一
余が札幌に滞在したのは五日間である、僅に五日間ではあるが余は此間に北海道を愛するの情を幾倍したのである。 我国本土の中でも中国の如き、人口稠密の地に成長して山をも野をも人間の力で平げ尽したる光景を見慣れたる余にありては、東北の原野すら既に我自然に帰依したるの情を動かしたるに、北海道を見るに及びて、如何で心躍らざらん、札幌は北海道の東京でありながら、満目の光景は殆ど余を魔し去つたのである。 札幌を出発して単身空知川の沿岸に向つたのは、九月二十五日の朝で、東京ならば猶ほ残暑の候でありながら、余が此時の衣装は冬着の洋服なりしを思はゞ、此地の秋既に老いて木枯しの冬の間近に迫つて居ることが知れるであらう。 目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談することである。然るに余は全く地理に暗いのである。且つ道庁の官吏は果して沿岸何れの辺に屯して居るか、札幌の知人何人も知らないのである、心細くも余は空知太を指して汽車に搭じた。 石狩の野は雲低く迷ひて車窓より眺むれば野にも山にも恐ろしき自然の力あふれ、此処に愛なく情なく、見るとして荒涼、寂寞、冷厳にして且つ壮大なる光景は恰も人間の無力と儚さとを冷笑ふが如くに見えた。 蒼白なる顔を外套の襟に埋めて車窓の一隅に黙然と坐して居る一青年を同室の人々は何と見たらう。人々の話柄は作物である、山林である、土地である、此無限の富源より如何にして黄金を握み出すべきかである、彼等の或者は罎詰の酒を傾けて高論し、或者は煙草をくゆらして談笑して居る。そして彼等多くは車中で初めて遇つたのである。そして一青年は彼等の仲間に加はらずたゞ一人其孤独を守つて、独り其空想に沈んで居るのである。彼は如何にして社会に住むべきかといふことは全然其思考の問題としたことがない、彼はたゞ何時も何時も如何にして此天地間に此生を托すべきかといふことをのみ思ひ悩んで居た。であるから彼には同車の人々を見ること殆ど他界の者を見るが如く、彼と人々との間には越ゆ可からざる深谷の横はることを感ぜざるを得なかつたので、今しも汽車が同じ列車に人々及び彼を乗せて石狩の野を突過してゆくことは、恰度彼の一生のそれと同じやうに思はれたのである。あゝ孤独よ! 彼は自ら求めて社会の外を歩みながらも、中心実に孤独の感に堪えなかつた。 若し夫れ天高く澄みて秋晴拭ふが如き日であつたならば余が鬱屈も大にくつろぎを得たらうけれど、雲は益々低く垂れ林は霧に包まれ何処を見ても、光一閃だもないので余は殆ど堪ゆべからざる憂愁に沈んだのである。 汽車の歌志内の炭山に分るゝ某停車場に着くや、車中の大半は其処で乗換へたので残るは余の外に二人あるのみ。原始時代そのまゝで幾千年人の足跡をとゞめざる大森林を穿つて列車は一直線に走るのである。灰色の霧の一団又一団、忽ち現はれ忽ち消え、或は命あるものの如く黙々として浮動して居る。 「何処までお出でゝすか。」と突然一人の男が余に声をかけた。年輩四十幾干、骨格の逞しい、頭髪の長生た、四角な顔、鋭い眼、大なる鼻、一見一癖あるべき人物で、其風俗は官吏に非ず職人にあらず、百姓にあらず、商人にあらず、実に北海道にして始めて見るべき種類の者らしい、則ち何れの未開地にも必ず先づ最も跋扈する山師らしい。 「空知太まで行く積りです。」 「道庁の御用で?」彼は余を北海道庁の小役人と見たのである。 「イヤ僕は土地を撰定に出掛けるのです。」 「ハハア。空知太は何処等を御撰定か知らんが、最早目星ところは無いやうですよ。」 「如何でしやう空知太から空知川の沿岸に出られるでしやうか。」 「それは出られましやうとも、然し空知川の沿岸の何処等ですか其が判然しないと……」 「和歌山県の移民団体が居る処で、道庁の官吏が二人出張して居る、其処へ行くのですがね、兎も角も空知太まで行つて聞いて見る積りで居るのです。」 「さうですか、それでは空知太にお出になつたら三浦屋といふ旅人宿へ上つて御覧なさい、其処の主人がさういふことに明う御座いますから聞て御覧なつたら可うがす、どうも未だ道路が開けないので一寸其処までの処でも大変大廻りを為なければならんやうなことが有つて慣れないものには困ることが多うがすテ。」 それより彼は開墾の困難なことや、土地に由つて困難の非常に相違することや、交通不便の為めに折角の収穫も容易に市場に持出すことが出来ぬことや、小作人を使ふ方法などに就いて色々と話し出した、其等の事は余も札幌の諸友から聞いては居たが、彼の語るがまゝに受けて唯だ其好意を謝するのみであつた。 間もなく汽車は蕭条たる一駅に着いて運転を止めたので余も下りると此列車より出た客は総体で二十人位に過ぎざるを見た、汽車は此処より引返すのである。 たゞ見る此一小駅は森林に囲まれて居る一の孤島である。停車場に附属する処の二三の家屋の外人間に縁ある者は何も無い。長く響いた気笛が森林に反響して脈々として遠く消え去せた時、寂然として言ふ可からざる静さに此孤島は還つた。 三輛の乗合馬車が待つて居る。人々は黙々としてこれに乗り移つた。余も先の同車の男と共に其一に乗つた。 北海道馬の驢馬に等しきが二頭、逞ましき若者が一人、六人の客を乗せて何処へともなく走り初めた、余は「何処へともなく」といふの心持が為たのである。実に我が行先は何処で、自から問ふて自から答へることが出来なかつたのである。 三輛の馬車は相隔つる一町ばかり、余の馬車は殿に居たので前に進む馬車の一高一低、凸凹多き道を走つて行く様が能く見える。霧は林を掠めて飛び、道を横つて又た林に入り、真紅に染つた木の葉は枝を離れて二片三片馬車を追ふて舞ふ。御者は一鞭強く加へて 「最早降るぞ!」と叫けんだ。 「三浦屋の前で止めてお呉れ!」と先の男は叫けんで余を顧みた。余は目礼して其好意を謝した。車中何人も一語を発しないで、皆な屈托な顔をして物思に沈んで居る。御者は今一度強く鞭を加へて喇叭を吹き立たので躯は小なれども強力なる北海の健児は大駈に駈けだした。 林がやゝ開けて殖民の小屋が一軒二軒と現れて来たかと思ふと、突然平野に出た。幅広き道路の両側に商家らしきが飛び/\に並んで居る様は新開地の市街たるを欺かない。馬車は喇叭の音勇ましく此間を駈けた。
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