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追憶(ついおく)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 14:18:03 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 河童・玄鶴山房
出版社: 角川文庫、角川書店
初版発行日: 1969(昭和44)年11月30日改版初版
入力に使用: 1979(昭和54)年9月20日改版14版
校正に使用: 1979(昭和54)年9月20日改版14版

 

  一 埃

 僕の記憶の始まりは数え年の四つの時のことである。と言ってもたいした記憶ではない。ただ広さんという大工が一人、梯子はしごか何かに乗ったまま玄能で天井をたたいている、天井からはぱっぱっとほこりが出る――そんな光景を覚えているのである。
 これは江戸の昔から祖父や父の住んでいた古家をこわした時のことである。僕は数え年の四つの秋、新しい家に住むようになった。したがって古家を毀したのはおそくもその年の春だったであろう。

     二 位牌

 僕のうちの仏壇には祖父母の位牌いはい叔父おじの位牌の前に大きい位牌が一つあった。それは天保てんぽう何年かに没した曾祖父母そうそふぼの位牌だった。僕はもの心のついた時から、この金箔きんぱくの黒ずんだ位牌に恐怖に近いものを感じていた。
 僕ののちに聞いたところによれば、曾祖父は奥坊主を勤めていたものの、二人の娘を二人とも花魁おいらんに売ったという人だった。のみならずまた曾祖母も曾祖父の夜泊まりを重ねるために家にきもののない時にはなたで縁側をたたこわし、それをたきぎにしたという人だった。

     三 庭木

 新しい僕の家の庭には冬青もちかや木斛もっこく、かくれみの、臘梅ろうばい、八つ手、五葉の松などが植わっていた。僕はそれらの木の中でも特に一本の臘梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無気味でならなかった。

     四 「てつ」

 僕のうちには子守こもりのほかに「てつ」という女中が一人あった。この女中はのちに「げんさん」という大工のお上さんになったために「源てつ」という渾名あだなもらったものである。
 なんでも一月か二月のある夜、(僕は数え年の五つだった)地震のために目をさました「てつ」は前後の分別を失ったとみえ、まくらもとの行灯あんどんをぶら下げたなり、茶の間から座敷を走りまわった。僕はその時座敷の畳に油じみのできたのを覚えている。それからまた夜中の庭に雪の積もっていたのを覚えている。

     五 猫の魂

「てつ」はげんさんへ縁づいたのちも時々僕のうちへ遊びに来た。僕はそのころ「てつ」の話した、こういう怪談を覚えている。――ある日の午後、「てつ」は長火鉢ながひばち頬杖ほほづえをつき、半睡半醒はんすいはんせいの境にさまよっていた。すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目をました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消えせていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼いねこの魂がじゃれに来たに違いないというのだった。

     六 草双紙

 僕のうちの本箱には草双紙くさぞうしがいっぱいつまっていた。僕はもの心のついたころからこれらの草双紙を愛していた。ことに「西遊記さいゆうき」を翻案した「金毘羅利生記こんぴらりしょうき」を愛していた。「金毘羅利生記」の主人公はあるいは僕の記憶に残った第一の作中人物かもしれない。それは岩裂いわさきの神という、兜巾鈴懸ときんすずかけを装った、なざしの恐ろしい大天狗だいてんぐだった。

     七 お狸様

 僕のうちには祖父の代からお狸様たぬきさまというものをまつっていた。それは赤い布団にのった一対の狸の土偶でくだった。僕はこのお狸様にも何か恐怖を感じていた。お狸様を祀ることはどういう因縁によったものか、父や母さえも知らないらしい。しかしいまだに僕の家には薄暗い納戸なんどすみたなにお狸様の宮を設け、夜は必ずその宮の前に小さい蝋燭ろうそくをともしている。

     八 蘭

 僕は時々狭い庭を歩き、父の真似まねをして雑草を抜いた。実際庭は水場だけにいろいろの草を生じやすかった。僕はある時冬青もちの木の下に細い一本の草を見つけ、早速それを抜きすててしまった。僕の所業を知った父は「せっかくのらんを抜かれた」と何度も母にこぼしていた。が、格別、そのためにしかられたという記憶は持っていない。蘭はどこでも石の間に特に一、二けい植えたものだった。

     九 夢中遊行

 僕はそのころも今のようにからだの弱い子供だった。ことに便秘べんぴしさえすれば、必ずひきつける子供だった。僕の記憶に残っているのは僕が最後にひきつけた九歳の時のことである。僕は熱もあったから、床の中に横たわったまま、伯母おばの髪を結うのをながめていた。そのうちにいつかひきつけたとみえ、寂しい海辺うみべを歩いていた。そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それは「妙々車みょうみょうぐるま」という草双紙くさぞうしの中の插画さしえだったらしい。この夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚えていない。

     一〇 「つうや」

 僕がいちばん親しんだのは「てつ」ののちにいた「つる」である。僕のうちはそのころから経済状態が悪くなったとみえ、女中もこの「つる」一人ぎりだった。僕は「つる」のことを「つうや」と呼んだ。「つうや」はあたりまえの女よりもロマンティック趣味に富んでいたのであろう。僕の母の話によれば、法界節ほうかいぶしが二、三人がさをかぶって通るのを見ても「敵討かたきうちでしょうか?」と尋ねたそうである。

     一一 郵便箱

 僕のうちの門のそばには郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母おばは日の暮れになると、かわるがわる門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りをながめたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年ころにもまだかすかに残っていたであろう。僕はまたこういう時に「さあ、もう雀色時すずめいろどきになったから」と母の言ったのを覚えている。雀色時という言葉はそのころの僕にも好きな言葉だった。

     一二 灸

 僕は何かいたずらをすると、必ず伯母おばにつかまっては足の小指にきゅうをすえられた。僕に最もおそろしかったのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられるということである。僕は手足をばたばたさせながら「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」と怒鳴ったりした。これはもちろん火がつくところから自然と連想れんそうを生じたのであろう。

     一三 剥製の雉

 僕のうちへ来る人々の中に「お市さん」という人があった。これは代地だいちかどこかにいた柳派の「りん」のおかみさんだった。僕はこの「お市さん」にいろいろの画本えほん玩具おもちゃなどをもらった。その中でも僕を喜ばせたのは大きい剥製はくせいきじである。
 僕は小学校を卒業する時、その尾羽根の切れかかった雉を寄附していったように覚えている。が、それは確かではない。ただいまだにおかしいのは雉の剥製を貰った時、父が僕に言った言葉である。
「昔、うちの隣にいた××××(この名前は覚えていない)という人はちょうど元日のしらしら明けの空を白い鳳凰ほうおうがたった一羽、中洲なかずの方へ飛んで行くのを見たことがあると言っていたよ。もっともでたらめを言う人だったがね」

     一四 幽霊

 僕は小学校へはいっていたころ、どこの長唄ながうたの女師匠は亭主の怨霊おんりょうにとりつかれているとか、ここの仕事師のおばあさんは嫁の幽霊に責められているとか、いろいろの怪談を聞かせられた。それをまた僕に聞かせたのは僕の祖父の代に女中をしていた「おてつさん」という婆さんである。僕はそんな話のためか、夢ともうつつともつかぬ境にいろいろの幽霊に襲われがちだった。しかもそれらの幽霊はたいていは「おてつさん」の顔をしていた。

     一五 馬車

 僕が小学校へはいらぬ前、小さい馬車を驢馬ろばかせ、そのまた馬車に子供を乗せて、町内をまわるじいさんがあった。僕はこの小さい馬車に乗って、お竹倉や何かを通りたかった。しかし僕のりをした「つうや」はなぜかそれを許さなかった。あるいは僕だけ馬車へ乗せるのを危険にでも思ったためかもしれない。けれども青いほろを張った、玩具おもちゃよりもわずかに大きい馬車が小刻みにことこと歩いているのは幼目にもハイカラに見えたものである。

     一六 水屋

 そのころはまた本所ほんじょも井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋のじいさんが水桶みずおけの水を水甕みずがめの中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現ゆめうつつの境に現われてくる幽霊の中の一人だった。

     一七 幼稚園

 僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院えこういんの隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭のすみには大きい銀杏いちょうが一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中にはさんだのを覚えている。それからまたある円顔まるがおの女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友だちにい、そのころのことを話し合った末、「先方でも覚えているかしら」と言った。
「そりゃ覚えていないだろう」
 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合わない、はぎすすきに露の玉を散らした、そでの長い着物を着ていたものである。

     一八 相撲

 相撲すもうもまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕のうちの裏の向こうは年寄りの峯岸みねぎしの家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山ひたちやまや梅ヶ谷の全盛をきわめた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破ったため、大評判になったのを覚えている。いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾さかほこでもどこか錦絵にしきえの相撲に近い、男ぶりの人にすぐれた相撲はことごとく僕の贔屓ひいきだった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりもからだが弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束わらたばねにしたふんどしかつぎが相撲膏すもうこうっていたためかもしれない。

     一九 宇治紫山

 僕の一家は宇治紫山うじしざんという人に一中節いっちゅうぶしを習っていた。この人は酒だの遊芸だのにお蔵前の札差しの身上しんしょうをすっかり費やしてしまったらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の悪かったのを覚えている。また小さい借家にいても、二、三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。
 この「お師匠さん」は長命だった。なんでも晩年味噌みそを買いに行き、雪上がりの往来で転んだ時にも、やっとうちへ帰ってくると、「それでもまあふんどしだけ新しくってよかった」と言ったそうである。

     二〇 学問

 僕は小学校へはいった時から、この「お師匠さん」の一人息子むすこに英語と漢文と習字とを習った。が、どれも進歩しなかった。ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。それでも僕は夜になると、ナショナル・リイダアや日本外史をかかえ、せっせと相生町あいおいちょう二丁目の「お師匠さん」の家へ通って行った。It is a dog――ナショナル・リイダアの最初の一行はたぶんこういう文章だったであろう。しかしそれよりはっきりと僕の記憶に残っているのは、何かの拍子に「お師匠さん」の言った「だれとかさんもこのごろじゃ身なりが山水さんすいだな」という言葉である。

     二一 活動写真

 僕がはじめて活動写真を見たのは五つか六つの時だったであろう。僕は確か父といっしょにそういう珍しいものを見物した大川端おおかわばたの二州楼へ行った。活動写真は今のように大きい幕に映るのではない。少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。それから写真の話もまた今のように複雑ではない。僕はその晩の写真のうちに魚をっていた男が一人、大きい魚が針にかかったため、水の中へまっさかさまにひき落とされる画面を覚えている。その男はなんでも麦藁帽むぎわらぼうをかぶり、風立った柳やあしを後ろに長い釣竿つりざおを手にしていた。僕は不思議にその男の顔がネルソンに近かったような気がしている。が、それはことによると、僕の記憶の間違いかもしれない。

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