中
十二月に入ると急に寒気が増して霜柱は立つ、氷は張る、東京の郊外は突然に冬の特色を発揮して、流行の郊外生活にかぶれて初て郊外に住んだ連中を喫驚さした。然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を穿いて厚い外套を着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が煌々と輝やいて、そよ吹く風もなく、小春日和が又立返ったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に出掛けた。 郊外から下町へ出るのは東京へ行くと称して出慣れぬ女連は外出の仕度に一騒するのである。それで老母を初め細君娘、お徳までの着変やら何かに一しきり騒しかったのが、出て去った後は一時に森となって家内は人気が絶たようになった。 真蔵は銘仙の褞袍の上へ兵古帯を巻きつけたまま日射の可い自分の書斎に寝転んで新聞を読んでいたがお午時前になると退屈になり、書斎を出て縁辺をぶらぶら歩いていると 「兄様」と障子越しにお清が声をかけた。 「何です」 「おホホホホ『何です』だって。お午食は何にも有りませんよ」 「かしこ参りました」 「おホホホホ『かしこ参りました』だって真実に何にもないんですよ」 其処で真蔵はお清の居る部屋の障子を開けると、内ではお清がせっせと針仕事をしている。 「大変勉強だね」 「礼ちゃんの被布ですよ、良い柄でしょう」 真蔵はそれには応えず、其処辺を見廻わしていたが、 「も少し日射の好い部屋で縫ったら可さそうなものだな。そして火鉢もないじゃないか」 「未だ手が凍結るほどでもありませんよ。それにこの節は御倹約ということに決定たのですから」 「何の御倹約だろう」 「炭です」 「炭はなるほど高価なったに違ないが宅で急にそれを節約するほどのことはなかろう」 真蔵は衣食台所元のことなど一切関係しないから何も知らないのである。 「どうして兄様、十一月でさえ一月の炭の代がお米の代よりか余程上なんですもの。これから十二、一、二と先ず三月が炭の要る盛ですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が高価いて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」 「だって炭を倹約して風邪でも引ちゃ何もなりや仕ない」 「まさかそんなことは有りませんわ」 「しかし今日は好い案排に暖かいね。母上でも今日は大丈夫だろう」と両手を伸して大欠伸をして 「何時かしらん」 「最早直ぐ十二時でしょうよ。お午食にしましょうか」 「イヤ未だ腹が一向空かん。会社だと午食の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで覗きこんだ。女中部屋など従来入ったことも無かったのであるが、見ると高窓が二尺ばかり開け放しになってるので、何心なく其処から首をひょいと出すと、直ぐ眼下に隣のお源が居て、お源が我知らず見上た顔とぴたり出会った。お源はサと顔を真赤にして狼狽きった声を漸と出して 「お宅ではこういう上等の炭をお使いなさるんですもの、堪りませんわね」と佐倉の切炭を手に持ていたが、それを手玉に取りだした。窓の下は炭俵が口を開けたまま並べてある場処で、お源が木戸から井戸辺にゆくには是非この傍を通るのである。 真蔵も一寸狼狽いて答に窮したが 「炭のことは私共に解らんで……」と莞爾微笑てそのまま首を引込めて了った。 真蔵は直ぐ書斎に返ってお源の所為に就て考がえたが判断が容易に着ない。お源は炭を盗んでいるところであったとは先ず最初に来る判断だけれど、真蔵はそれをそのまま確信することが出来ないのである。実際ただ炭を見ていたのかも知れない、通りがかりだからツイ手に取って見ているところを不意に他人から瞰下されて理由もなく顔を赤らめたのかも知れない。まして自分が見たのだから狼狽えたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべく後の方に判断したいので、遂にそう心で決定てともかく何人にもこの事は言わんことにした。 しかし万一もし盗んでいたとすると放下って置いては後が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行ることは得為すまいと考えたから尚お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。 どちらにしてもお徳が言った通り、彼処へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。 午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論、真蔵も引出されて相槌を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場で大きな人形を強請って困らしたの、電車の中に泥酔者が居て衆人を苦しめたの、真蔵に向て細君が、所天は寒むがり坊だから大徳で上等飛切の舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと留度がない。そして聞く者よりか喋舌ている連中の方が余程面白そうであった。 先ずこのがやがやが一頻止むとお徳は急に何か思い出したように起て勝手口を出たが暫時して返って来て、妙に真面目な顔をして眼を円くして、 「まア驚いた!」と低い声で言って、人々の顔をきょろきょろ見廻わした。人々も何事が起ったかとお徳の顔を見る。 「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日屋外の炭をお出しになりや仕ませんね?」と訊いた。 「否、私は炭籠の炭ほか使ないよ」 「そうら解った、私は去日からどうも炭の無くなりかたが変だ、如何炭屋が巧計をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる筈がないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当ってる事があるから昨日お源さんの留守に障子の破目から内をちょいと覗いて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの破火鉢に佐倉が二片ちゃんと埋って灰が被けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早必定そうだと決定て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄をかけて此方で験めした上と考がえましたから今日行って試たので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。 「どんな係蹄をかけたの?」とお清が心配そうに訊いた。 「今日出る前に上に並んだ炭に一々符号を附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると符号を附けた佐倉が四個そっくり無くなっているので御座います。そして土竈は大きなのを二個上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」 「まアどうしたと云うのだろう」お清は呆れて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵は偖は愈々と思ったが今日見た事を打明けるだけは矢張見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。 「で御座いますから炭泥棒は何人だか最早解ってます。どう致しましょう」とお徳は人々がこの大事件を喫驚してごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、旦那を初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。暫時く誰も黙っていたが 「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々焦急たくなり、 「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから幾干でも取られます」 「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由を打明けないと決心てるから、仕様事なしにこう言った。 「充満で御座います」とお徳は一言で拒絶した。 「そうか」真蔵は黙って了う。 「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の戸棚の下を明けて当分ともかく彼処へ炭を入れることにしたら。そしてお徳の所有品は中の部屋の戸棚を整理けて入れたら」と細君が一案を出した。 「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。 「お徳には少し気の毒だけれど」と細君は附加した。 「否、私は『中の部屋』のお戸棚へ衣類を入れさして頂ければ尚お結構で御座ます」 「それじゃ先あそう決定るとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともないのに」と老母が漸と口を利たと思ったら物置の愚痴。真蔵は頭を掻いて笑った。 「否、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処を開けさすのは泥棒の入口を作えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口を作えたようなものだ」とお徳が思わず地声の高い調子で言ったので老母は急に 「静に、静に、そんな大きな声をして聴れたらどうします。私も彼処を開けさすのは厭じゃッたが開けて了った今急にどうもならん。今急に彼処を塞げば角が立て面白くない。植木屋さんも何時まであんな物置小屋みたような所にも居られんで移転なりどうなりするだろう。そしたら彼所を塞ぐことにして今は唯だ何にも言わんで知らん顔を仕てる、お徳も決してお源さんに炭の話など仕ちゃなりませんぞ。現に盗んだところを見たのではなし又高が少しばかしの炭を盗られたからってそれを荒立てて彼人者だちに怨恨れたら猶お損になりますぞ。真実に」と老母は老母だけの心配を諄々と説た。 「真実にそうよ。お徳はどうかすると譏謔を言い兼ないがお源さんにそんなことでもすると大変よ、反対に物言を附けられてどんな目に遇うかも知れんよ、私はあの亭主の磯が気味が悪くって成らんのよ。変妙来な男ねえ。あんな奴に限って向う不見に人に喰ってかかるよ」とお清も老母と同じ心配。老母も磯吉のことは口には出さなかったが心には無論それが有たのである。 「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は起上がりながら「然ども先ア関係わんが可い」 真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。 お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、平常も夕方には必然水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。 日が暮て一時間も経てから磯吉が水を汲みに来た。
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