一
今より四年前のことである、(とある男が話しだした)自分は何かの用事で銀座を歩いていると、ある四辻の隅に一人の男が尺八を吹いているのを見た。七八人の人がその前に立っているので、自分もふと足を止めて聴く人の仲間に加わった。 ころは春五月の末で、日は西に傾いて西側の家並みの影が東側の家の礎から二三尺も上に這い上っていた。それで尺八を吹く男の腰から上は鮮やかな夕陽に照されていたのである。 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目には彼が半身に浴びている春の夕陽までがいかにも静かに、穏やかに見えて、彼の尺八の音の達く限り、そこに悠々たる一寰区が作られているように思われたのである。 自分は彼が吹き出づる一高一低、絶えんとして絶えざる哀調を聴きながらも、つらつら彼の姿を看た。 彼は盲人である。年ごろは三十二三でもあろうか、日に焼けて黒いのと、垢に埋もれて汚ないのとで年もしかとは判じかねるほどであった。ただ汚ないばかりでなく、見るからして彼ははなはだやつれていた、思うに昼は街の塵に吹き立てられ、夜は木賃宿の隅に垢じみた夜具を被るのであろう。容貌は長い方で、鼻も高く眉毛も濃く、額は櫛を加えたこともない蓬々とした髪で半ばおおわれているが、見たところほどよく発達し、よく下品な人に見るような骨張ったむげに凸起した額ではない。 音の力は恐ろしいもので、どんな下等な男女が弾吹しても、聴く方から思うと、なんとなく弾吹者その人までをゆかしく感ずるものである。ことにこの盲人はそのむさくるしい姿に反映してどことなく人品の高いところがあるので、なおさら自分の心を動かした、恐らく聴いている他の人々も同感であったろうと思う。その吹き出づる哀楽の曲は彼が運命拙なき身の上の旧歓今悲を語るがごとくに人々は感じたであろう。聴き捨てにする人は少なく、一銭二銭を彼の手に握らして立ち去るが多かった。
二
同じ年の夏である。自分は家族を連れて鎌倉に暑さを避け、山に近き一小屋を借りて住んでいた。ある夜のこと、月影ことに冴えていたので独り散歩して浜に出た。 浜は昼間の賑わいに引きかえて、月の景色の妙なるにもかかわらず人出少し。自分は小川の海に注ぐ汀に立って波に砕くる白銀の光を眺めていると、どこからともなく尺八の音が微かに聞えたので、あたりを見廻わすと、笛の音は西の方、ほど近いところ、漁船の多く曳き上げてあるあたりから起るのである。 近づいて見ると、はたして一艘の小舟の水際より四五間も曳き上げてあるをその周囲を取り巻いて、ある者は舷に腰かけ、ある者は砂上にうずくまり、ある者は立ちなど、十人あまりの男女が集まっている、そのうちに一人の男が舷に倚って尺八を吹いているのである。 自分は、人々の群よりは、離れて聴いていた。月影はこんもりとこの一群を映している、人々は一語を発しないで耳を傾けていた。今しも一曲が終わったらしい、聴者の三四人は立ち去った。余の人々は次の曲を待っているけれど吹く男は尺八を膝に突き首を垂れたまま身動きもしないのである。かくしてまた四五分も経った。他の三四人がまた立ち去った。自分は小船に近づいた。 見ると残っている聴者の三人は浜の童の一人、村の若者の二人のみ、自分は舷に近く笛吹く男の前に立った。男は頭を上げた。思いきや彼はこの春、銀座街頭に見たるその盲人ならんとは。されど盲人なる彼れの盲目ならずとも自分を見知るべくもあらず、しばらく自分の方を向いていたが、やがてまた吹き初めた。指端を弄して低き音の縷のごときを引くことしばし、突然中止して船端より下りた。自分はいきなり、 「あんまさん、私の宅に来て、少し聞かしてくれんか」 「ヘイ、ヘイー」と彼は驚いたように言って急に自分の顔を見て、そしてまた頭を垂れ首を傾け「ヘイ、どちら様へでも参ります」 「ウン、それじゃ来ておくれ」と自分は先に立った。 「お前の眼は全く見えないのかね」と四五歩にして振り返りさま自分は問うた。 「イイエ、右の方は少し見えるのでございます」 「少しでも見えれば結構だね」 「ヘエ、ヘヘヘヘヘ」と彼は軽く笑ったが「イヤなまじすこしばかり見えるのもよくございません、欲が出ましてな」 「オイ橋だぞ」と溝にかけし小橋に注意して「けれども全く見えなくちゃアこんなところまで来て稼ぐわけにゆかんではないか」 「稼ぐのならようございますが流がすので……」 「お前どこだイ、生まれは」 「生まれは西でございます、ヘイ」 「私はお前をこの春、銀座で見たことがある、どういうものかその時から時々お前のことを思いだすのだ、だから今もお前の顔を一目見てすぐ知った」 「ヘイそうでございますか、イヤもう行き当りばったりで足の向き次第、国々を流して歩るくのでございますからどこでどなた様に逢いますことやら……」 途で二三の年若い男女に出遇った。軽雲一片月をかざしたのであたりはおぼろになった。手風琴の軽い調子が高い窓から響く。間もなく自分の宅に着いた。
三
縁辺に席を与えて、まず麦湯一杯、それから一曲を所望した。自分は尺八のことにはまるで素人であるから、彼が吹くその曲の善し悪し、彼の技の巧拙はわからないけれども、心をこめて吹くその音色の脈々としてわれに迫る時、われ知らず凄動したのである。泣かんか、泣くにはあまりに悲哀深し、吹く彼れはそもそもなんの感ずることなきか。 曲終れば、音を売るものの常として必ず笑み、必ず謙遜の言葉の二三を吐くなるに反して、彼は黙然として控え、今しもわが吹き終った音の虚空に消えゆく、消えゆきし、そのあとを逐うかと思わるるばかりであった。 自分は彼の言葉つき、その態度により、初めよりその身の上に潜める物語りのあるべきを想像していたから、遠慮なく切りだした。 「尺八は本式に稽古したのだろうか、失敬なことを聞くが」 「イイエそうではないのでございます、全く自己流で、ただ子供の時から好きで吹き慣らしたというばかりで、人様にお聞かせ申すものではないのでございます、ヘイ」 「イヤそうでない、全くうまいものだ、これほど技があるなら人の門を流して歩かないでも弟子でも取った方が楽だろうと思う、お前独身者かね?」 「ヘイ、親もなければ妻子もない、気楽な孤独者でございます、ヘッヘヘヘヘヘ」 「イヤ気楽でもあるまい、日に焼け雨に打たれ、住むところも定まらず国々を流れゆくなぞはあまり気楽でもなかろうじゃアないか。けれどもいずれ何か理由のあることだろうと思う、身の上話を一ツ聞かしてもらいたいものだ」と思いきって正面から問いかけた。人の不幸や、零落につけこんで、その秘密まで聞こうとするのは、決して心あるもののすることでないとは承知しながらも、彼に二度まで遇い、その遇うた場所と趣とが少からず自分を動かしたために、それらを顧慮することができなかったのである。 「ヘイ、お話ししてもよろしゅうございます。今日はどういうものかしきりと子供の時のことを想いだして、さきほども別荘の坊ちゃまたちがお庭の中で声を揃えて唱歌を歌っておいでになるのを聞いた時なんだか泣きたくなりました。 私の九つ十のころでございます、よく母に連れられて城下から三里奥の山里に住んでいる叔母の家を訪ねて、二晩三晩泊ったものでございます。今日もちょうどそのころのことを久しぶりで思い出しました。今思うと、私が十七八の時分ひとが尺八を吹くのを聞いて、心をむしられるような気がしましたが、今私が九つや十の子供の時を想い出して堪らなくなるのとちょうど同じ心持でございます。 父には五つの歳に別れまして、母と祖母との手で育てられ、一反ばかりの広い屋敷に、山茶花もあり百日紅もあり、黄金色の茘枝の実が袖垣に下っていたのは今も眼の先にちらつきます。家と屋敷ばかり広うても貧乏士族で実は喰うにも困る中を母が手内職で、子供心にはなんの苦労もなく日を送っていたのでございます。 母も心細いので山家の里に時々帰えるのが何よりの楽しみ、朝早く起きて、淋しい士族屋敷の杉垣ばかり並んだ中をとぼとぼと歩るきだす時の心持はなんとも言えませんでした。山路三里は子供には少し難儀で初めのうちこそ母よりも先に勇ましく飛んだり跳ねたり、田溝の鮒に石を投げたりして参りますが峠にかかる半ほどでへこたれてしまいました。それを母が励まして絶頂の茶屋に休んで峠餅とか言いまして茶屋の婆が一人ぎめの名物を喰わしてもらうのを楽しみに、また一呼吸の勇気を出しました。峠を越して半ほどまで来ると、すぐ下に叔母の村里が見えます、春さきは狭い谷々に霞がたなびいて画のようでございました、村里が見えるともう到いた気でそこの路傍の石で一休みしまして、母は煙草を吸い、私は山の崖から落ちる清水を飲みました。 叔母の家は古い郷士で、そのころは大分家産が傾いていたそうですが、それでも私の目には大変金持のように見えたのでございます。太い大黒柱や、薄暗い米倉や、葛の這い上った練塀や、深い井戸が私には皆なありがたかったので、下男下女が私のことを城下の旦坊様と言ってくれるのがうれしかったのでございます。 けれども何より嬉しくって今思いだしても堪りませんのは同じ年ごろの従兄弟と二人で遊ぶことでした。二人はよく山の峡間の渓川に山を釣りに行ったものでございます。山岸の一方が淵になって蒼々と湛え、こちらは浅く瀬になっていますから、私どもはその瀬に立って糸を淵に投げ込んで釣るのでございます。見上げると両側の山は切り削いだように突っ立って、それに雑木や赭松が暗く茂っていますから、下から瞻ると空は帯のようなのです。声を立てると山に響いて山が唸ります、黙って釣っていると森としています。 ある日ふたりは余念なく釣っていますと、いつの間にか空が変って、さっと雨が降って来ました。ところがその日はことによく釣れるので二人とも帰ろうと言わないのです。太い雨が竿に中る、水面は水煙を立てて雨が跳ねる、見あげると雨の足が山の絶頂から白い糸のように長く条白を立てて落ちるのです。衣服はびしょぬれになる、これは大変だと思う矢先に、グイグイと強く糸を引く、上げると尺にも近い山の紫と紅の条のあるのが釣れるのでございます、暴れるやつをグイと握って籠に押し込む時は、水に住む魚までがこの雨に濡れて他の時よりも一倍鮮やかで新しいように思われました。 『もう帰えろうか』と一人が言って此方をちょっと向きますが、すぐまた水面を見ます。 『帰ろうか』と一人が答えますが、これは見向きもしません、実際何を自分で言ったのかまるで夢中なのでございます。 そのうちに雷がすぐ頭の上で鳴りだして、それが山に響いて山が破裂するかと思うような凄い音がして来たので、二人は物をも言わず糸を巻いて、籠を提げるが早いかドンドン逃げだしました。途中まで来ると下男が迎えに来るのに逢いましたが、家に帰ると叔母と母とに叱られて、籠を井戸ばたに投げ出したまま、衣服を着更えすぐ物置のような二階の一室に入り小さくなって、源平盛衰記の古本を出して画を見たものです。 けれども母と叔母はさしむかいでいても決して笑い転げるようなことはありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顔の、色つやの悪い女でしたが、何か優しい低い声でひそひそ話し合っていました。一度は母が泣き顔をしている傍で叔母が涙ぐんでいるのを見ましたが私は別に気にも留めず、ただちょっとこわいような気がしてすぐと茶の間を飛び出したことがありました。 私は七日も十日も泊っていたいのでございますが、長くて四日も経ちますと母が帰ろうと言いますので仕方なしに帰るのでございます。一度は一人残っていると強情を張りましたので、母だけ先に帰りましたが、私は日の暮れかかりに縁先に立っていますと、叔母の家は山に拠って高く築きあげてありますから山里の暮れゆくのが見下されるのです。西の空は夕日の余光が水のように冴えて、山々は薄墨の色にぼけ、蒼い煙が谷や森の裾に浮いています、なんだかうら悲しくなりました。寺の鐘までがいつもとは違うように聞え、その長く曳く音が谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が恋しくなって、なぜ一しょに帰らなかったろう、今時分は家に着いて祖母さんと何か話してござるだろうなど思いますと堪らなくなって叔母にこれからすぐ帰えると云いだしました。叔母は笑って取り合ってくれません、そのうちに燈火が点く、従兄弟と挾み将棊をやるなどするうちにいつか紛れてしまいましたが、次の日は下男に送られすぐ家に帰りました。 また母と一しょに帰る時など、二人とも出かける時ほどの元気はありませんで、峠を越す時、母は幾度となく休みます。思い出しますのはその時の母の顔でございます。石に腰をおろしてほっと呼吸を吐いて言うに言われん悲しげな顔つきをします、その顔つきを見ますと私までが子供心にも悲しいような気がしまして黙ってつくねんと母の傍に腰をかけているのでございます。そうすると母が、『お前腹がすきはせんか、腹がすいたら餅をお喰べ、出して上げようか』と言って合財嚢の口を開きかけます。私が、『腹はすかない』と言えば、『そんなことを言わないで一つお喰べ、おっかさんも喰べるから』と言って無理に餅をくれます。そうされますと、私はなぜかなお悲しくなって、母の膝にしがみついて泣きたいほどに感じました。 私は今でも母が恋しくって恋しくって堪らんのでございます」 盲人は懐旧の念に堪えずや、急に言葉を止めて頭を垂れていたが、しばらくして(聴者の誰人なるかはすでに忘れはてたかのごとく熱心に) 「けれどもこれはあたりまえでございます、母はまるで私のために生きていましたので、一人の私をただむやみと可愛がりました。めったに叱ったこともありません、たまさか叱りましてもすぐに母の方から謝まるように私の気嫌を取りました。それで私は我儘な剛情者に育ちましたかと言うにそうではないので、腕白者のすることだけは一通りやりながら気が弱くて女のようなところがあったのでございます。 これが昔気質の祖母の気に入りません、ややともすると母に向いまして、 『お前があんまり優しくするから修蔵までが気の弱い児になってしまう。お前からしても少ししっかりして男は男らしく育てんといけませんぞ』とかく言ったものです。 けれども母の性質としてどうしても男は男らしくというような烈しい育て方はできないのです。ただむやみと私が可愛いので、先から先と私の行く末を考えては、それを幸福の方には取らないで、不幸せなことばかりを想い、ひとしお私がふびんで堪らないのでございました。 ある時、母は私の行く末を心配するあまりに、善教寺という寺の傍に店を出していた怪しい売卜者のところへ私を連れて参りました。 売卜者の顔はよく憶えております、丸顔の眼の深く落ちこんだ小さな老人で、顔つきは薄気味悪うございましたが母と話をするその言葉つきは大変に優しくって丁寧で、『アアさようかな、それは心配なことで、ごもっともごもっとも、よく私が卜て進ぜます』という調子でございました。 老人は私の顔を天眼鏡で覗いて見たり、筮竹をがちゃがちゃいわして見たり、まるで人相見と八卦見と一しょにやっていましたが、やがてのことに、 『イヤ御心配なさるな、この児さんは末はきっと出世なさるる、よほどよい人相だ。けれど一つの難がある、それは女難だ、一生涯女に気をつけてゆけばきっと立派なものになる』と私の頭を撫でまして、『むむ、いい児だ』としげしげ私の顔を見ました。 母は大喜びに喜こびまして、家に帰えるやすぐと祖母にこのことを吹聴しましたところが祖母は笑いながら、 『男は剣難の方がまだ男らしいじゃないか、この児は色が白うて弱々しいからそれで卜者から女難があると言われたのじゃ、けれども今から女難もあるまい、早くて十七八、遅くとも二十ごろから気をつけるがよい』と申しました。 ところが私にはその時(十二でした)もう女難があったのでございます。 ここまでお話ししたのでございますから、これから私の女難の二つ三つを懺悔いたしましょう。売卜者はうまく私の行く末を卜い当てたのでございます。 そのころ、私の家から三丁ばかり離れて飯塚という家がございましたがそこの娘におさよと申しまして十五ばかりの背のすらりとして可愛らしい児がいました。 その児が途で私を見るときっとうちに遊びに来いと言うのです。私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還さないで膝の上に抱き上げたり、頸にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬を無理に私の顔に押しつけたり、いろいろな真似をするのでございます。 そうすると私もそれが嬉れしいような気がして、その後はたびたび遊びに出かけて、おさよの顔を見ないと物足りないようになりました。 そのうち、売卜者から女難のことを言われ、母からは女難ということの講釈を聞かされましたので、子供心にも、もしか今のが女難ではあるまいかと、ひどくこわくなりましたが、母の前では顔にも出さず、ないない心を痛めていながらも時々おさよのもとに遊びに参りましたのでございます。
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