三二
それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっと晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にさす間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森にあたって物すごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹と見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置きごたつを持ち出して、倉地の着がえをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早びけだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢のそばにうずくまっていた。葉子は食器を台所のほうに運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物をいった。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地がいいかけた。 「おいお葉(倉地はいつのまにか葉子をこう呼ぶようになっていた)おれはきょうは二人に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」 葉子は布巾を持って台所のほうからいそいそと茶の間に帰って来た。 「なんだってまたきょう……」 そういってつき膝をしながらちゃぶ台をぬぐった。 「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」 「そうねえ」 葉子はそのままそこにすわり込んで布巾をちゃぶ台にあてがったまま考えた。ほんとうはこれはとうに葉子のほうからいい出すべき事だったのだ。妹たちのいないすきか、寝てからの暇をうかがって、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびきのような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面をうかがわせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないで置いたのだったが、倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。葉子は決心した。 「じゃきょうにしましょう。……それにしても着物だけは着かえていてくださいましな」 「よし来た」 と倉地はにこにこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑丈な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、 「それは二人ともいい子よ。かわいがってやってくださいましよ。……けれどもね、木村とのあの事だけはまだ内証よ。いいおりを見つけて、わたしから上手にいって聞かせるまでは知らんふりをしてね……よくって……あなたはうっかりするとあけすけに物をいったりなさるから……今度だけは用心してちょうだい」 「ばかだなどうせ知れる事を」 「でもそれはいけません……ぜひ」 葉子は後ろから背延びをしてそっと倉地の後ろ首を吸った。そして二人は顔を見合わせてほほえみかわした。 その瞬間に勢いよく玄関の格子戸ががらっとあいて「おゝ寒い」という貞世の声が疳高く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっとして倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子があいた。貞世は茶の間に駆け込んで来るらしかった。 「おねえ様雪が降って来てよ」 そういっていきなり茶の間の襖をあけたのは貞世だった。 「おやそう……寒かったでしょう」 とでもいって迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置きごたつにはいってあぐらをかいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように大きな目を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。 「愛ねえさんお客様よ」 と声をつぶすようにいうのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を見合わしてまたほほえみかわした。 「ここにお下駄があるじゃありませんか」 そう落ち付いていう愛子の声が聞こえて、やがて二人は静かにはいって来た。そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃんとすわって、声をそろえて「ただいま」といいながら辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で無理じいに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐するような気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の目をひいた。お下げをやめさせて、束髪にさせた項とたぼの所には、そのころ米国での流行そのままに、蝶結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬地の着物に、カシミヤの袴を裾みじかにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の尾錠どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱに切りつめて、横のほうに深紅のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、膝までぐらいな、わざと短く仕立てた袴と共に可憐にもいたずらいたずらしく見せた。二人は寒さのために頬をまっ紅にして、目を少し涙ぐましていた。それがことさら二人に別々な可憐な趣を添えていた。 葉子は少し改まって二人を火鉢の座から見やりながら、 「お帰りなさい。きょうはいつもより早かったのね。……お部屋に行ってお包みをおいて袴を取っていらっしゃい、その上でゆっくりお話しする事があるから……」 二人の部屋からは貞世がひとりではしゃいでいる声がしばらくしていたが、やがて愛子は広い帯をふだん着と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで帰って来た。 「さあここにいらっしゃい。(そういって葉子は妹たちを自分の身近にすわらせた)このお方がいつか双鶴館でおうわさした倉地さんなのよ。今まででも時々いらしったんだけれどもついにお目にかかるおりがなかったわね。これが愛子これが貞世です」 そういいながら葉子は倉地のほうを向くともうくすぐったいような顔つきをせずにはいられなかった。倉地は渋い笑いを笑いながら案外まじめに、 「お初に(といってちょっと頭を下げた)二人とも美しいねえ」 そういって貞世の顔をちょっと見てからじっと目を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な多恨な目を大きく見開いてまんじりと倉地を見やっていた。それは男女の区別を知らぬ無邪気な目とも見えた。先天的に男というものを知りぬいてその心を試みようとする淫婦の目とも見られない事はなかった。それほどその目は奇怪な無表情の表情を持っていた。
「始めてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」 倉地はなお愛子を見やりながらこう尋ねた。 「わたし始めてではございません。……いつぞやお目にかかりました」 愛子は静かに目を伏せてはっきりと無表情な声でこういった。愛子があの年ごろで男の前にはっきりああ受け答えができるのは葉子にも意外だった。葉子は思わず愛子を見た。 「はて、どこでね」 倉地もいぶかしげにこう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこにはかすかながら憎悪の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを見のがさなかった。 「寝顔を見せた時にやはり彼女は目をさましていたのだな。それをいうのかしらん」 とも思った。倉地の顔にも思いかけずちょっとどぎまぎしたらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。 「なあに……」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。 貞世は無邪気にも、この熊のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。貞世がその日学校で見聞きして来た事などを例のとおり残らず姉に報告しようと、なんでも構わず、なんでも隠さず、いってのけるのに倉地が興に入って合槌を打つので、ここに移って来てから客の味を全く忘れていた貞世はうれしがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん貞世と戯れて、昼近く立って行った。 葉子は朝食がおそかったからといって、妹たちだけが昼食の膳についた。 「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事があるのだけれども、下宿ではまわりがやかましくって困るとおっしゃるから、これからいつでもここで御用をなさるようにいったから、きっとこれからもちょくちょくいらっしゃるだろうが、貞ちゃん、きょうのように遊びのお相手にばかりしていてはだめよ。その代わり英語なんぞでわからない事があったらなんでもお聞きするといい、ねえさんよりいろいろの事をよく知っていらっしゃるから……それから愛さんは、これから倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時には一々ねえさんのさしずを待たないではきはきお世話をして上げるのよ」 と葉子はあらかじめ二人に釘をさした。 妹たちが食事を終わって二人であと始末をしているとまた玄関の格子が静かにあく音がした。 貞世は葉子の所に飛んで来た。 「おねえ様またお客様よ。きょうはずいぶんたくさんいらっしゃるわね。だれでしょう」 と物珍しそうに玄関のほうに注意の耳をそばだてた。葉子もだれだろうといぶかった。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子が襷をはずしながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子の所に取って返していた。金縁のついた高価らしい名刺の表には岡一と記してあった。 「まあ珍しい」 葉子は思わず声を立てて貞世と共に玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄な岡が雪のかかった傘をつぼめて、外套のしたたりを紅をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。 「いい所でしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、きょうはほんとにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園、あすこの森の中が紅葉館、この杉の森がわたし大好きですの。きょうは雪が積もってなおさらきれいですわ」 葉子は岡を二階に案内して、そこのガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼して見せた。岡は言葉少なながら、ちかちかとまぶしい印象を目に残して、降り下り降りあおる雪の向こうに隠見する山内の木立ちの姿を嘆賞した。 「それにしてもどうしてあなたはここを……倉地から手紙でも行きましたか」 岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いゝえ」といった。 「そりゃおかしい事……それではどうして」 縁側から座敷へ戻りながらおもむろに、 「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとかすると会ってくださるかとも思って……」 そういういい出しで岡が語るところによれば、岡の従妹に当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月という姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷といって界隈で有名な家の三人姉妹の中の二人であるという事や、一番の姉に当たる人が「報正新報」でうわさを立てられた優れた美貌の持ち主だという事やが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊躇していたのだとの事だった。葉子は今さらに世間の案外に狭いのを思った。愛子といわず貞世の上にも、自分の行跡がどんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。そこに貞世が、愛子がととのえた茶器をあぶなっかしい手つきで、目八分に持って来た。貞世はこの日さびしい家の内に幾人も客を迎える物珍しさに有頂天になっていたようだった。満面に偽りのない愛嬌を見せながら、丁寧にぺっちゃんとおじぎをした。そして顔にたれかかる黒髪を振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉のほうに寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。 「一緒にお引き合わせしますからね、愛さんにもおいでなさいといっていらっしゃい」 二人だけが座に落ち付くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっと手あぶりの中を見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれが見えるようだった。普通の男ならばたぶんさほどにも思わないに違いない家の中のいさくさなどに繊細すぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰撫をことさらにあこがれていたらしい様子は、そんな事については一言もいわないが、岡の顔にははっきりと描かれているようだった。 「そんなにせいたっていやよ貞ちゃんは。せっかちな人ねえ」 そう穏かにたしなめるらしい愛子の声が階下でした。 「でもそんなにおしゃれしなくったっていいわ。おねえ様が早くっておっしゃってよ」 無遠慮にこういう貞世の声もはっきり聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに笑いを宿した顔を上げたが、葉子と見かわすと急に頬をぽっと赤くして目を障子のほうにそらしてしまった。手あぶりの縁に置かれた手の先がかすかに震うのを葉子は見のがさなかった。 やがて妹たち二人が葉子の後ろに現われた。葉子はすわったまま手を後ろに回して、 「そんな人のお尻の所にすわって、もっとこっちにお出なさいな。……これが妹たちですの。どうかお友だちにしてくださいまし。お船で御一緒だった岡一様。……愛さんあなたお知り申していないの……あの失礼ですがなんとおっしゃいますの、お従妹御さんのお名前は」 と岡に尋ねた。岡は言葉どおりに神経を転倒させていた。それはこの青年を非常に醜くかつ美しくして見せた。急いですわり直した居ずまいをすぐ意味もなくくずして、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを見せたりした。 「は?」 「あのわたしどものうわさをなさったそのお嬢様のお名前は」 「あのやはり岡といいます」 「岡さんならお顔は存じ上げておりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」 愛子は少しも騒がずに、倉地に対した時と同じ調子でじっと岡を見やりながら即座にこう答えた。その目は相変わらず淫蕩と見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど極端に淫蕩だった。岡は怖じながらもその目から自分の目をそらす事ができないようにまともに愛子を見て見る見る耳たぶまでをまっ赤にしていた。葉子はそれを気取ると愛子に対していちだんの憎しみを感ぜずにはいられなかった。 「倉地さんは……」 岡は一路の逃げ道をようやく求め出したように葉子に目を転じた。 「倉地さん? たった今お帰りになったばかり惜しい事をしましてねえ。でもあなたこれからはちょくちょくいらしってくださいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですからいつかごいっしょに御飯でもいただきましょう。わたし日本に帰ってからこの家にお客様をお上げするのはきょうが始めてですのよ。ねえ貞ちゃん。……ほんとうによく来てくださいました事。わたしとうから来ていただきたくってしようがなかったんですけれども、倉地さんからなんとかいって上げてくださるだろうと、そればかりを待っていたのですよ。わたしからお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで葉子はわかってくださるでしょうというような優しい目つきを強い表情を添えて岡に送った)。木村からの手紙であなたの事はくわしく伺っていましたわ。いろいろお苦しい事がおありになるんですってね」 岡はそのころになってようやく自分を回復したようだった。しどろもどろになった考えや言葉もやや整って見えた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、決して二度とはそのほうを向かずに、目を畳の上に伏せてじっと千里も離れた事でも考えている様子だった。 「わたしの意気地のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちはなんといってもわたしを実業の方面に入れて父の事業を嗣がせようとするんです。それはたぶんほんとうにいい事なんでしょう。けれどもわたしにはどうしてもそういう事がわからないから困ります。少しでもわかれば、どうせこんなに病身で何もできませんから、母はじめみんなのいうことをききたいんですけれども……わたしは時々乞食にでもなってしまいたいような気がします。みんなの主人思いな目で見つめられていると、わたしはみんなに済まなくなって、なぜ自分みたいな屑な人間を惜しんでいてくれるのだろうとよくそう思います……こんな事今までだれにもいいはしませんけれども。突然日本に帰って来たりなぞしてからわたしは内々監視までされるようになりました。……わたしのような家に生まれると友だちというものは一人もできませんし、みんなとは表面だけで物をいっていなければならないんですから……心がさびしくってしかたがありません」 そういって岡はすがるように葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、よごれっ気の塵ほどもない声の調子を落としてしんみりと物をいう様子にはおのずからな気高いさびしみがあった。戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べてはことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しもわからなかった。しかしあれでいて、米国くんだりから乗って行った船で帰って来る所なぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。平凡な青年ならできてもできなくとも周囲のものにおだてあげられれば疑いもせずに父の遺業を嗣ぐまねをして喜んでいるだろう。それがどうしてもできないという所にもどこか違った所があるのではないか。葉子はそう思うと何の理解もなくこの青年を取り巻いてただわいわい騒ぎ立てている人たちがばかばかしくも見えた。それにしてもなぜもっとはきはきとそんな下らない障害ぐらい打ち破ってしまわないのだろう。自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでもいって、まわりで世話を焼いた人間たちを胸のすき切るまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮え切らないような態度が歯がゆくもあった。しかしなんといっても抱きしめたいほど可憐なのは岡の繊美なさびしそうな姿だった。岡は上手に入れられた甘露をすすり終わった茶わんを手の先に据えて綿密にその作りを賞翫していた。 「お覚えになるようなものじゃございません事よ」 岡は悪い事でもしていたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいいかげんな世辞はいえないらしかった。 岡は始めて来た家に長居するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。 「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、……ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」 そういうふうにいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままをかわいらしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気な事を聞きただして、岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人とは全く違った態度で)心をこめて親しんで来るその好意には敵し兼ねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、ふところからとも、膚からとも知れぬ柔軟な香りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつのまにか岡はすっかり腰を落ち着けて、いいようなく快く胸の中のわだかまりを一掃したように見えた。 それからというもの、岡は美人屋敷とうわさされる葉子の隠れ家におりおり出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の目の上には葉子の目が義眼されていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡も無条件で憎んだ。ただ一つその例外となっているのは愛子というものらしかった。もちろん葉子とて性格的にはどうしても愛子といれ合わなかったが、骨肉の情としてやはり互いにいいようのない執着を感じあっていた。しかし岡は愛子に対しては心からの愛着を持ち出すようになっている事が知れた。 とにかく岡の加わった事が美人屋敷のいろどりを多様にした。三人の姉妹は時おり倉地、岡に伴われて苔香園の表門のほうから三田の通りなどに散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな目をかがやかした。
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