1
すたれた場末の、たった一間しかない狭い家に、私と姉とは住んでいた。ほかに誰もいなかった。私は姉と二人きりで、何年か前に、青い穏やかな海峡を渡って、この街へ来たのであった。 そして姉が働いて私を育ててくれた。 姉は、断っておくが、ほんとうの私の姉ではない。姉の母は、私の従姉である。私の父は姪に姉を生ませた。しかも姉は生まれ落ちてみると唖娘であった。 だが、もう私達の父も、姉の母も、私の母もみんな死んでしまって、今はふるさとの海辺の丘に並んだ白い石であった。 唖娘の姉と二人で久しい間暮していて、私達と往来する人はこの街に一人もいなかったし、私は一日中つんぼのように、誰の声をも聞かなかった。 姉がどんなに私をいつくしんでくれたか! 姉は毎晩々々夜更けてから、血の気のない程に蒼ざめて帰って来、私にご飯を食べさせてくれた。 姉はまた、私を抱いて寝てくれもした。私は、魚のように冷めたい姉の手足が厭であったけれども、それでもすなおな私は、姉の愛情にほだされて、何時でも泪ぐんで、姉の体を温めてやった。 その中に姉は悪い病気に罹った。胸の悪くなるような匂が、姉の体から発散した。姉は、私にその病気が伝染するのを恐れて、もう一緒に寝るのは止してしまった。 私は淋しく一人で寝た。そして一人で寝ている中に、何時の間にか大きい大人になった。
2
到頭、或る日姉は私が本当の大人になってしまったことを覚った。 遊び友達のない私は、家の裏の木に登って、遠くの雲の中に聳え重なっている街を見ていた。すると姉は私の足をひっぱって、私を木から下ろしてしまった。 姉は私のはいている小さな半ズボンをたくし上げた。 姉はさて悲しい顔をして首を縦に振ってうなずいだ。 姉が首を縦に振ってうなずく場合には、我々普通の人間が首を横に振って、いやいや[#「いやいや」に傍点]を、するのと同じ意味なのであった。彼女の愚な父と母とは、ひょっと誤って、幼い彼女にそんなアベコベを教えてしまったのだ。不具者のもちまえで、彼女は頑に、親の教えた過ちを信じて改めなかった。 姉は幾度も私の脛を撫ぜて、幾度も首を縦に振った。 ――姉さん。どうしたの?」と私は訊ねた。 姉は長い間に、私と姉との仲だけに通じるようになった。精巧な手真似で答えた。 ――ワタクシ、オマエガ、キライダ!」 ――なぜです?」 ――オマエハ、モウ、ソレヨリ、オオキクナッテハ、イケマセンヨ。」 ――なぜです?」 ――ワクシハ、オマエト、イッショニ、クラスコトガ、デキナクナルモノ。」 ――なぜです?」 姉は私の硯箱を持って来た。私は眼に一丁字もない彼女が何をするのかと、訝(あやし)んだ。ところが姉は筆に墨をふくめて、いきなり私の顔へ、大きな眼鏡と髯とをかいた。それから私を鏡の前へつれて行った。 ――立派な紳士ですね。」と私は鏡の中を見て云った。―― ――ゴラン!ソノ、イヤラシイ、オトコハ、オマエダヨ。」 姉は怯えた眼をして首を縦に振った。 私は姉をかき抱いて泪ながらに、そのザラザラな粗悪な白壁のような頬へ接吻した。姉は私の胸の中で、身もだえして唸った。
3
姉は、夜更けてから、血の気の失せた顔をして帰って来て、私にご飯をたべさせてくれた。 どんなに、姉は、私を愛しんでくれることであろうか! 姉は腕に太い針で注射をした。――姉の病気は此頃ではもう体の芯まで食いやぶっていた。 姉はそして昼間中寝てばかりいた。姉は眠っている時に泣いた。泪が落ちくぼんだ眼の凹みから溢れて流れた。 私は真昼の太陽の射し込む窓の硝子戸に凭りかかって、半ズボンと靴下との間に生えている脛毛を、ながめてばかりいた。 (――私は、姉を食べて大きくなったようなものだ。) 私の心は、そんなにひどい苦労をして、私を大人に育て上げてくれた姉に対する感謝の念で責められた。私にとって、姉の見るかげもなく壊れてしまった姿は、黒い大きな悲しみのみだった。私はなぜ、私が大人になるためには、それ程の大きな悲しみが伴われなければならなかったのだろうか、と神様に訊き度かった。……大人になったことも、姉を不仕合せにしたことも、私の意志では決してないのだ。親父と二人の阿母(おふくろ)とに、地獄の呪いあれ!……私は堪え難い悲嘆にすっかりおしつぶされてしまって、あげくの果に、声をしのんで嗚咽するのであった、私は寧ろ死んでしまいたかった。 私は一人でじっとしていることがやり切れなくなって、そこで姉を揺り起こした。 ――姉さん、ごらんなさい。あの雲の中にそびえている大きな建築を。」 私は窓を開け放して、姉に遙かの町の景色を見せてやるのであった。 ――僕は、いまに、あれよりももっと立派な大建築をこしらえて、姉さんを住まわしてあげますよ。」 すると姉は首を上下にうなずかせながら、手真似をして答えた。 ――バカヤロウ、アレハ、カンゴクジャナイカ!」 ――ちがいますよ!」と私はびっくりして答えた。 ――オマエハ、バカダカラ、シラナイノダ。ワタシハ、オオキイウチハ、ミンナキライダヨ。」 ――では、みんな壊してしまいましょう。」と私は昂然として云った。 ――アンナ、オオキイウチガ、オマエニ、コワセルモノカ、ウソツキ!」 ――ダイナマイトで壊します。」 ――ソレハ、ナンノコト?」 ――薬です……」 私は、黒い本を開いて読み上げた。 「ニトログリセリン 〇・四〇 硝石 〇・一〇 硫黄 〇・二五 粉末ダイアモンド 〇・二五 ――ワタシハ、ソノクスリヲ、ノンデ、シニタイト、オモウ……」
4
夕方になると、夕風の吹いている街路ヘ、姉は唇と頬とを真赤に染めて、草花の空籠を風呂敷に包んで、病み衰えた身を引きずって出かけた。 私は窓から、甃石道を遠ざかって行く姉の幽霊のように哀れな後姿を、角を曲ってしまう迄見送った。 たそがれの空は、古びた絵のように重々しく静かに、並木の上に横(よこたわ)っていた。 私は、急に胸を轟かして、並木の黒い蔭を一本一本眺め渡した。私はすぐに派手な、紅い短い上衣を着た若い女の姿を見つけ出した。彼女は、毎晩、そうして男を待っているのである。待つが程なく男はやって来る。男は黒いマントを長く着て、黒い大きな眼鏡をかけ、そして黒い見事な髭をはやしていた。私は軍人の父が形見に残していった望遠鏡で男と女との媾曳を覗いた。その事は私に、今迄ついぞ経験したこともない、不思議なる悦びを感じさせた。私は毎晩々々のぞいた。その紅い上衣の女は、しばしば街の飾窓や雑誌などの写真で見覚えの或る名高い女優らしかった。男は、私が覗く度毎にドキンとさせられる程、いつか姉が私の顔へ眼鏡と髭とを悪戯書したその時の私の人相と、まるでそっくりなのである。 私はそこで顔ばかりでなく、心迄がその男と共通のものを持っていたと見えて、その恋人である女優ヘ、まことにやみがたい恋慕の情を抱きはじめるに至ったのである。 私は姉の眼をぬすんで、ひそかに黒い眼鏡と、黒いつけ髭とを買いととのえた。 そして或る晩私は遂に、その男よりたった一足先廻りをして彼女と会った。 私は毎晩、その男のすべての動作をよく研究して会得していた。私は口笛を軽く吹きながらステッキを振って、ゆっくりと大胆に近づいて行った。女は、そんなに巧みに変装した私にどうして気がつく筈があろう。果して、、彼女は並木の木蔭からいそいそ走り出ると、ニッコリ笑いかけて、優雅な身振りで可愛らしい両手をさしのべた。私は、恥しさと、嬉しさと不安とでぶるぶる慄えた。 目近くに見た彼女は何と云う美しい女であろう! 私は彼女のエメロオドのような瞳に、またもぎ立ての果物のような頬に、また紅い花模様の上衣の下にふくらんだ胸に、私の命を捨てても惜しくはなかった。 私は勇気をふるって、鳶色の木下闇(このしたやみ)で彼女を抱き寄せた。 ――いけないわ。」 彼女は危く私のつけ髭の上へ唇を外らした。 ――ニセ者!」と彼女は私を叱った。 私は、失敗った、と思った。 ――未だ、つけ髭なんかでごまかしているのね。なぜ、ほんものの髭を生やさないの?」 ――姉が、ゆるさないものですから……」と私はどもった。 ――姉さんなんか、捨てておしまいなさいよ。」 ――あなたは、僕の哀れな姉を、御存知ですか?」 ――ほんものの髭が生える迄は、あたしお会い出来ませんわ。」 ――どうぞ!」と私は喘いだ。 ――いや!」 彼女は強か私を振りもぎって立ち去りかけたが、ちょっと足をとめてふり返って、――もしも、髭がほんとに生えたならば、あなたの窓へ、汽車のシグナルみたいな赤い電気をつけてちょうだい。」と云った。そしてまたすたすたと、連なる並木の蔭へ吸い込まれて行った。 私は茫然と立ちつくすのみであった。 ――男は髭を生やさなければ、ほんとうの値打が現われないものであろうか?」 だが、その次にふと私は、頭の中に今頃は何処かの四辻に立って、草花を売っているに違いない、姉のしなびた醜い顔を思い浮かべて、またしても泪に暮れた。 ――可哀相な姉よ!
5
――姉さん、どうしたのです?」 姉は、さも憎々しげに私を睨みつけながらうなずいていた。 ――オマエ、ヒゲヲ、ハヤス、ツモリカエ?」 ――だって、僕はもう大人になったのですから生やしたいのです。」 ――オトナハ、ワタシ、キライダ!」 ――そんなことを云ったって、無理ですよ。僕は大人になって、姉さんを広い家に住まわせて、仕合せにして上げようと思うのです。」 ――イイヨ。カッテニ、スルガイイ。ワタシハ、アノクスリヲノムカラ!」 ――薬ですって?」 姉は首を横に振って、机の上の黒い本を開いて見せた。 ――ダイナマイトは、また、食べることも出来ます。」 私は姉のザラザラな粗悪な壁土のような頬に接吻した。 私はそして、姉の見ている前で、剃刀を研いで、うっすらと生えかかって来た髭を剃り落としてしまったのだ。 だが、――またその翌日の夕方になると、私は姉の後姿を窓から見送って、それからさて、れいの並木の方を眺め渡すのであったが、女はその言葉通りあの夜以来とんと姿を現わさなかった。男の姿も――あの男は、あの夜五分遅れてやって来て、彼女に思いがけない私という新しい恋人の出来たことを見てしまったのでもあろうか、とにかく再び姿を見せなかった。 並木の上に月が出ても、甃石へうつる影は並木ばかりであった。 私は窓の縁に、深い溜息をついて、もう決して髭を剃るまいと心に誓った。
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