四 父と子と
大正七年十月のある夜、中村少将、――当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。 二十年余りの閑日月は、少将を愛すべき老人にしていた。殊に今夜は和服のせいか、禿げ上った額のあたりや、肉のたるんだ口のまわりには、一層好人物じみた気色があった。少将は椅子の背に靠れたまま、ゆっくり周囲を眺め廻した。それから、――急にため息を洩らした。 室の壁にはどこを見ても、西洋の画の複製らしい、写真版の額が懸けてあった。そのある物は窓に倚った、寂しい少女の肖像だった。またある物は糸杉の間に、太陽の見える風景だった。それらは皆電燈の光に、この古めかしい応接室へ、何か妙に薄ら寒い、厳粛な空気を与えていた。が、その空気はどう云う訣か、少将には愉快でないらしかった。 無言の何分かが過ぎ去った後、突然少将は室外に、かすかなノックの音を聞いた。 「おはいり。」 その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっきらぼうにこう云った。 「何か御用ですか? お父さん。」 「うん。まあ、そこにおかけ。」 青年は素直に腰を下した。 「何です?」 少将は返事をするために、青年の胸の金鈕へ、不審らしい眼をやった。 「今日は?」 「今日は河合の――お父さんは御存知ないでしょう。――僕と同じ文科の学生です。河合の追悼会があったものですから、今帰ったばかりなのです。」 少将はちょいと頷いた後、濃いハヴァナの煙を吐いた。それからやっと大儀そうに、肝腎の用向きを話し始めた。 「この壁にある画だね、これはお前が懸け換えたのかい?」 「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝僕が懸け換えたのです。いけませんか?」 「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下の額だけは懸けて置きたい、と思う。」 「この中へですか?」 青年は思わず微笑した。 「この中へ懸けてはいけないかね?」 「いけないと云う事もありませんが、――しかしそれは可笑しいでしょう。」 「肖像画はあすこにもあるようじゃないか?」 少将は炉の上の壁を指した。その壁には額縁の中に、五十何歳かのレムブラントが、悠々と少将を見下していた。 「あれは別です。N将軍と一しょにはなりません。」 「そうか? じゃ仕方がない。」 少将は容易に断念した。が、また葉巻の煙を吐きながら、静かにこう話を続けた。 「お前は、――と云うよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思っているね?」 「別にどうも思ってはいません。まあ、偉い軍人でしょう。」 青年は老いた父の眼に、晩酌の酔を感じていた。 「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者らしい、人懐こい性格も持っていられた。……」 少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野の別荘に、将軍を訪れた時の事だった。その日別荘へ行って見ると、将軍夫妻は今し方、裏山へ散歩にお出かけになった、――そう云う別荘番の話だった。少将は案内を知っていたから、早速裏山へ出かける事にした。すると二三町行った所に、綿服を纏った将軍が、夫人と一しょに佇んでいた。少将はこの老夫妻と、しばらくの間立ち話をした。が、将軍はいつまでたっても、そこを立ち去ろうとしなかった。「何かここに用でもおありですか?」――こう少将が尋ねると、将軍は急に笑い出した。「実はね、今妻が憚りへ行きたいと云うものだから、わしたちについて来た学生たちが、場所を探しに行ってくれた所じゃ。」ちょうど今頃、――もう路ばたに毬栗などが、転がっている時分だった。 少将は眼を細くしたまま、嬉しそうに独り微笑した。――そこへ色づいた林の中から、勢の好い中学生が、四五人同時に飛び出して来た。彼等は少将に頓着せず、将軍夫妻をとり囲むと、口々に彼等が夫人のために、見つけて来た場所を報告した。その上それぞれ自分の場所へ、夫人に来て貰うように、無邪気な競争さえ始めるのだった。「じゃあなた方に籤を引いて貰おう。」――将軍はこう云ってから、もう一度少将に笑顔を見せた。…… 「それは罪のない話ですね。だが西洋人には聞かされないな。」 青年も笑わずにはいられなかった。 「まあそんな調子でね、十二三の中学生でも、N閣下と云いさえすれば、叔父さんのように懐いていたものだ。閣下はお前がたの思うように、決して一介の武弁じゃない。」 少将は楽しそうに話し終ると、また炉の上のレムブラントを眺めた。 「あれもやはり人格者かい?」 「ええ、偉い画描きです。」 「N閣下などとはどうだろう?」 青年の顔には当惑の色が浮んだ。 「どうと云っても困りますが、――まあN将軍などよりも、僕等に近い気もちのある人です。」 「閣下のお前がたに遠いと云うのは?」 「何と云えば好いですか?――まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会のあった、河合と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に――」 青年は真面目に父の顔を見た。 「写真をとる余裕はなかったようです。」 今度は機嫌の好い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。 「写真をとっても好いじゃないか? 最後の記念と云う意味もあるし、――」 「誰のためにですか?」 「誰と云う事もないが、――我々始めN閣下の最後の顔は見たいじゃないか?」 「それは少くともN将軍は、考うべき事ではないと思うのです。僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られる事を、――」 少将はほとんど、憤然と、青年の言葉を遮った。 「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」 しかし青年は不相変、顔色も声も落着いていた。 「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」 父と子とはしばらくの間、気まずい沈黙を続けていた。 「時代の違いだね。」 少将はやっとつけ加えた。 「ええ、まあ、――」 青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。 「雨ですね。お父さん。」 「雨?」 少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。 「また榲が落ちなければ好いが、……」
(大正十年十二月)
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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