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或る女(あるおんな)後編

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/8/21 6:28:18 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



       二四

 その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織はおりだけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒うばぐろ縮緬ちりめんの紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜のふかしにも係わらずその朝早く横浜のほうに出かけたあとだった。きょうも空は菊日和びよりとでもいう美しい晴れかたをしていた。
 葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦れんが通りに出てからきれいそうな辻待つじまちをやとってそれに乗った。そしていけはたのほうに車を急がせた。定子を目の前に置いて、その小さな手をなでたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶ事を思うと葉子の胸はわれにもなくただわくわくとせき込んで来た。眼鏡橋めがねばしを渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。ひざの上に乗せた土産みやげのおもちゃや小さな帽子などをやきもきしながらひねり回したり、膝掛ひざかけの厚いぎゅっと握り締めたりして、はやる心を押ししずめようとしてみるけれどもそれをどうする事もできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々かどかどでさしずした。そして岩崎いわさきの屋敷裏にあたる小さな横町の曲がりかどで車を乗り捨てた。
 一か月のあいだ来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈かいわいが少しも変化しないで元のとおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝こみぞに沿うて根ぎわの腐れた黒板塀くろいたべいの立ってる小さな寺の境内けいだいを突っ切って裏に回ると、寺の貸し地面にぽっつり立った一戸建こだての小家が乳母うばの住む所だ。没義道もぎどうに頭を切り取られた高野槇こうやまきが二本もとの姿で台所前に立っている、その二本に竿ざおを渡して小さな襦袢じゅばんや、まる洗いにした胴着どうぎが暖かい日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろとたわいもなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと垣根かきねから庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人ひとり、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせと少しばかりのこわれおもちゃをいじくり回していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――わき目もふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房にょうぼう、汗をしとどにたらしながら坂道に荷車を押す出稼ともかせぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一目見たばかりで、人間力ではどうする事もできない悲しい出来事にでも出あったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。
さあちゃん」
 涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくりして後ろを振り向いた時には、葉子は戸をあけて入り口を駆け上がって定子のそばにすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華車きゃしゃ作りな定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然そば近くに現われたのに気を奪われた様子で、とみには声も出さずに驚いて葉子を見守った。
さあちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人でおとなにして……」
 もう声が続かなかった。
「ママちゃん」
 そう突然大きな声でいって定子は立ち上がりざま台所のほうに駆けて行った。
ばあやママちゃんが来たのよ」
 という声がした。
「え!」
 と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした婆やが、かぶっていた手ぬぐいをつむりからはずしながらころがり込むようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
「ちょっと定ちゃんをこっちにお貸し」
 しばらくしてから葉子は定子をばあやのひざから受け取って自分のふところに抱きしめた。
「お嬢さま……私にはもう何がなんだかちっともわかりませんが、私はただもうくやしゅうございます。……どうしてこう早くお帰りになったんでございますか……皆様のおっしゃる事を伺っているとあんまり業腹ごうはらでございますから……もう私は耳をふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年を取りますとに落ちる気づかいはございません。でもまあおからだがどうかと思ってお案じ申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました……何しろ定子様がおかわいそうで……」
 葉子におぼれきった婆やの口からさもくやしそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子はさびしい心持ちで聞かねばならなかった。耄碌もうろくしたと自分ではいいながら、若い時に亭主ていしゅに死に別れて立派に後家ごけを通して後ろ指一本さされなかった昔気質むかしかたぎしっかり者だけに、親類たちの陰口やうわさで聞いた葉子の乱行にはあきれ果てていながら、この世でのただ一人ひとりの秘蔵物として葉子の頭から足の先までも自分の誇りにしている婆やのせつない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、しとやかな、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。ことに婆やと定子とを目の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活をながめると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
 しかし同時に倉地の事をちょっとでも思うと葉子の血は一時にわき立った。平穏な、その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しもしない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取りかえっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でもどうする事もできない強い感情になって、葉子の心を本能的にあおぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難もなく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙もろく、ある時には極端に残虐だった。まるで二人ふたりの人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うような事もあった。それが時にはいまいましかった、時には誇らしくもあった。
さあちゃま。ようこざいましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字もおっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり考えてでもいらっしゃるようなのがおかわいそうで、一時はおからだでも悪くなりはしないかと思うほどでした。こんなでもなかなか心は働いていらっしゃるんですからねえ」
 と婆やは、葉子のひざの上に巣食うように抱かれて、黙ったまま、澄んだひとみで母の顔を下からのぞくようにしている定子と葉子とを見くらべながら、述懐めいた事をいった。葉子は自分のほおを、暖かい桃の膚のように生毛うぶげの生えた定子の頬にすりつけながら、それを聞いた。
「お前のその気象でわからないとおいいなら、くどくどいったところがむだかもしれないから、今度の事については私なんにも話すまいが、家の親類たちのいう事なんぞはきっと気にしないでおくれよ。今度の船には飛んでもない一人の奥さんが乗り合わしていてね、その人がちょっとした気まぐれからある事ない事取りまぜてこっちにいってよこしたので、事あれかしと待ち構えていた人たちの耳にはいったんだから、これから先だってどんなひどい事をいわれるかしれたもんじゃないんだよ。お前も知ってのとおり私は生まれ落ちるとからつむじ曲がりじゃあったけれども、あんなに周囲まわりからこづき回されさえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それはだれよりもお前が知ってておくれだわね。これからだって私は私なりに押し通すよ。だれがなんといったって構うもんですか。そのつもりでお前も私を見ていておくれ。広い世の中に私がどんな失策しくじりをしでかしても、心から思いやってくれるのはほんとうにお前だけだわ。……今度からは私もちょいちょい来るだろうけれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、さあちゃん。よくばあやのいう事を聞いていい子になってちょうだいよ。ママちゃんはここにいる時でもいない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。……さ、もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のおしたくでもしましょうね。きょうはママちゃんがおいしいごちそうをこしらえて上げるからさあちゃんも手伝いしてちょうだいね」
 そういって葉子は気軽そうに立ち上がって台所のほうに定子と連れだった。婆やも立ち上がりはしたがその顔は妙にえなかった。そして台所で働きながらややともすると内所ないしょで鼻をすすっていた。
 そこには葉山で木部孤※(「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1-89-60)同棲どうせいしていた時に使った調度が今だに古びを帯びて保存されたりしていた。定子をそばにおいてそんなものを見るにつけ、少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日はなんといっても近ごろ覚えないほどしみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な葉子は不足がちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三品みしなほど作った。定子はすっかり喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かしながら、「はいはい」といって庖丁ほうちょうをあっちに運んだり、さらをこっちに運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓についた。そして夕方まで水入らずにゆっくり暮らした。
 その夜は妹たちが学校から来るはずになっていたので葉子はばあやの勧める晩飯も断わって夕方その家を出た。入り口の所につくねんと立って姿やに両肩をささえられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿がいつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇ゆうやみにまぎれたほろの中で葉子は幾度かハンケチを目にあてた。
 宿に着くころには葉子の心持ちは変わっていた。玄関にはいって見ると、女学校でなければかれないような安下駄げたのきたなくなったのが、お客や女中たちの気取ったものの中にまじって脱いであるのを見て、もう妹たちが来て待っているのを知った。さっそくに出迎えに出た女将おかみに、今夜は倉地が帰って来たら他所よそ部屋へやで寝るように用意をしておいてもらいたいと頼んで、静々しずしずと二階へ上がって行った。
 ふすまをあけて見ると二人の姉妹はぴったりくっつき合って泣いていた。人の足音を姉のそれだとは充分に知りながら、愛子のほうは泣き顔を見せるのが気まりが悪いふうで、振り向きもせずに一入ひとしおうなだれてしまったが、貞世のほうは葉子の姿を一目見るなり、はねるように立ち上がって激しく泣きながら葉子のふところに飛びこんで来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢ながひばちのかたわらの自分の座にすわると、貞世はそのひざに突っ伏してすすり上げすすり上げ可憐かれんな背中に波を打たした。これほどまでに自分の帰りを待ちわびてもい、喜んでもくれるのかと思うと、骨肉こつにくの愛着からも、妹だけは少なくとも自分の掌握の中にあるとの満足からも、葉子はこの上なくうれしかった。しかし火鉢ひばちからはるか離れた向こう側に、うやうやしく居ずまいをただして、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しくおじぎをするのを見ると葉子はすぐしゃくにさわった。どうして自分はこの妹に対して優しくする事ができないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作しょさを見ると一々気にさわらないではいられないのだ。葉子の目は意地わるくけんを持って冷ややかに小柄で堅肥かたぶとりな愛子を激しく見すえた。
「会いたてからつけつけいうのもなんだけれども、なんですねえそのおじぎのしかたは、他人行儀らしい。もっと打ち解けてくれたっていいじゃないの」
 というと愛子は当惑したように黙ったまま目を上げて葉子を見た。その目はしかし恐れても恨んでもいるらしくはなかった。小羊のような、まつ毛の長い、形のいい大きな目が、涙に美しくぬれて夕月のようにぽっかりとならんでいた。悲しい目つきのようだけれども、悲しいというのでもない。多恨な目だ。多情な目でさえあるかもしれない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の目を見て不快に思った。大多数の男はあんな目で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥いちべつを受け取ったようにも思うのだろう。そんな事さえ素早すばやく考えの中につけ加えた。貞世が広い帯をして来ているのに、愛子が少し古びたはかまをはいているのさえさげすまれた。
「そんな事はどうでもようござんすわ。さ、お夕飯にしましょうね」
 葉子はやがて自分の妄念もうねんをかき払うようにこういって、女中を呼んだ。
 貞世は寵児ペットらしくすっかりはしゃぎきっていた。二人ふたりが古藤につれられて始めて田島たじまじゅくに行った時の様子から、田島先生が非常に二人ふたりをかわいがってくれる事から、部屋へやの事、食物の事、さすがに女の子らしく細かい事まで自分一人ひとりの興に乗じてかたり続けた。愛子も言葉少なに要領を得た口をきいた。
「古藤さんが時々来てくださるの?」
 と聞いてみると、貞世は不平らしく、
「いゝえ、ちっとも」
「ではお手紙は?」
「来てよ、ねえ愛ねえさま。二人の所に同じくらいずつ来ますわ」
 と、愛子は控え目らしくほほえみながら上目越うわめごしに貞世を見て、
さあちゃんのほうに余計来るくせに」
 となんでもない事で争ったりした。愛子は姉に向かって、
じゅくに入れてくださると古藤さんが私たちに、もうこれ以上私のして上げる事はないと思うから、用がなければ来ません。その代わり用があったらいつでもそういっておよこしなさいとおっしゃったきりいらっしゃいませんのよ。そうしてこちらでも古藤さんにお願いするような用はなんにもないんですもの」
 といった。葉子はそれを聞いてほほえみながら古藤が二人を塾につれて行った時の様子を想像してみた。例のようにどこの玄関番かと思われる風体ふうていをして、髪を刈る時のほからないあごひげを一二ほども延ばして、頑丈がんじょう容貌ようぼうや体格に不似合いなはにかんだ口つきで、田島という、男のような女学者と話をしている様子が見えるようだった。
 しばらくそんな表面的なうわさ話などに時を過ごしていたが、いつまでもそうはしていられない事を葉子は知っていた。この年齢としの違った二人ふたりの妹に、どっちにも堪念たんねんの行くように今の自分の立場を話して聞かせて、悪い結果をその幼い心に残さないようにしむけるのはさすがに容易な事ではなかった。葉子は先刻からしきりにそれを案じていたのだ。
「これでも召し上がれ」
 食事が済んでから葉子は米国から持って来たキャンディーを二人の前に置いて、自分は煙草たばこを吸った。貞世は目を丸くして姉のする事を見やっていた。
「ねえさまそんなもの吸っていいの?」
 と会釈なく尋ねた。愛子も不思議そうな顔をしていた。
「えゝこんな悪い癖がついてしまったの。けれどもねえさんにはあなたがたの考えてもみられないような心配な事や困る事があるものだから、ついさ晴らしにこんな事も覚えてしまったの。今夜はあなたがたにわかるようにねえさんが話して上げてみるから、よく聞いてちょうだいよ」
 倉地の胸に抱かれながら、酔いしれたようにその頑丈がんじょうな、日に焼けた、男性的な顔を見やる葉子の、乙女おとめというよりももっと子供らしい様子は、二人ふたりの妹を前に置いてきちんと居ずまいを正した葉子のどこにも見いだされなかった。その姿は三十前後の、充分分別のある、しっかりした一人ひとりの女性を思わせた。貞世もそういう時の姉に対する手心てごころを心得ていて、葉子から離れてまじめにすわり直した。こんな時うっかりその威厳を冒すような事でもすると、貞世にでもだれにでも葉子は少しの容赦もしなかった。しかし見た所はいかにも慇懃いんぎんに口を開いた。
「わたしが木村さんの所にお嫁に行くようになったのはよく知ってますね。米国に出かけるようになったのもそのためだったのだけれどもね、もともと木村さんは私のように一度先にお嫁入りした人をもらうようなかたではなかったんだしするから、ほんとうはわたしどうしても心は進まなかったんですよ。でも約束だからちゃんと守って行くには行ったの。けれどもね先方むこうに着いてみるとわたしのからだの具合がどうもよくなくって上陸はとてもできなかったからしかたなしにまた同じ船で帰るようになったの。木村さんはどこまでもわたしをお嫁にしてくださるつもりだから、わたしもその気ではいるのだけれども、病気ではしかたがないでしょう。それに恥ずかしい事を打ち明けるようだけれども、木村さんにもわたしにも有り余るようなお金がないものだから、行きも帰りもその船の事務長という大切な役目のかたにお世話にならなければならなかったのよ。そのかたが御親切にもわたしをここまで連れて帰ってくださったばかりで、もう一度あなたがたにもあう事ができたんだから、わたしはその倉地というかた――倉はお倉の倉で、地は地球の地と書くの。三吉というお名前はさあちゃんにもわかるでしょう――その倉地さんにはほんとうにお礼の申しようもないくらいなんですよ。愛さんなんかはそのかたの事で叔母おばさんなんぞからいろいろな事を聞かされて、ねえさんを疑っていやしないかと思うけれども、それにはまたそれでめんどうなわけのある事なのだから、夢にも人のいう事なんぞをそのまま受け取ってもらっちゃ困りますよ。ねえさんを信じておくれ、ね、よござんすか。わたしはお嫁なんぞに行かないでもいい、あなたがたとこうしているほどうれしい事はないと思いますよ。木村さんのほうにお金でもできて、わたしの病気がなおりさえすれば結婚するようになるかもしれないけれども、それはいつの事ともわからないし、それまではわたしはこうしたままで、あなたがたと一緒にどこかにお家を持って楽しく暮らしましょうね。いいだろうさあちゃん。もう寄宿なんぞにいなくってもようござんすよ」
「おねえさまわたし寄宿では夜になるとほんとうは泣いてばかりいたのよ。愛ねえさんはよくお寝になってもわたしは小さいから悲しかったんですもの」
 そう貞世は白状するようにいった。さっきまではいかにも楽しそうにいっていたその可憐かれんな同じ口びるから、こんな哀れな告白を聞くと葉子は一入ひとしおしんみりした心持ちになった。
「わたしだってもよ。さあちゃんはよいの口だけくすくす泣いてもあとはよく寝ていたわ。ねえ様、私は今までさあちゃんにもいわないでいましたけれども……みんなが聞こえよがしにねえ様の事をかれこれいいますのに、たまに悪いと思ってさあちゃんと叔母おばさんの所に行ったりなんぞすると、それはほんとうにひどい……ひどい事をおっしゃるので、どっちに行ってもくやしゅうございましたわ。古藤さんだってこのごろはお手紙さえくださらないし……田島先生だけはわたしたち二人ふたりをかわいそうがってくださいましたけれども……」
 葉子の思いは胸の中で煮え返るようだった。
「もういい堪忍かんにんしてくださいよ。ねえさんがやはり至らなかったんだから。おとうさんがいらっしゃればお互いにこんないやな目にはあわないんだろうけれども(こういう場合葉子はおくびにも母の名は出さなかった)親のないわたしたちは肩身が狭いわね。まああなたがたはそんなに泣いちゃだめ。愛さんなんですねあなたから先に立って。ねえさんが帰った以上はねえさんになんでも任して安心して勉強してくださいよ。そして世間の人を見返しておやり」
 葉子は自分の心持ちを憤ろしくいい張っているのに気がついた。いつのまにか自分までが激しく興奮していた。
 火鉢ひばちの火はいつか灰になって、夜寒よさむがひそやかに三人の姉妹にはいよっていた。もう少し睡気ねむけを催して来た貞世は、泣いたあとの渋い目を手の甲でこすりながら、不思議そうに興奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子は瓦斯がすに顔をそむけながらしくしくと泣き始めた。
 葉子はもうそれを止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いてみたいような衝動をつき返しつき返し水落みぞおちの所に感じながら、火鉢の中を見入ったまま細かく震えていた。
 生まれかわらなければ回復しようのないような自分の越しかた行く末が絶望的にはっきりと葉子の心を寒く引き締めていた。
 それでも三人が十六畳に床を敷いて寝てだいぶたってから、横浜から帰って来た倉地が廊下を隔てた隣の部屋へやに行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえってしばらく妹たちの寝息気ねいきをうかがっていたが、二人がいかにも無心に赤々としたほおをしてよく寝入っているのを見窮めると、そっとどてらを引っかけながらその部屋を脱け出した。

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