日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集 |
集英社 |
1967(昭和42)年9月7日 |
1972(昭和47)年9月10日第9版 |
1972(昭和47)年10月7日 |
啄木鳥
いにしへ聖者が雅典の森に撞きし、 光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて 鋳にたる巨鐘、無窮のその声をぞ 染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。 聞け、今、巷に喘げる塵の疾風 よせ来て、若やぐ生命の森の精の 聖きを攻むやと、終日、啄木鳥、 巡りて警告夏樹の髄にきざむ。
往きしは三千年、永劫猶すすみて つきざる『時』の箭、無象の白羽の跡 追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が 浄きを高きを天路の栄と云ひし 霊をぞ守りて、この森不断の糧、 奇かるつとめを小さき鳥のすなる。
隠沼
夕影しづかに番の白鷺下り、 槇の葉枯れたる樹下の隠沼にて、 あこがれ歌ふよ。――『その昔、よろこび、そは 朝明、光の揺籃に星と眠り、 悲しみ、汝こそとこしへ此処に朽ちて、 我が喰み啣める泥土と融け沈みぬ。』―― 愛の羽寄り添ひ、青瞳うるむ見れば、 築地の草床、涙を我も垂れつ。
仰げば、夕空さびしき星めざめて、 しぬびの光よ、彩なき夢の如く、 ほそ糸ほのかに水底に鎖ひける。 哀歓かたみの輪廻は猶も堪へめ、 泥土に似る身ぞ。ああさは我が隠沼、 かなしみ喰み去る鳥さへえこそ来めや。
マカロフ提督追悼の詩
(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を迎撃せむとし、倉皇令を下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。)
嵐よ黙せ、暗打つその翼、 夜の叫びも荒磯の黒潮も、 潮にみなぎる鬼哭の啾々も 暫し唸りを鎮めよ。万軍の 敵も味方も汝が矛地に伏せて、 今、大水の響に我が呼ばふ マカロフが名に暫しは鎮まれよ。 彼を沈めて、千古の浪狂ふ、 弦月遠きかなたの旅順口。
ものみな声を潜めて、極冬の 落日の威に無人の大砂漠 劫風絶ゆる不動の滅の如、 鳴りをしづめて、ああ今あめつちに こもる無言の叫びを聞けよかし。 きけよ、――敗者の怨みか、暗濤の 世をくつがへす憤怒か、ああ、あらず、―― 血汐を呑みてむなしく敗艦と 共に没れし旅順の黒裡、 彼が最後の瞳にかがやける 偉霊のちから鋭どき生の歌。
ああ偉いなる敗者よ、君が名は マカロフなりき。非常の死の波に 最後のちからふるへる人の名は マカロフなりき。胡天の孤英雄。 君を憶へば、身はこれ敵国の 東海遠き日本の一詩人、 敵乍らに、苦しき声あげて 高く叫ぶよ、(鬼神も跪づけ、 敵も味方も汝が矛地に伏せて、 マカロフが名に暫しは鎮まれよ。) ああ偉いなる敗将、軍神の 選びに入れる露西亜の孤英雄、 無情の風はまことに君が身に まこと無情の翼をひろげき、と。
東亜の空にはびこる暗雲の 乱れそめては、黄海波荒く、 残艦哀れ旅順の水寒き 影もさびしき故国の運命に、 君は起ちにき、み神の名を呼びて―― 亡びの暗の叫びの見かへりや、 我と我が威に輝やく落日の 雲路しばしの勇みを負ふ如く。
壮なるかなや、故国の運命を 担うて勇む胡天の君が意気。 君は立てたり、旅順の狂風に 檣頭高く日を射す提督旗。―― その旗、かなし、波間に捲きこまれ、 見る見る君が故国の運命と、 世界を撫づるちからも海底に 沈むものとは、ああ神、人知らず。
四月十有三日、日は照らず、 空はくもりて、乱雲すさまじく 故天にかへる辺土の朝の海、 (海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、 敵も味方も汝が鋒地に伏せて、 マカロフが名に暫しは跪づけ。) 万雷波に躍りて、大軸を 砕くとひびく刹那に、名にしおふ 黄海の王者、世界の大艦も くづれ傾むく天地の黒裡、 血汐を浴びて、腕をば拱きて、 無限の憤怒、怒濤のかちどきの 渦巻く海に瞳を凝らしつつ、 大提督は静かに沈みけり。
ああ運命の大海、とこしへの 憤怒の頭擡ぐる死の波よ、 ひと日、旅順にすさみて、千秋の うらみ遺せる秘密の黒潮よ、 ああ汝、かくてこの世の九億劫、 生と希望と意力を呑み去りて 幽暗不知の界に閉ぢこめて、 如何に、如何なる証を『永遠の 生の光』に理示すぞや。 汝が迫害にもろくも沈み行く この世この生、まことに汝が目に 映るが如く値のなきものか。
ああ休んぬかな。歴史の文字は皆 すでに千古の涙にうるほひぬ。 うるほひけりな、今また、マカロフが おほいなる名も我身の熱涙に。―― 彼は沈みぬ、無間の海の底。 偉霊のちからこもれる其胸に 永劫たえぬ悲痛の傷うけて、 その重傷に世界を泣かしめて。
我はた惑ふ、地上の永滅は、 力を仰ぐ有情の涙にぞ、 仰ぐちからに不断の永生の 流転現ずる尊ときひらめきか。 ああよしさらば、我が友マカロフよ、 詩人の涙あつきに、君が名の 叫びにこもる力に、願くは 君が名、我が詩、不滅の信とも なぐさみて、我この世にたたかはむ。
水無月くらき夜半の窓に凭り、 燭にそむきて、静かに君が名を 思へば、我や、音なき狂瀾裡、 したしく君が渦巻く死の波を 制す最後の姿を観るが如、 頭は垂れて、熱涙せきあへず。 君はや逝きぬ。逝きても猶逝かぬ その偉いなる心はとこしへに 偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。 ああ、夜の嵐、荒磯のくろ潮も、 敵も味方もその額地に伏せて 火焔の声をあげてぞ我が呼ばふ マカロフが名に暫しは鎮まれよ。 彼を沈めて千古の浪狂ふ 弦月遠きかなたの旅順口。
眠れる都
(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望 甍の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村 僻陬の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて 々筆を染めけるもの 乃ちこの短調七 聯の一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)
鐘鳴りぬ、 いと荘厳に 夜は重し、市の上。 声は皆眠れる都 瞰下せば、すさまじき 野の獅子の死にも似たり。
ゆるぎなき 霧の巨浪、 白う照る月影に 氷りては市を包みぬ。 港なる百船の、 それの如、燈影洩るる。
みおろせば、 眠れる都、 ああこれや、最後の日 近づける血潮の城か。 夜の霧は、墓の如、 ものみなを封じ込めぬ。
百万の つかれし人は 眠るらし、墓の中。 天地を霧は隔てて、 照りわたる月かげは 天の夢地にそそがず。
声もなき ねむれる都、 しじまりの大いなる 声ありて、霧のまにまに ただよひぬ、ひろごりぬ、 黒潮のそのどよみと。
ああ声は 昼のぞめきに けおされしたましひの 打なやむ罪の唸りか。 さては又、ひねもすの たたかひの名残の声か。
我が窓は、 濁れる海を 遶らせる城の如、 遠寄せに怖れまどへる 詩の胸守りつつ、 月光を隈なく入れぬ。
東京
かくやくの夏の日は、今 子午線の上にかかれり。
煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒き手に 何をかも攫むとすらむ、ただ直に天をぞ射せる。 百千網巷巷に空車行く音もなく あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ 寂寞よ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。
千万の甍今日こそ色もなく打鎮りぬ。 紙の片白き千ひらを撒きて行く通魔ありと、 家家の門や又窓、黒布に皆とざされぬ。 百千網都大路に人の影暁星の如 いと稀に。――かくて、骨泣く寂滅死の都、見よ。
かくやくの夏の日は、今 子午線の上にかかれり。
何方ゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に 飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯、天路に聳る 層楼の屋根にとまれり。唖唖として一声、――これよ 凶鳥の不浄の烏。――骨あさる鳥なり、はたや、 死の空にさまよひ叫ぶ怨恨の毒嘴の鳥。
鳥啼きぬ、二度。――いかに、其声の猶終らぬに、 何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、 いな光る剣捧げし童顔の翁あり。ああ、 黒長裳静かに曳くや、寂寞の戸に反響して、 沓の音全都に響き、唯一人大路を練れり。 有りとある磁石の針は 子午線の真北を射せり。
吹角
みちのくの谷の若人、牧の子は 若葉衣の夜心に、 赤葉の芽ぐみ物燻ゆる五月の丘の 柏木立をたもとほり、 落ちゆく月を背に負ひて、 東白の空のほのめき―― 天の扉の真白き礎ゆ湧く水の いとすがすがし。―― ひたひたと木陰地に寄せて、 足もとの朝草小露明らみぬ。 風はも涼し。 みちのくの牧の若人露ふみて もとほり心角吹けば、 吹き、また吹けば、 渓川の石津瀬はしる水音も あはれ、いのちの小鼓の鳴の遠音と ひびき寄す。 ああ静心なし。 丘のつづきの草の上に 白き光のまろぶかと ふとしも動く物の影。―― 凹みの埓の中に寝て、 心うゑたる暁の夢よりさめし 小羊の群は、静かにひびき来る 角の遠音にあくがれて、 埓こえ、草をふみしだき、直に走りぬ。 暁の声する方の丘の辺に。―― ああ歓びの朝の舞、 新乳の色の衣して、若き羊は 角ふく人の身を繞り、 すずしき風に啼き交し、また小躍りぬ。 あはれ、いのちの高丘に 誰ぞ角吹かば、 我も亦この世の埓をとびこえて、 野ゆき、川ゆき、森をゆき、 かの山越えて、海越えて、 行かましものと、 みちのくの谷の若人、いやさらに 角吹き吹きて、静心なし。
年老いし彼は商人
年老いし彼は商人。 靴、鞄、帽子、革帯、 ところせく列べる店に 坐り居て、客のくる毎、 尽日や、はた、電燈の 青く照る夜も更くるまで、 てらてらに禿げし頭を 礼あつく千度下げつつ、 なれたれば、いと滑らかに 数数の世辞をならべぬ。 年老いし彼はあき人。 かちかちと生命を刻む ボンボンの下の帳場や、 簿記台の上に低れたる 其頭、いと面白し。
その頭低るる度毎、 彼が日は短くなりつ、 年こそは重みゆきけれ。 かくて、見よ、髪の一条 落ちつ、また、二条、三条、 いつとなく抜けたり、遂に 面白し、禿げたる頭。 その頭、禿げゆくままに、 白壁の土蔵の二階、 黄金の宝の山は (目もはゆし、暗の中にも。) 積まれたり、いと堆かく。
埃及の昔の王は わが墓の大金字塔を つくるとて、ニルの砂原、 十万の黒兵者を 二十年も役せしといふ。 年老いしこの商人も 近つ代の栄の王者、 幾人の小僧つかひて、 人の見ぬ土蔵の中に きづきたり、宝の山を。―― これこそは、げに、目もはゆき 新世の金字塔ならし、 霊魂の墓の標の。
辻
老いたるも、或は、若きも、 幾十人、男女や、 東より、はたや、西より、 坂の上、坂の下より、 おのがじし、いと急しげに 此処過ぐる。 今わが立つは、 海を見る広き巷の 四の辻。――四の角なる 家は皆いと厳めしし。 銀行と、領事の館、 新聞社、残る一つは、 人の罪嗅ぎて行くなる 黒犬を飼へる警察。
此処過ぐる人は、見よ、皆、 空高き日をも仰がず、 船多き海も眺めず、 ただ、人の作れる路を、 人の住む家を見つつぞ、 人とこそ群れて行くなれ。 白髯の翁も、はたや、 絹傘の若き少女も、 少年も、また、靴鳴らし 煙草吹く海産商も、 丈高き紳士も、孫を 背に負へる痩せし媼も、 酒肥り、いとそりかへる 商人も、物乞ふ児等も、 口笛の若き給仕も、 家持たぬ憂き人人も。
せはしげに過ぐるものかな。 広き辻、人は多けど、 相知れる人や無からむ。 並行けど、はた、相逢へど、 人は皆、そしらぬ身振、 おのがじし、おのが道をぞ 急ぐなれ、おのもおのもに。
心なき林の木木も 相凭りて枝こそ交せ、 年毎に落ちて死ぬなる 木の葉さへ、朝風吹けば、 朝さやぎ、夕風吹けば、 夕語りするなるものを、 人の世は疎らの林、 人の世は人なき砂漠。 ああ、我も、わが行くみちの 今日ひと日、語る伴侶なく、 この辻を、今、かく行くと、 思ひつつ、歩み移せば、 けたたまし戸の音ひびき、 右手なる新聞社より 駆け出でし男幾人、 腰の鈴高く鳴らして 駆け去りぬ、四の角より 四の路おのも、おのもに。 今五月、霽れたるひと日、 日の光曇らず、海に 牙鳴らす浪もなけれど、 急がしき人の国には 何事か起りにけらし。
無題
札幌は一昨日以来 ひき続きいと天気よし。 夜に入りて冷たき風の そよ吹けば少し曇れど、 秋の昼、日はほかほかと 丈ひくき障子を照し、 寝ころびて物を思へば、 我が頭ボーッとする程 心地よし、流離の人も。
おもしろき君の手紙は 昨日見ぬ。うれしかりしな。 うれしさにほくそ笑みして 読み了へし、我が睫毛には、 何しかも露の宿りき。 生肌の木の香くゆれる 函館よ、いともなつかし。 木をけづる木片大工も おもしろき恋やするらめ。 新らしく立つ家々に 将来の恋人共が 母ちゃんに甘へてや居む。 はたや又、我がなつかしき 白村に翡翠白鯨 我が事を語りてあらむ。 なつかしき我が武ちゃんよ、―― 今様のハイカラの名は 敬慕するかはせみの君、 外国のラリルレ語 酔漢の語でいへば m…m…my dear brethren !―― 君が文読み、くり返し、 我が心青柳町の 裏長屋、十八番地 ムの八にかへりにけりな。
世の中はあるがままにて 怎かなる。心配はなし。 我たとへ、柳に南瓜 なった如、ぶらりぶらりと 貧乏の重い袋を 痩腰に下げて歩けど、 本職の詩人、はた又 兼職の校正係、 どうかなる世の中なれば 必ずや怎かなるべし。 見よや今、「小樽日々」 「タイムス」は南瓜の如き 蔓の手を我にのばしぬ。 来むとする神無月には、 ぶらぶらの南瓜の性の 校正子、記者に経上り どちらかへころび行くべし。
一昨日はよき日なりけり。 小樽より我が妻せつ子 朝に来て、夕べ帰りぬ。 札幌に貸家なけれど、 親切な宿の主婦さん、 同室の一少年と 猫の糞他室へ移し この室を我らのために 貸すべしと申出でたり。 それよしと裁可したれば、 明後日妻は京子と 鍋、蒲団、鉄瓶、茶盆、 携へて再び来り、 六畳のこの一室に 新家庭作り上ぐべし。 願くは心休めよ。
その節に、我来し後の 君達の好意、残らず せつ子より聞き候ひぬ。 焼跡の丸井の坂を 荷車にぶらさがりつつ、 (ここに又南瓜こそあれ、) 停車場に急ぎゆきけん 君達の姿思ひて ふき出しぬ。又其心 打忍び、涙流しぬ。
日高なるアイヌの君の 行先ぞ気にこそかかれ。 ひょろひょろの夷希薇の君に 事問へど更にわからず。 四日前に出しやりたる 我が手紙、未だもどらず 返事来ず。今の所は 一向に五里霧中なり。 アノ人の事にしあれば、 瓢然と鳥の如くに 何処へか翔りゆきけめ。 大したる事のなからむ。 とはいへど、どうも何だか 気にかかり、たより待たるる。
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