現代日本文学大系 43 芥川龍之介集 |
筑摩書房 |
1968(昭和43)年8月25日 |
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷 |
一 レエン・コオト
僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。上り列車に間に合ふかどうかは可也怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。彼は棗のやうにまるまると肥つた、短い顋髯の持ち主だつた。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。 「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るつて云ふんですが。」 「昼間でもね。」 僕は冬の西日の当つた向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せてゐた。 「尤も天気の善い日には出ないさうです。一番多いのは雨のふる日だつて云ふんですが。」 「雨のふる日に濡れに来るんぢやないか?」 「御常談で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だつて云ふんです。」 自動車はラツパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになつた。僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはひつて行つた。すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだつた。待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めてゐた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思ひ出した。が、ちよつと苦笑したぎり、兎に角次の列車を待つ為に停車場前のカツフエへはひることにした。 それはカツフエと云ふ名を与へるのも考へものに近いカツフエだつた。僕は隅のテエブルに坐り、ココアを一杯註文した。テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格子に引いたものだつた。しかしもう隅々には薄汚いカンヴアスを露してゐた。僕は膠臭いココアを飲みながら、人げのないカツフエの中を見まはした。埃じみたカツフエの壁には「親子丼」だの「カツレツ」だのと云ふ紙札が何枚も貼つてあつた。 「地玉子、オムレツ」 僕はかう云ふ紙札に東海道線に近い田舎を感じた。それは麦畠やキヤベツ畠の間に電気機関車の通る田舎だつた。…… 次の上り列車に乗つたのはもう日暮に近い頃だつた。僕はいつも二等に乗つてゐた。が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。 汽車の中は可也こみ合つてゐた。しかも僕の前後にゐるのは大磯かどこかへ遠足に行つたらしい小学校の女生徒ばかりだつた。僕は巻煙草に火をつけながら、かう云ふ女生徒の群れを眺めてゐた。彼等はいづれも快活だつた。のみならず殆どしやべり続けだつた。 「写真屋さん、ラヴ・シインつて何?」 やはり遠足について来たらしい、僕の前にゐた「写真屋さん」は何とかお茶を濁してゐた。しかし十四五の女生徒の一人はまだいろいろのことを問ひかけてゐた。僕はふと彼女の鼻に蓄膿症のあることを感じ、何か頬笑まずにはゐられなかつた。それから又僕の隣りにゐた十二三の女生徒の一人は若い女教師の膝の上に坐り、片手に彼女の頸を抱きながら、片手に彼女の頬をさすつてゐた。しかも誰かと話す合ひ間に時々かう女教師に話しかけてゐた。 「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらつしやるわね。」 彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云ふ感じを与へた。林檎を皮ごと噛じつてゐたり、キヤラメルの紙を剥いてゐることを除けば。……しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「御免なさいまし」と声をかけた。彼女だけは彼等よりもませてゐるだけに反つて僕には女生徒らしかつた。僕は巻煙草を啣へたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しない訣には行かなかつた。 いつか電燈をともした汽車はやつと或郊外の停車場へ着いた。僕は風の寒いプラツトフオオムへ下り、一度橋を渡つた上、省線電車の来るのを待つことにした。すると偶然顔を合せたのは或会社にゐるT君だつた。僕等は電車を待つてゐる間に不景気のことなどを話し合つた。T君は勿論僕などよりもかう云ふ問題に通じてゐた。が、逞しい彼の指には余り不景気には縁のない土耳古石の指環も嵌まつてゐた。 「大したものを嵌めてゐるね」 「これか? これはハルピンへ商売に行つてゐた友だちの指環を買はされたんだよ。そいつも今は往生してゐる。コオペラテイヴと取引きが出来なくなつたものだから。」 僕等の乗つた省線電車は幸ひにも汽車ほどこんでゐなかつた。僕等は並んで腰をおろし、いろいろのことを話してゐた。T君はついこの春に巴里にある勤め先から東京へ帰つたばかりだつた。従つて僕等の間には巴里の話も出勝ちだつた。カイヨオ夫人の話、蟹料理の話、御外遊中の或殿下の話、…… 「仏蘭西は存外困つてはゐないよ。唯元来仏蘭西人と云ふやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」 「だつてフランは暴落するしさ。」 「それは新聞を読んでゐればね。しかし向うにゐて見給へ。新聞紙上の日本なるものはのべつに大地震や大洪水があるから。」 するとレエン・コオトを着た男が一人僕等の向うへ来て腰をおろした。僕はちよつと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をT君に話したい心もちを感じた。が、T君はその前に杖の柄をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。 「あすこに女が一人ゐるだらう? 鼠色の毛糸のシヨオルをした、……」 「あの西洋髪に結つた女か?」 「うん、風呂敷包みを抱へてゐる女さ。あいつはこの夏は軽井沢にゐたよ。ちよつと洒落れた洋装などをしてね。」 しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしてゐるのに違ひなかつた。僕はT君と話しながら、そつと彼女を眺めてゐた。彼女はどこか眉の間に気違ひらしい感じのする顔をしてゐた。しかもその又風呂敷包みの中から豹に似た海綿をはみ出させてゐた。 「軽井沢にゐた時には若い亜米利加人と踊つたりしてゐたつけ。モダアン……何と云ふやつかね。」 レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにゐなくなつてゐた。僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行つた。往来の両側に立つてゐるのは大抵大きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。 ホテルの玄関へはひつた時には歯車ももう消え失せてゐた。が、頭痛はまだ残つてゐた。僕は外套や帽子を預ける次手に部屋を一つとつて貰ふことにした。それから或雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。 結婚披露式の晩餐はとうに始まつてゐたらしかつた。僕はテエブルの隅に坐り、ナイフやフオオクを動かし出した。正面の新郎や新婦をはじめ、白い凹字形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いづれも陽気だつた。が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。僕はこの心もちを遁れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬髯を伸ばした老人だつた。のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。 「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフエニツクスと云ふ鳥の、……」 この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を截り離した。 「もし堯舜もゐなかつたとすれば、孔子はをつかれたことになる。聖人のをつかれる筈はない。」 僕は勿論黙つてしまつた。それから又皿の上の肉へナイフやフオオクを加へようとした。すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢いてゐた。蛆は僕の頭の中に Worm と云ふ英語を呼び起した。それは又麒麟や鳳凰のやうに或伝説的動物を意味してゐる言葉にも違ひなかつた。僕はナイフやフオオクを置き、いつか僕の杯にシヤンパアニユのつがれるのを眺めてゐた。 やつと晩餐のすんだ後、僕は前にとつて置いた僕の部屋へこもる為に人気のない廊下を歩いて行つた。廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与へるものだつた。しかし幸ひにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでゐた。 僕の部屋には鞄は勿論、帽子や外套も持つて来てあつた。僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚の中へ抛りこんだ。それから鏡台の前へ行き、ぢつと鏡に僕の顔を映した。鏡に映つた僕の顔は皮膚の下の骨組みを露はしてゐた。蛆はかう云ふ僕の記憶に忽ちはつきり浮かび出した。 僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云ふことなしに歩いて行つた。するとロツビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、背の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に鮮かに映つてゐた。それは何か僕の心に平和な感じを与へるものだつた。僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考へてゐた。が、そこにも五分とは坐つてゐる訣に行かなかつた。レエン・コオトは今度も亦僕の横にあつた長椅子の背中に如何にもだらりと脱ぎかけてあつた。 「しかも今は寒中だと云ふのに。」 僕はこんなことを考へながら、もう一度廊下を引き返して行つた。廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかつた。しかし彼等の話し声はちよつと僕の耳をかすめて行つた。それは何とか言はれたのに答へた All right と云ふ英語だつた。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴まうとあせつてゐた。「オオル・ライト」?「オオル・ライト」? 何が一体オオル・ライトなのであらう? 僕の部屋は勿論ひつそりしてゐた。が、戸をあけてはひることは妙に僕には無気味だつた。僕はちよつとためらつた後、思ひ切つて部屋の中へはひつて行つた。それから鏡を見ないやうにし、机の前の椅子に腰をおろした。椅子は蜥蜴の皮に近い、青いマロツク皮の安楽椅子だつた。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたつても動かなかつた。のみならずやつと動いたと思ふと、同じ言葉ばかり書きつづけてゐた。All right……All right…… All right, sir……All right…… そこへ突然鳴り出したのはベツドの側にある電話だつた。僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやつて返事をした。 「どなた?」 「あたしです。あたし……」 相手は僕の姉の娘だつた。 「何だい? どうかしたのかい?」 「ええ、あの大へんなことが起つたんです。ですから、……大へんなことが起つたもんですから、今叔母さんにも電話をかけたんです。」 「大へんなこと?」 「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ。」 電話はそれぎり切れてしまつた。僕はもとのやうに受話器をかけ、反射的にべルの鈕を押した。しかし僕の手の震へてゐることは僕自身はつきり意識してゐた。給仕は容易にやつて来なかつた。僕は苛立たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した、やつと運命の僕に教へた「オオル・ライト」と云ふ言葉を了解しながら。 僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひつかけてゐた。僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけてゐる。真夜中の廊下には誰も通らない。が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。どこかに鳥でも飼つてあるのかも知れない。
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