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追憶(ついおく)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-16 14:18:03 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



     二二 川開き

 やはりこの二州楼の桟敷さじきに川開きを見ていた時である。大川はもちろん鬼灯提灯ほおずきぢょうちんった無数の船にうずまっていた。するとその大川の上にどっと何かの雪崩なだれる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清かめせいの桟敷が落ちたとか、中村楼の桟敷が落ちたとか、いろいろのうわさが伝わりだした。しかし事実は木橋もっきょうだった両国橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だった。僕はのちにこの椿事ちんじを幻灯か何かに映したのを見たこともあるように覚えている。

     二三 ダアク一座

 僕は当時回向院えこういんの境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇だいじゃ、鬼の首、なんとか言う西洋人が非常に高いさおの上からとんぼを切って落ちて見せるもの、――数え立てていれば際限はない。しかしいちばんおもしろかったのはダアク一座のあやつり人形である。その中でもまたおもしろかったのは道化どうけた西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

     二四 中洲

 当時の中洲なかずは言葉どおり、あしの茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂かんじょうや馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。

     二五 寿座

 本所ほんじょの寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕はある日の暮れがた、ある小学校の先輩と元町通りをながめていた。すると亜鉛トタン海鼠板なまこいたを積んだ荷車が何台も通って行った。
「あれはどこへ行く?」
 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。
「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」
 僕は今度は勢いく言った。
「ブリッキ!」
 しかしそれはいたずらに先輩の冷笑を買うだけだった。
「ブリッキ? あれはトタンというものだ」
 僕はこういう問答のため、妙に悄気しょげたことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。

     二六 いじめっ子

 幼稚園にはいっていた僕はほとんどだれにもいじめられなかった。もっとも本間ほんまの徳ちゃんにはたびたび泣かされたものである。しかしそれは喧嘩けんかの上だった。したがって僕も三度に一度は徳ちゃんを泣かせた記憶を持っている。徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ気の強い餓鬼大将だった。
 しかし小学校へはいるが早いか僕はたちまち世間に多い「いじめっ子」というものにめぐり合った。「いじめっ子」は杉浦誉四郎である。これは僕の隣席にいたから何か口実をこしらえてはたびたび僕をつねったりした。おまけに杉浦の家の前を通るとおおかみに似た犬をけしかけたりもした。(これは今日考えてみれば Greyhound という犬だったであろう)僕はこの犬に追いつめられたあげく、とうとうある畳屋の店へ飛び上がってしまったのを覚えている。
 僕は今漫然と「いじめっ子」の心理を考えている。あれは少年に現われたサアド型性欲ではないであろうか? 杉浦は僕のクラスの中でも最も※(「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1-85-31)はくせきの少年だった。のみならずある名高い富豪の妾腹にできた少年だった。

     二七 画

 僕は幼稚園にはいっていたころには海軍将校になるつもりだった。が、小学校へはいったころからいつか画家志願に変っていた。僕の叔母おば狩野勝玉かのうしょうぎょくという芳崖ほうがい乙弟子おとでしに縁づいていた。僕の叔父おじもまた裁判官だった雨谷うこくに南画を学んでいた。しかし僕のなりたかったのはナポレオンの肖像だのライオンだのをく洋画家だった。
 僕が当時買い集めた西洋名画の写真版はいまだに何枚か残っている。僕は近ごろ何かのついでにそれらの写真版に目を通した。するとそれらの一枚は、樹下に金髪の美人を立たせたウイスキイの会社の広告画だった。

     二八 水泳

 僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風ながいかふう氏や谷崎たにざき潤一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。当時は水泳協会もあしの茂った中洲なかずから安田の屋敷前へ移っていた。僕はそこへ二、三人の同級の友達と通って行った。清水昌彦しみずまさひこもその一人だった。
「僕はだれにもわかるまいと思って水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびっくりしてしまった。ウンコは水よりも軽いもんなんだね」
 こういうことを話した清水も海軍将校になったのち、一昨年おととし(大正十三年)の春に故人になった。僕はその二、三週間前に転地先の三島からよこした清水の手紙を覚えている。
「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思う。僕は喉頭こうとう結核の上に腸結核も併発している。妻は僕と同じ病気にかかり僕よりも先に死んでしまった。あとには今年ことし五つになる女の子が一人残っている。……まずは生前のご挨拶あいさつまで」
 僕は返事のペンを執りながら、春寒はるさむの三島の海を思い、なんとかいう発句を書いたりした。今はもう発句は覚えていない。しかし「喉頭結核でも絶望するには当たらぬ」などという気休めを並べたことだけはいまだにはっきりと覚えている。

     二九 体刑

 僕の小学校にいたころには体刑も決して珍しくはなかった。それも横顔を張りつけるくらいではない。胸ぐらをとって小突きまわしたり、床の上へ突き倒したりしたものである。僕も一度はなぐられた上、習字のお双紙をさし上げたまま、半時間も立たされていたことがあった。こういう時に擲られるのは格別痛みを感ずるものではない。しかし、大勢の生徒の前に立たされているのはせつないものである。僕はいつかイタリアのファッショは社会主義にヒマシユを飲ませ、腹下しを起こさせるという話を聞き、たちまち薄汚うすぎたないベンチの上に立った僕自身の姿を思い出したりした。のみならずファッショの刑罰もあるいは存外当人には残酷ではないかと考えたりした。

     三〇 大水

 僕は大水にもたびたび出合った。が、幸いどの大水も床の上へ来たことは一度もなかった。僕は母や伯母おばなどが濁り水の中に二尺指にしゃくざしを立てて、一分いちぶえたの二分殖えたのと騒いでいたのを覚えている。それから夜は目をますと、絶えずどこかの半鐘が鳴りつづけていたのを覚えている。

     三一 答案

 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙わらばんしを配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」
 先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。

     三二 加藤清正

 加藤清正かとうきよまさ相生町あいおいちょう二丁目の横町に住んでいた。と言ってももちろん鎧武者よろいむしゃではない。ごく小さい桶屋おけやだった。しかし主人は標札によれば、加藤清正に違いなかった。のみならずまだ新しい紺暖簾こんのれんの紋もじゃだった。僕らは時々この店へ主人の清正をのぞきに行った。清正は短い顋髯あごひげやし、金槌かなづちかんなを使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。

     三三 七不思議

 そのころはどの家もランプだった。したがってどの町も薄暗かった。こういう町は明治とは言い条、まだ「本所ほんじょの七不思議」とは全然縁のないわけではなかった。現に僕は夜学の帰りに元町通りを歩きながら、お竹倉のやぶの向こうの莫迦囃ばかばやしを聞いたのを覚えている。それは石原か横網かにお祭りのあった囃しだったかもしれない。しかし僕は二百年来のたぬきの莫迦囃しではないかと思い、一刻も早く家へ帰るようにせっせと足を早めたものだった。

     三四 動員令

 僕は例の夜学の帰りに本所ほんじょ警察署の前を通った。警察署の前にはいつもと変わり、高張り提灯ぢょうちんが一対ともしてあった。僕は妙に思いながら、父や母にそのことを話した。が、だれも驚かなかった。それは僕の留守るすの間に「動員令発せらる」という号外がうちにも来ていたからだった。僕はもちろん日露戦役に関するいろいろの小事件を記憶している。が、この一対の高張り提灯ほどあざやかに覚えているものはない。いや、僕は今日でも高張り提灯を見るたびに婚礼や何かを想像するよりもまず戦争を思い出すのである。

     三五 久井田卯之助

 久井田ひさいだという文字は違っているかもしれない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと称していた。彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。僕はこのヒサイダさんに社会主義の信条を教えてもらった。それは僕の血肉には幸か不幸かみ入らなかった。が、日露戦争中の非戦論者に悪意を持たなかったのは確かにヒサイダさんの影響だった。
 ヒサイダさんは五、六年前に突然僕を訪問した。僕が彼と大人おとな同士の社会主義論をしたのはこの時だけである。(彼はそれから何か月もたたずに天城山あまぎさんの雪中に凍死してしまった)しかし僕は社会主義論よりも彼の獄中生活などに興味を持たずにはいられなかった。
「夏目さんの『行人こうじん』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずにぜんを下げさせるところがあるでしょう。あすこをろうの中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」
 彼は人懐ひとなつこ笑顔えがおをしながら、そんなことも話していったものだった。

     三六 火花

 やはりそのころの雨上がりの日の暮れ、僕は馬車通りの砂利道を一隊の歩兵の通るのに出合った。歩兵は銃を肩にしたまま、黙って進行をつづけていた。が、そのくつは砂利とれるたびに時々火花を発していた。僕はこのかすかな火花に何か悲壮な心もちを感じた。
 それから何年かたったのち、僕は白柳しらやなぎ秀湖氏の「離愁」とかいう小品集を読み、やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。(僕に白柳秀湖氏や上司かみつかさ小剣氏の名を教えたものもあるいはヒサイダさんだったかもしれない)それはまだ中学生の僕には僕自身同じことを見ていたせいか、感銘の深いものに違いなかった。僕はこの文章から同氏の本を読むようになり、いつかロシヤの文学者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。それらの小品集はどこへ行ったか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空をめる「鳶色とびいろもや」などという言葉に。

     三七 日本海海戦

 僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれどもなみ高し」の号外は出ても、勝敗は容易にわからなかった。するとある日の午飯ひるめしの時間に僕の組の先生が一人、号外を持って教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と声をかけた。この時の僕らの感激は確かにまた国民的だったのであろう。僕は中学を卒業しない前に国木田独歩の作品を読み、なんでも「電報」とかいう短篇にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
「皇国の興廃この一挙にあり」云々うんぬんの信号を掲げたということはおそらくはいかなる戦争文学よりもいっそう詩的な出来事だったであろう。しかし僕は十年ののち、海軍機関学校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。
「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」

     三八 柔術

 僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸はまちょうがしの大竹という道場へもやはり寒稽古かんげいこなどに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投ともえなげを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へすわっていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取とっとりの農林学校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。

     三九 西川英次郎

 西川は渾名あだなをライオンと言った。それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。中学の四年か五年の時に英訳の「猟人日記」だの「サッフォオ」だのを読みかじったのは、西川なしにはできなかったであろう。が、僕は西川には何も報いることはできなかった。もし何か報いたとすれば、それはただ足がらをすくって西川を泣かせたことだけであろう。
 僕はまた西川といっしょに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だったらしい。しかし僕らは大旅行をしても、旅費は二十円を越えたことはなかった。僕はやはり西川といっしょに中里介山氏の「大菩薩峠だいぼさつとうげ」に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添えてあった。
 たぶんまだ残雪の深い赤城山へ登った時であろう。西川はこごみかげんに歩きながら、急に僕にこんなことを言った。
「君は両親に死なれたら、悲しいとかなんとか思うかい?」
 僕はちょっと考えたのち、「悲しいと思う」と返事をした。
「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるつもりなんだから、そういう人間もいるということを知っておくほうがいいかもしれない」
 しかし僕はその時分にはまだ作家になろうという志望などを持っていたわけではなかった。それをなぜそう言われたかはいまだに僕には不可解である。

     四〇 勉強

 僕は僕の中学時代はもちろん、復習というものをしたことはなかった。しかし試験勉強はたびたびした。試験の当日にはどの生徒も運動場でも本を読んだりしている。僕はそれを見るたびに「僕ももっと勉強すればよかった」という後悔を伴った不安を感じた。が、試験場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れていた。

     四一 金

 僕は一円の金をもらい、本屋へ本を買いに出かけると、なぜか一円の本を買ったことはなかった。しかし一円出しさえすれば、僕がしいと思う本は手にはいるのに違いなかった。僕はたびたび七十銭か八十銭の本を持ってきたのち、その本を買ったことを後悔していた。それはもちろん本ばかりではなかった。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じている。今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡しゅんじゅんしてはいないであろうか?

     四二 虚栄心

 ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往来の人々が全然僕を顧みないのを感じた。同時にまた妙に寂しさを感じた。しかし格別「今に見ろ」という勇気の起こることは感じなかった。薄い藍色に澄み渡った空には幾つかの星も輝いていた。僕はこれらの星を見ながら、できるだけ威張って歩いて行った。

     四三 発火演習

 僕らの中学は秋になると、発火演習を行なったばかりか、東京のある聯隊れんたいの機動演習にも参加したものである。体操の教官――ある陸軍大尉はいつも僕らには厳然としていた。が、実際の機動演習になると、時々命令に間違いを生じ、おお声に上官にしかられたりしていた。僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。

     四四 渾名

 あらゆる東京の中学生が教師につける渾名あだなほど刻薄に真実に迫るものはない。僕はあいにく今日ではそれらの渾名を忘れている。が、今から四、五年前、僕の従姉いとこの子供が一人、僕のうちへ遊びに来た時、ある中学の先生のことを「マッポンがどうして」などと話していた。僕はもちろん「マッポン」とはなんのことかと質問した。
「どういうことも何もありませんよ。ただその先生の顔を見ると、マッポンという気もちがするだけですよ」
 僕はそれからしばらくののち、この中学生と電車に乗り、偶然その先生の※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうに接した。するとそれは、――僕もやはり文章ではとうてい真実を伝えることはできない。つまりそれは渾名どおり、まさに「マッポン」という感じだった。

(大正十五年三月―昭和二年一月)




 



底本:「河童・玄鶴山房」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年11月30日改版初版発行
   1979(昭和54)年9月20日改版14版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:一色伸子
校正:小林繁雄
2001年1月29日公開
2004年3月16日修正
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