸体に赤合羽を着た、大きな坊主だ。」 「へい。」と源助は声を詰めた。 「真黒な円い天窓を露出でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張らせる形に、大な肱を、ト鍵形に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。…… 旗は真赤に宙を煽つ。 まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手の僧形にも何分か気が許されて、 (御坊、御坊。) と二声ほど背後で呼んだ。」
五
「物凄さも前に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。 顔は覚えぬが、頤も額も赤いように思った。 (どちらへ?) と直ぐに聞いた。 ト竹を破るような声で、 (城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲いたようにな、源助。」 「…………」小使は口も利かず。 「その時、旗を衝と上げて、 (物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢へ颯と飛移ったかと思う、旗の煽つような火が松明を投附けたように※[#「火+發」、463-5]と燃え上る。顔も真赤に一面の火になったが、遥かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭が揺れるように見て、気が静ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状になくなったんだ。
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