けれども自分の経験に依ると静は自分と関係してる間は決して自分を不安に思はしめるやうなことは無かつた。正直で可憐で柔和で身も魂も自分に捧げて居るやうであつた。 銀之助は斯う考がへて来ると解らなくなつた。節操といふものが解らなくなつた。 成程元子は見たところ節操々々して居る。けれど講習会を名に何をして居るか知れたものでない。想像して見ると不審の点は数多もある。今夜だつて何を働いて居るか自分は見て居ない。自分の見る事も出来ないこと、それが自分に猛烈な苦悩を与へることを元子は実行して居るではないか。 考へれば考へるほど銀之助には解らなくなつた。忌々しさうに頭を振て、急に急足で愛宕町の闇い狭い路地をぐる/\廻つて漸と格子戸の小さな二階屋に「小川」と薄暗い瓦斯燈の点けてあるのを発見けた。「小川方」とあつた、よろしいこれだと、躊躇うことなく格子を開けて 『お宅にお静さんといふ人が同居し居られますか。』 と訊や、直ぐ現はれたのが静であつた。 『能く来て下さいました。待て居たんですよ。サアどうか上つて下さいましな。』と低い艶のある声は昔のまゝである。 『イヤ上るまい。貴方は一寸出られませんか。』 『そうね、一寸待つて下さい。』と急いで二階へ上つたが間もなく降て来て 『それでは其所いらまで御一所に歩るきませう。』 二人は並んで黙つて路地を出た。出るや直ぐ銀之助は 『よくこれが出しましたね。』と親指を静の眼の前へ突き出した。 『アラ彼な事を。相変らず口が悪いのね。』 『別れてから、たつた五年じアありませんか。』 『ほんとに五年になりますね、昨日のやうだけれど。』 二人の言葉は一寸と途断れた。そして何所へともなく目的なく歩て居るのである。 『今のこれとは何時からです。』と銀之助は又た親指を出した。 『これはお止しなさいよ、変ですから。一昨年の冬からです。』 『それまでは。』 『貴様と不可なくなつてから唯だ家に居ました。』 『たゞ。』 『そうよ。』と言つて『おゝ薄ら寒い』と静は銀之助に寄り添た。銀之助は思はず左の手を静の肩に掛けかけたが止した。 『僕も酔が醒めかゝつて寒くなつて来た。静ちやんさへ差つかへ無けれア彼の角の西洋料理へ上がつてゆつくり話しませう。』 静は一寸考へて居たが 『最早遅いでせう。』 『ナアに未だ。』 静は又一寸考へて 『貴郎私のお願を叶へて下すつて。』と言はれて気が着き、銀之助は停止まつた。 『実は僕今夜は五円札一枚しか持て居ないのだ。これは僕の小使銭の余りだから可いやうなものゝ若しか二十円と纏ると、鍵の番人をして居る妻君の手からは兎ても取れつこない。どうかして僕が他から工面しなければならないのは貴女にも解るでせう。だから今夜はこれだけお持なさい。余は二三日中に如何にか為ますから。』と紙入から札を出て静に渡した。 『ほんとに私は、こんなことが貴郎に言はれた義理ぢアないんですけれど、手紙で申し上げたやうな訳で……』 『最早可いよ、僕には解つてるから。』 『だつて全く貴様にお願ひして見る外方法が尽ちやつたのですよ……。』 『最早解つてますよ。それで余の分は何れ二三日中に持て来ます。』
銀之助は静に分れて最早歩くのが慊になり、車を飛ばして自宅に帰つた。遅くなるとか、閉めても可いとか房に言つたのを忘れて了つたのである。 帰つて見ると未だ元子は帰宅て居ない。房も気慊を取る言葉がないので沈黙て横を向いてると、銀之助は自分でウヰスキーの瓶とコツプを持て二階へ駈け上がつた。 精で三四杯あほり立てたので酔が一時に発して眼がぐらぐらして来た。此時 『断然元子を追ひ出して静を奪つて来る。卑しくつても節操がなくつても静の方が可い』といふ感が猛然と彼の頭に上ぼつた。 『静が可い、静が可い』と彼は心に繰返しながら室内をのそ/\歩いて居たが、突然ソハの上に倒れて両手を顔にあてゝ溢るゝ涙を押へた。
(明治40[#「40」は縦中横]年9月「太陽」)
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
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