十四
「成程、そりゃ面白そうだ。――ところでどうでしょう、春画などと云う物は、やっぱり西洋の方が発達しているんですか。」 清水がこう尋ねたのを潮に、近藤は悠然とマドロス・パイプの灰をはたきながら、大学の素読でもしそうな声で、徐に西洋の恁うした画の講釈をし始めた。 「一概に春画と云いますが、まあざっと三種類に区別するのが至当なので、第一は××××を描いたもの、第二はその前後だけを描いたもの、第三は単に××××を描いたもの――」 俊助は勿論こう云う話題に、一種の義憤を発するほど、道徳家でないには相違なかった。けれども彼には近藤の美的偽善とも称すべきものが――自家の卑猥な興味の上へ芸術的と云う金箔を塗りつけるのが、不愉快だったのもまた事実だった。だから近藤が得意になって、さも芸術の極致が、こうした画にあるような、いかがわしい口吻を弄し出すと、俊助は義理にも、金口の煙に隠れて、顔をしかめない訳には行かなかった。が、近藤はそんな事には更に気がつかなかったものと見えて、上は古代希臘の陶画から下は近代仏蘭西の石版画まで、ありとあらゆるこうした画の形式を一々詳しく説明してから、 「そこで面白い事にはですね、あの真面目そうなレムブラントやデュラアまでが、斯ういう画を描いているんです。しかもレムブラントのやつなんぞは、やっぱり例のレムブラント光線が、ぱっと一箇所に落ちているんだから、振っているじゃありませんか。つまりああ云う天才でも、やっぱりこの方面へ手を出すぐらいな俗気は十分あったんで――まあ、その点は我々と似たり寄ったりだったんでしょう。」 俊助はいよいよ聞き苦しくなった。すると今まで卓子の上へ頬杖をついて、半ば眼をつぶっていた大井が、にやりと莫迦にしたような微笑を洩すと、欠伸を噛み殺したような声を出して、 「おい、君、序にレムブラントもデュラアも、我々同様屁を垂れたと云う考証を発表して見ちゃどうだ。」 近藤は大きな鼻眼鏡の後から、険しい視線を大井へ飛ばせたが、大井は一向平気な顔で、鉈豆の煙管をすぱすぱやりながら、 「あるいは百尺竿頭一歩を進めて、同じく屁を垂れるから、君も彼等と甲乙のない天才だと号するのも洒落れているぜ。」 「大井君、よし給えよ。」 「大井さん。もう好いじゃありませんか。」 見兼ねたと云う容子で、花房と藤沢とが、同時に柔しい声を出した。と、大井は狡猾そうな眼で、まっ青になった近藤の顔をじろじろ覗きこみながら、 「こりゃ失敬したね。僕は何も君を怒らす心算で云ったんじゃないんだが――いや、ない所か、君の知識の該博なのには、夙に敬服に堪えないくらいなんだ。だからまあ、怒らないでくれ給え。」 近藤は執念深く口を噤んで、卓子の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気に取られている連中を後に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯いている大井の方へ、ちょいと顎で相図をすると、微笑を含んだ静な声で、 「僕は御先へ御免を蒙るから。――」 これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。
十五
するとその後また一週間と経たない内に、俊助は上野行の電車の中で、偶然辰子と顔を合せた。 それは春先の東京に珍しくない、埃風の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸をかけて、膝の上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、 「先夜は――」と、平凡に挨拶した。 「私こそ――」 それぎり二人は口を噤んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩れるように後へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、 「今日は?――御帰りですか。」と、出直して見た。 「ちょいと兄の所まで――国許の兄が出て参りましたから。」 「学校は? 御休みですか。」 「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」 俊助は次第に二人の間の他人行儀が、氷のように溶けて来るのを感じた。と、広告屋の真紅の旗が、喇叭や太鼓の音を風に飛ばせながら、瞬く間電車の窓を塞いだ。辰子はわずかに肩を落して、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶が、斜にさして来る日の光を受けて、仄かに赤く透いて見えた。俊助はそれを美しいと思った。 「先達は、あれからすぐに御帰りになって。」 辰子は俊助の顔へ瞳を返すと、人懐しい声でこう云った。 「ええ、一時間ばかりいて帰りました。」 「御宅はやはり本郷?」 「そうです。森川町。」 俊助は制服の隠しをさぐって、名刺を辰子の手へ渡した。渡す時向うの手を見ると、青玉を入れた金の指環が、細っそりとその小指を繞っていた。俊助はそれもまた美しいと思った。 「大学の正門前の横町です。その内に遊びにいらっしゃい。」 「難有う。いずれ初子さんとでも。」 辰子は名刺を帯の間へ挟んで、ほとんど聞えないような返事をした。 二人はまた口を噤んで、電車の音とも風の音ともつかない町の音に耳を傾けた。が、俊助はこの二度目の沈黙を、前のように息苦しくは感じなかった。むしろ彼はその沈黙の中に、ある安らかな幸福の存在さえも明かに意識していたのだった。
十六
俊助の下宿は本郷森川町でも、比較的閑静な一区劃にあった。それも京橋辺の酒屋の隠居所を、ある伝手から二階だけ貸して貰ったので、畳建具も世間並の下宿に比べると、遥に小綺麗に出来上っていた。彼はその部屋へ大きな西洋机や安楽椅子の類を持ちこんで、見た眼には多少狭苦しいが、とにかく居心は悪くない程度の西洋風な書斎を拵え上げた。が、書斎を飾るべき色彩と云っては、ただ書棚を埋めている洋書の行列があるばかりで、壁に懸っている額の中にも、大抵はありふれた西洋名画の写真版がはいっているのに過ぎなかった。これに常々不服だった彼は、その代りによく草花の鉢を買って来ては、部屋の中央に据えてある寄せ木の卓子の上へ置いた。現に今日も、この卓子の上には、籐の籠へ入れた桜草の鉢が、何本も細い茎を抽いた先へ、簇々とうす赤い花を攅めている。…… 須田町の乗換で辰子と分れた俊助は、一時間の後この下宿の二階で、窓際の西洋机の前へ据えた輪転椅子に腰を下しながら、漫然と金口の煙草を啣えていた。彼の前には読みかけた書物が、象牙の紙切小刀を挟んだまま、さっきからちゃんと開いてあった。が、今の彼には、その頁に詰まっている思想を咀嚼するだけの根気がなかった。彼の頭の中には辰子の姿が、煙草の煙のもつれるように、いつまでも美しく這い纏っていた。彼にはその頭の中の幻が、最前電車の中で味った幸福の名残りのごとく見えた。と同時にまた来るべき、さらに大きな幸福の前触れのごとくも見えるのだった。 すると机の上の灰皿に、二三本吸いさしの金口がたまった時、まず大儀そうに梯子段を登る音がして、それから誰か唐紙の向うへ立止ったけはいがすると、 「おい、いるか。」と、聞き慣れた太い声がした。 「はいり給え。」 俊助がこう答える間も待たないで、からりとそこの唐紙が開くと、桜草の鉢を置いた寄せ木の卓子の向うには、もう肥った野村の姿が、肩を揺ってのそのそはいって来た。 「静だな。玄関で何度御免と言っても、女中一人出て来ない。仕方がないからとうとう、黙って上って来てしまった。」 始めてこの下宿へ来た野村は、万遍なく部屋の中を見廻してから、俊助の指さす安楽椅子へ、どっかり大きな尻を据えた。 「大方女中がまた使いにでも行っていたんだろう。主人の隠居は聾だから、中々御免くらいじゃ通じやしない。――君は学校の帰りか。」 俊助は卓子の上へ西洋の茶道具を持ち出しながら、ちょいと野村の制服姿へ眼をやった。 「いや、今日はこれから国へ帰って来ようと思って――明後日がちょうど親父の三回忌に当るものだから。」 「そりゃ大変だな。君の国じゃ帰るだけでも一仕事だ。」 「何、その方は慣れているから平気だが、とかく田舎の年忌とか何とか云うやつは――」 野村は前以て辟易を披露するごとく、近眼鏡の後の眉をひそめて見せたが、すぐにまた気を変えて、 「ところで僕は君に一つ、頼みたい事があって寄ったのだが――」
十七
「何だい、改まって。」 俊助は紅茶茶碗を野村の前へ置くと、自分も卓子の前の椅子へ座を占めて、不思議そうに相手の顔へ眼を注いだ。 「改まりなんぞしやしないさ。」 野村は反って恐縮らしく、五分刈の頭を撫で廻したが、 「実は例の癲狂院行きの一件なんだが――どうだろう。君が僕の代りに初子さんを連れて行って、見せてやってくれないか。僕は今日行くと、何だ彼だで一週間ばかりは、とても帰られそうもないんだから。」 「そりゃ困るよ。一週間くらいかかったって、帰ってから、君が連れて行きゃ好いじゃないか。」 「ところが初子さんは、一日も早く見たいと云っているんだ。」 野村は実際困ったような顔をして、しばらくは壁に懸っている写真版へ、順々に眼をくばっていたが、やがてその眼がレオナルドのレダまで行くと、 「おや、あれは君、辰子さんに似ているじゃないか。」と、意外な方面へ談柄を落した。 「そうかね。僕はそうとも思わないが。」 俊助はこう答えながら、明かに嘘をついていると云う自覚があった。それは勿論彼にとって、面白くない自覚には相違なかった。が、同時にまた、小さな冒険をしているような愉快が潜んでいたのも事実だった。 「似ている。似ている。もう少し辰子さんが肥っていりゃ、あれにそっくりだ。」 野村は近眼鏡の下からしばらくレダを仰いでいた後で、今度はその眼を桜草の鉢へやると、腹の底から大きな息をついて、 「どうだ。年来の好誼に免じて、一つ案内役を引き受けてくれないか。僕はもう君が行ってくれるものと思って、その旨を初子さんまで手紙で通知してしまったんだが。」 俊助の舌の先には、「そりゃ君の勝手じゃないか」と云う言葉があった。が、その言葉がまだ口の外へ出ない内に、彼の頭の中へは刹那の間、伏目になった辰子の姿が鮮かに浮び上って来た。と、ほとんどそれが相手に通じたかのごとく、野村は安楽椅子の肘を叩きながら、 「初子さん一人なら、そりゃ君の辟易するのも無理はないが、辰子さんも多分――いや、きっと一しょに行くって云っていたから、その辺の心配はいらないんだがね。」 俊助は紅茶茶碗を掌に載せたまま、しばらくの間考えた。行く行かないの問題を考えるのか、一度断った依頼をまた引受けるために、然るべき口実を考えるのか――それも彼には判然しないような心もちがした。 「そりゃ行っても好いが。」 彼は現金すぎる彼自身を恥じながら、こう云った後で、追いかけるように言葉を添えずにはいられなかった。 「そうすりゃ、久しぶりで新田にも会えるから。」 「やれ、やれ、これでやっと安心した。」 野村はさもほっとしたらしく、胸の釦を二つ三つ外すと、始めて紅茶茶碗を口へつけた。
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