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源おじ(げんおじ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-26 8:55:02 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

     上

 みやこより一人の年若き教師下りきたりて佐伯さいきの子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。夏の初め、彼は城下に住むことをいといて、半里へだてし、かつらと呼ぶ港の岸に移りつ、ここより校舎に通いたり。かくて海辺かいへんにとどまること一月ひとつき、一月の間に言葉かわすほどの人りしは片手にて数うるにも足らず。そのおもなる一人は宿の主人あるじなり。あるゆうべ、雨降り風ちていそ打つ波音もやや荒きに、ひとりを好みて言葉すくなき教師もさすがにものさびしく、二階なる一室ひとまを下りて主人夫婦が足投げだしてすずみいし縁先に来たりぬ。夫婦はともしびつけんともせず薄暗き中に団扇うちわもてやりつつかたれり、教師を見て、珍らしやとゆずりつ。夕闇ゆうやみの風、ろく雨を吹けば一滴二滴、おもてを払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。
 そののち教師都に帰りてより幾年いくとせの月日ち、ある冬の夜、けて一時を過ぎしにひとり小机に向かい手紙したためぬ。そは故郷ふるさとなる旧友のもとへと書き送るなり。そのもの案じがおなるあおき色、この夜はほおのあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまなざし、霧に包まれしある物をさだかにんと願うがごとし。
 霧のうちには一人のおきな立ちたり。
 教師は筆おきて読みかえしぬ。読みかえして目をじたり。まなこ、外に閉じ内に開けば現われしはまた翁なり。手紙のうちにいわく「宿の主人は事もなげにこの翁が上を語りぬ。げに珍しからぬ人の身の上のみ、かかる翁を求めんには山のかげ、水のほとり、国々にはさわなるべし。されどわれいかでこの翁を忘れえんや。余にはこの翁ただ何者をか秘めいてたれ一人開くことかなわぬ箱のごとき思いす。こはがいつもの怪しきこころ作用はたらきなるべきか。さもあらばあれ、われこの翁をおもう時は遠き笛のききて故郷ふるさと恋うる旅人のこころ、動きつ、またはそう高き詩の一節読みわりて限りなき大空をあおぐがごとき心地す」と。
 されど教師は翁が上をくわしく知れるにあらず。宿の主人あるじより聞きえしはそのあらましのみ。主人は何ゆえにこの翁の事をかくも聞きたださるるか、教師がこころしかねたれど問わるるままに語れり。
「この港は佐伯町さいきまちにふさわしかるべし。見たまうごとく家という家いくばくありや、人数ひとかずは二十にも足らざるべく、さみしさはいつも今宵こよいのごとし。されど源叔父げんおじが家一軒ただこの磯に立ちしその以前かみの寂しさを想いたまえ。彼が家の横なる松、今は幅広き道路みちのかたわらに立ちて夏は涼しき蔭を旅人に借せど十余年の昔は沖より波寄せておりおりその根方ねかたを洗いぬ。城下より来たりて源叔父の舟頼まんものは海に突出つきいでいわに腰を掛けしことしばしばなり、今は火薬の力もてあやうき崖も裂かれたれど。
いな、彼とてもいかで初めよりひとり暮さんや。
「妻は美しかりし。名を百合ゆりと呼び、大入島おおにゅうじまの生まれなり。人の噂をなかば偽りとみるも、この事のみはまことなりと源叔父がある夜酒に呑まれて語りしを聞けば、彼の年二十八九のころ、春のけて妙見みょうけんともしびも消えし時、ほとほとと戸たたく者あり。源起きいで誰れぞと問うに、島まで渡したまえというは女の声なり。かたぶきし月の光にすかし見ればかねて見知りし大入島の百合ゆりという小娘にぞありける。
「そのころ渡船おろしぎょうとなすもの多きうちにも、源が名は浦々うらうらにまで聞こえし。そは心たしかに侠気おとこぎある若者なりしがゆえのみならず、べつに深きゆえあり、げに君にも聞かしたきはそのころの源が声にぞありける。人々は彼がこぎつつ歌うを聴かんとてえらびて彼が舟に乗りたり。されど言葉すくなきは今も昔も変わらず。
「島の小女おとめは心ありてかくおそくも源が舟頼みしか、そは高きより見下ろしたまいし妙見様ならでは知る者なき秘密なるべし。舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただひたいに深き二条ふたすじしわ寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。
「源が歌う声えまさりつ。かくて若き夫婦のたのしき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子ひとりご幸助こうすけ七歳ななつの時、妻ゆりは二度目の産重くしてついにみまかりぬ。城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人あきうどに仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛かあいき妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うこともまれに、こぐにも酒の勢いならでは歌わず、醍醐だいごの入江を夕月の光くだきつつほがらかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず、妻失いしことは元気よかりし彼が心をなかば砕き去りたり。雨のそぼ降る日など、さみしき家に幸助一人をのこしおくは不憫ふびんなりとて、客とともに舟に乗せゆけば、人々哀れがりぬ。されば小供こどもへの土産みやげにと城下にて買いし菓子の袋開きてこの孤児みなしごに分つ母親もすくなからざりし。父は見知らぬ風にて礼もいわぬが常なり、これも悲しさのあまりなるべしと心にとむる者なし。
「かくて二年ふたとせ過ぎぬ。この港の工事なかばなりしころわれら夫婦、島よりここに移りてこの家を建て今の業をはじめぬ。山のけずりて道路みち開かれ、源叔父が家の前には今の車道くるまみちでき、朝夕二度に汽船の笛鳴りつ、昔は網だに干さぬ荒磯あらいそはたちまち今のさまと変わりぬ。されど源叔父が渡船おろしの業は昔のままなり。浦人うらびと島人しまびと乗せて城下に往来ゆききすること、前に変わらず、港開けて車道でき人通りしげくなりて昔に比ぶればここも浮世の仲間入りせしを彼はうれしともはた悲しとも思わぬ様なりし。
「かくてまた三年みとせ過ぎぬ。幸助十二歳の時、子供らと海に遊び、誤りておぼれしを、見てありし子供ら、おそれ逃げてこの事を人に告げざりき。夕暮になりて幸助の帰りこぬに心づき、驚きて吾らもともに捜せし時はいうまでもなく事遅れて、哀れのかばねは不思議にも源叔父が舟底に沈みいたり。
「彼はもはやけっしてうたわざりき、親しき人々にすら言葉かわすことを避くるようになりぬ。ものいわず、歌わず、笑わずして年月を送るうちにはいかなる人も世より忘れらるるものとみえたり。源叔父の舟こぐことは昔に変わらねど、浦人らは源叔父の舟に乗りながら源叔父の世にあることを忘れしようになりぬ。かく語る我身すらおりおり源叔父がかの丸き眼をなかば閉じにないて帰りくるを見る時、源叔父はまだ生きてあるよなど思うことあり。彼はいかなる人ぞと問いたまいしは君が初めなり。
「さなり、呼びて酒ませなばついには歌いもすべし。されどその歌の意しがたし。いな、彼はつぶやかず、繰言くりごとならべず、ただおりおり太き嘆息ためいきするのみ。あわれとおぼさずや――」
 宿の主人あるじが教師に語りしはこれに過ぎざりし。教師は都に帰りて後も源叔父げんおじがこと忘れず。燈下に坐りて雨の音きくなど、思いはしばしばこのあわれなるおきなが上に飛びぬ。思えらく、源叔父今はいかん、波の音ききつつ古き春の夜のこと思いて独りのかたわらに丸き目ふさぎてやあらん、あるいは幸助がことのみ思いつづけてやおらんと。されど教師は知らざりき、かく想いやりし幾年いくとせの後の冬の夜は翁の墓にみぞれりつつありしを。
 年若き教師の、詩読む心にて記憶のページひるがえしつつある間に、翁が上にはさらに悲しきこと起こりつ、すでにこの世の人ならざりしなり。かくて教師の詩はその最後の一せつきたり。

     中

 佐伯さいきの子弟が語学の師を桂港かつらみなとの波止場に送りし年も暮れて翌年一月の末、ある日源叔父は所用ありて昼前より城下に出でたり。
 大空曇りて雪降らんとす。雪はこの地にまれなり、その日の寒さして知らる。山村水廓さんそんすいかくたみ、河より海より小舟かべて城下に用を便ずるが佐伯近在の習慣ならいなれば番匠川ばんじょうがわ河岸かしにはいつも渡船おろしつどいて乗るもの下りるもの、浦人は歌い山人はののしり、いと賑々にぎにぎしけれど今日は淋びしく、河面かわづらにはさざなみたち灰色の雲の影落ちたり。大通おおどおりいずれもさび、軒端のきば暗く、往来ゆきき絶え、石多き横町よこまちの道はこおれり。城山のふもとにてく鐘雲に響きて、屋根瓦のこけ白きこの町のはてよりはてへともの哀しげなる音の漂う様はうお住まぬ湖水みずうみ真中ただなかに石一個投げ入れたるごとし。
 祭の日などには舞台据えらるべき広辻ひろつじあり、貧しき家の児ら血色ちいろなき顔をさらしてたわむれす、懐手ふところでして立てるもあり。ここに来かかりし乞食こじきあり。小供の一人、「紀州きしゅう紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、よもぎなす頭髪はくびおおい、顔の長きが上に頬肉こけたればおとがいの骨とがれり。まなこの光にごひとみ動くこと遅くいずこともなくみつむるまなざし鈍し。まといしはあわせ一枚、裾は短かく襤褸ぼろ下がり濡れしままわずかにすねを隠せり。わきよりは蟋蟀きりぎりすの足めきたるひじ現われつ、わなわなと戦慄ふるいつつゆけり。この時またかなたより来かかりしは源叔父なり。二人は辻の真中にて出遇であいぬ。源叔父はその丸き※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりて乞食を見たり。
「紀州」と呼びかけし翁の声は低けれどもふとし。
 若き乞食はその鈍き目を顔とともにあげて、石なんどを見るように源叔父がまなこを見たり。二人はしばし目と目見あわして立ちぬ。

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