明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。 この倶楽部が未だ繁盛していた頃のことである、或年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火が点いていて、時々高く笑う声が外面に漏れていた。元来この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常も昼間ばかり立ちのぼっているのである。 然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。 すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。 内から戸が開くと、 「竹内君は来てお出ですかね」と低い声の沈重いた調子で訊ねた。 「ハア、お出で御座います、貴様は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。 「これを」と出した名刺には五号活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上って去ったが間もなく降りて来て 「どうぞ此方へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉を熾に燃いていたので、ムッとする程温かい。煖炉の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。傍の卓子にウイスキーの壜が上ていてこっぷの飲み干したるもあり、注いだままのもあり、人々は可い加減に酒が廻わっていたのである。 岡本の姿を見るや竹内は起って、元気よく 「まアこれへ掛け給え」と一の椅子をすすめた。 岡本は容易に坐に就かない。見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと気がつき、 「ウン貴様は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧い朋友で岡本君……」 と未だ言い了らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で 「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」 岡本は唯だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。そして椅子に倚った。 「サアその先を……」と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生している紳士が言った。 「そうだ! 上村君、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪の薄い、痩方の紳士が促した。 「イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞にかんだような笑方をした。 「何ですか?」 岡本は竹内に問うた。 「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴いて居給え名論卓説、滾々として尽きずだから」 「ナニ最早大概吐き尽したんですよ、貴様は我々俗物党と違がって真物なんだから、幸貴様のを聞きましょう、ね諸君!」 と上村は逃げかけた。 「いけないいけない、先ず君の説を終え給え!」 「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。 「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」 「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。 「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」 「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸るように言った。 「だってねエ、理想は喰べられませんものを!」と言った上村の顔は兎のようであった。 「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。 「否ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」 「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。 「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯だした。 「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起になって、 「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可い?」 「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。 「然しビフテキに馬鈴薯は附属物だよ」と頬髭の紳士が得意らしく言った。 「そうですとも! 理想は則ち実際の附属物なんだ! 馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」 と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。 「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。 「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこう見えても同志社の旧い卒業生なんで、矢張その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」 「君が?」とさも不審そうな顔色で井山がしょぼしょぼ眼を見張った。 「何も不思議は無いサ、その頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚れていたもんで、清教徒を以て任じていたのだから堪らない!」 「大変な清教徒だ!」と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸と腮で止めて、ウイスキーを嘗めながら 「断然この汚れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本は凝然と上村の顔を見た。 「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此ふうな想像を描いていたもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆を撒く、……」 「その百姓が見たかったねエハッハッハッハッハッハッ」と竹内は笑いだした。 「イヤ実地行ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処へ行くから……、その内にだんだんと田園が出来て来る、重に馬鈴薯を作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」 「ソラ馬鈴薯が出た!」と松木は又た口を入れた。 「其処で田園の中央に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風に出来ている、新英洲殖民地時代そのままという風に出来ている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個附けたものかと僕は非常に気を揉んだことがあったッけ……」 「そして真個にその家が出来たのかね」と井山は又しょぼしょぼ眼を見張った。 「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王寺へ散歩に往って帰る時だった!」 「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。 「それから北の方へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵞鳥がその紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。この川に三寸厚サの一枚板で橋が懸かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことに定めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」 「ちょッとお話の途中ですが、貴様はその『冬』という音にかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊ねた。 上村は驚ろいた顔色をして 「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全く堪りませんでしたよ、何だかその冬則ち自由というような気がしましてねエ! それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱が下っていないと嘘のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴ても『冬になると……』とこういわれると、身体がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然家を埋めて了う、そして夜は窓硝子から赤い火影がチラチラと洩れる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢から雪がばたばたと墜ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛がモーッと唸る!」 「君は詩人だ!」と叫けんで床を靴で蹶たものがある。これは近藤といって岡本がこの部屋に入って来て後も一言を発しないで、唯だウイスキーと首引をしていた背の高い、一癖あるべき顔構をした男である。 「ねエ岡本君!」と言い足した。岡本はただ、黙言て首肯いたばかりであった。 「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々霞み入合の』ていうグレーのチャルチャードの飜訳を愛読して自分で作ってみたものだアね、今日の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」 「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地になって言った。 「ナーニ僕だって二ツ三ツ作たものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。 「綿貫君、君はどうだね?」と竹内が訊ねた。 「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気のない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、どうだろう僕は余程俗骨が発達してるとみえる!」と綿貫は頭を撫てみた。 「イヤ僕こそ甚だお恥しい話だがこれで矢張り作たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」 「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴飯して了った。 「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」と綿貫が叫んだ。 「そうか、諸君も作たのか、驚ろいた、その昔は皆な馬鈴薯党なんだね」と上村は大に面目を施こしたという顔色。 「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村を促がした。 「そうだ、先をやり給え!」と近藤は殆ど命令するように言った。 「宜しい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭いたよ真実に!」 「一寸と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。 「唯だ東京の奴等を言ったのサ、名利に汲々としているその醜態は何だ! 馬鹿野郎! 乃公を見ろ! という心持サ」と上村もまた真面目で註解を加えた。 「それから道行は抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂る額に汗するのはこれからだというんで直に着手したねエ。尤も僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原信太郎のことサ……」 「ウン梶原君が!? あれが矢張馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。 「そうサ、今じゃア鬼のような顔をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較すると初から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時大に反対した、君止すなら止せ、僕は一人でもやると力味んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞を吐いて直ぐ去って了った。取残された僕は力味んではみたものの内内心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。豪いだろう!」 「馬鹿なんサ!」と近藤が叱るように言った。 「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」 「矢張馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食うなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」 「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有いことには僕に馬鈴薯の品質が無かったのだ。其処で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次近づいて来た、その露払が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森とした林の上をパラパラと時雨て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処は木の皮を壁に代用した掘立小屋」 「それは貴様覚悟の前だったでしょう!」と岡本が口を入れた。 「其処ですよ、理想よりか実際の可いほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩せますもの」 上村は言って杯で一寸と口を湿して 「僕は痩せようとは思っていなかった!」 「ハッハッハッハッハッハッ」と一同笑いだした。 「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死でいたね」 「其処でどういうんです、貴様の目下のお説は?」と岡本は嘲るような、真面目な風で言った。 「だから馬鈴薯には懲々しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減たら牛肉を食う……」 「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴が馬鹿なんだ」と綿貫は大に敦圉いた。
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