山には別しても秋の來るのが早い。もう八月の暮がたからは、夏の名殘の露草に混つて薄だとか女郎花だとかいふ草花が白々した露の中に匂ひそめた。大氣は澄んで、蒼い空を限つて立ち並んで居る峯々の頂上などまでどつしりと重みついて來たやうに見ゆる。漸々紅らみそめた木の實を搜るいろ/\の鳥の聲は一朝ごとに冴えまさつた。 お盆だ/\と騷がれて、この山脈の所々に散在して居る小さな村々などではお正月と共に年に二度しかない賑かな日の盂蘭盆も、つい昨日までゝすんだ。一時溪谷の霧や山彦を驚かした盆踊りの太鼓も、既う今夜からは聽かれない。男はみな山深くわけ入つて木を伐り炭を燒くに忙しく、女どもはまた蕎麥畑の手入や大豆の刈入れをやらねばならなかつたので何れもその疲勞から早く戸を閉ぢて睡て了つた。昨夜などはあんなに遲く私の寢るまでもあか/\と點いてゐた河向ひの徳次の家の灯も夙うに見えない。たゞ谷川の瀬の音が澄んだ響を冴え切つた峽間の空に響かせて、星がきら/\と干乾びて光つて居る。 私は書見に勞れて、机を離れて背延びをしながらに凭つた。山々の上に流れ渡つて居る夜の匂ひは冷々と洋燈の傍を離れたあとの勞れた身心に逼つて來る。何とも言へず心地が快い。馴れたことだが今更らしく私は其處等の谷川や山や蒼穹などを心うれしく眺めした。眞實冷々して、單衣と襦袢とを透して迫つて來る夜氣はなか/\に悔[#「悔」はママ]り難い。一寸時計を見て、灯を吹き消して、廣い座敷のじわ/\と音のする古疊の上を階子段の方に歩いて行つた。 下座敷に降りて見ると、中の十疊にはもうすつかり床がとつてある。けれども寢て居るのは父ばかりで、その禿げ上つた頭を微かな豆ランプの光が靜かに照らして居る。音たてぬやうに廊下に出ると前栽の草むらに切りに蟲が喞いて居る。冷い板を踏んでやがて臺所の方に出た。平常は明け放してある襖が矢張り冷いからだらう今夜はきちんと閉めてある。それを見ると何となく胸が沈むやうなさゝやかな淋しさを感じた。 襖を引開くると、中は案外に明るくて、かつと洋燈の輝きが瞳を射る。見ると驚いた、母とお兼とばかりだらうと想つてゐたのに、お米と千代とが來て居て、千代は圍爐裏近く寄つた母の肩を揉んで居る。 「ヤア!」 と思はず頓狂な聲を出して微笑むと、皆がうち揃つて微笑んで私を見上ぐる。一しきり何等か談話のあつたあとだなと皆の顏を見渡して私は直ぐ覺つた。 切りに淋しくなつてゐた所へ以て來て案外なこの兩人の若い女の笑顏を見たので、私は妙に常ならず嬉しかつた。母に隣つてお兼が早速座布團を直して呉れたので、勢よくその上に坐つた。さゝやかながら圍爐裡には、火が赤々と燃えて居る。 「如何したの?」 と、矢張り微笑んだまゝで母と兩人の顏を見比べて私は聲をかけた。默つたまゝで笑つてゐる。誰も返事をせぬ。 「たいへん今夜は遲かつたね。」 と、母がそれには答へず例の弱い聲で、 「いま喚んでおいでと言つてた所だつた。」 と、續くる。 「ナニ、一寸面白い本を讀んでたものだつたから……え、如何したの、遊びかい、用事かい?」 と兩人を見交して言つてみる。 「え、遊び!」 と、千代が母の陰から笑顏でいふ。 「珍しい事だ、兩人揃つて。」 と、私。 「兩人ともお盆に來なかつたものだから……それにお前今夜は十七夜さんだよ。」 と、私に言つておいて、 「もう可いよ、御苦勞樣、もういゝよ眞實に!」 と、肩を着物に入れながら、強ひて千代を斷つて、母は火をなほし始めた。 兩人は一歳違ひの姉妹で、私とは再從妹になつて居る。姉のお米といふのは私より二歳下の今年二十一歳。同じ村内に住んでゐるのではあるが、兩人の居る所から此家までは一里近くも人離れのした峠を越さねばならぬので、夜間などやつて來るのは珍しい方であつた。 「さうか、それは可かつた、隨分久しぶりだつたね、たいへんな山ん中に引込んでるつてぢやないか。」 と、母の背後から私と向合ひの爐邊に來た妹の方を見ていふと、 「え、たいへんな山ん中!」 と、妙に力を入れて眉を寄せて、笑ひながら答へる。 休暇に歸つて來てから一寸逢ふことは逢うたのであつたが、その時は仕事着のまゝの汚い風であつたのに、今夜は白のあつさりした浴衣がけで、髮にも櫛の目が新しく、顏から唇の邊にも何やら少しづつ匂はせて居るので、珍らしいほど美しく可憐に見ゆる。山家の娘でも矢張り年ごろになれば爭はれぬ處女らしい色香は匂ひ出て來るものだ。それに兩人ともツイ二三年前までは私の母が引取つてこの家で育てゝ居たので他の山家の娘連中同樣の賤しい風采はつゆほども無かつた。 「淋しいだらう!」 「え、だけど妾なんか馴れ切つてゐるけれど……兄さんは淋しいで御ざんせう!」 「ウム、まるで死んでるやうだ。」 「マア、斯んな村に居て!」 と仰山に驚いて、 「だけれど、東京から歸つて來なさつたんだからねえ!」 と何となく媚びるやうな瞳附で私の眼もとを見詰むる。さも丈夫相な、肉附もよく色の美しい娘で、勿論爭はれぬ粗野な風情は附纒うて居るものゝ、この村内では先づ一二位の容色好しと稱へられて居るのであらう。そんな噂も聞いて居た。 「ア、ほんに、お土産を難有う御座んした。」 と、丁寧に頭を下ぐる。 「氣に入つたかい?」 「入りやんしたとむ!」 と、ツイ逸んで地方訛を使つたので遽てゝ紅くなる。 「ハヽヽヽヽヽ、左樣か、それは可かつた、左樣か、入りやんしたか、ハヽヽヽ。」 埓もなく笑ふので母も笑ひ、お兼も笑ふ。と、母が、 「マア、米坊よ、お前どうしたのだ、そんな處に一人坊主で、……もつと此方においでよ。」 私も氣がついて振向くと、なるほど姉の方は窓際に寄りつきりで、先刻から殆ど一言も發せずに居る。 「オ、然うだ、如何したんだね米ちやん、もつと此方に出ておいでよ、寒いだらう、其處は。」 「エー」 と長い鈍い返事をして、 「お月さんが………」 云ひ終らずにおいて身を起しかけて居る。 「お月さん? 然うか、十七夜さんだつたな」 と、私は何心なく立つて窓の側に行つて見た。首をつき出して仰いで見ても空は依然として眞闇だ。星のみが飛び/\に著く光つてる。 「戲談ぢやない、まだ眞暗ぢやないか!」 「もう出なさりませう。」 と、ゆる/\力無く言ひながら立上つて、爐の方に行つて、妹の下手に音無しく坐る。氣が附けば浴衣はお揃ひだ、彼家にしては珍らしいことをしたものだと私は不思議に思つた。 「厭だよ姉さんは、もつと離れて坐んなれ!」 と、妹は自身の膝を揃へながら、突慳貪に姉にいふ。 すると母が引取つて、 「お前が此方においでよ、斯んなに空いてるぢやないか。」 と、上から被つてゐる自身の夜着の裾を引寄せて妹に言ふ。千代は心もちその方にゐざり寄つた。お兼は母の意を受けて鑵子に水をさし、薪を添へた。 「姉さんの方が餘程小さいね。」 と兩人を見比べて私がいふ。 妹は姉を見返つてたゞ笑つてる。 「千代坊は精出して働くもんだから。」 と、姉は愼しやかに私に返事して、 「お土産を私にも難有う御座んした。」 と、これもしとやかに兩手をつく。 「ハヽヽヽヽヽ、これもお氣に入りやんしたらうね。」 そのうち母の平常の癖で葛湯の御馳走が出た。母自身は胸が支へてゐるからと言つて、藥用に用ゐ馴れて居る葡萄酒をとり寄せて、吾々にも一杯づつでもと勸むる。私はそれよりもといつて袋戸棚から日本酒の徳利を取出して振つて見ると、案外に澤山入つて居るので、大悦喜で鑵子の中へさし込む。お兼が氣を利かせて里芋の煮たのと味附海苔とを棚から探し出して呉れる。その海苔は遙々東京から友人が送つて呉れたものだ。 二三杯立續けに一人で飮んで、さて杯を片手にさし出して皆を見しながら、 「誰か受けて呉んないかな!」 と笑つてると、母も笑つて、 「千代坊、お前兄さんの御對手をしな。」 「マアー」 と言つて、例の媚びるやうな耻しさうな笑ひかたをして、母と私と杯とを活々した輝く瞳で等分に見る。 「ぢや一杯、是非!」 私はもう醉つたのかも知れない、大變元氣が出て面白い。強ちに辭みもせず千代は私の杯を受取る。無地の大きなもので父にも私にも大の氣に入りの杯である。お兼はそれになみ/\と酌いだ。 見て居ると、苦さうに顏をしかめながらも、美しく飮み乾して、直ぐ私に返した。そしてお兼から徳利を受取つて、またなみ/\と酌ぐ。私は次ぎにそれを姉のお米の方に渡さうとしたが、なか/\受取らぬ。身を小さくして妹の背中にかくれて、少しも飮めませぬと言つてる。千代はわざと身を避けて、 「一杯貰ひね、兄さんのだから。」 と繰返していふ。面白いので私は少しも杯を引かぬ。 「では、ほんの、少し。」 と終に受取つた。そしてさも飮みづらさうにしてゐたが、とう/\僅かの酒を他の茶碗に空けて、安心したやうに私に返す。可哀さうにもう眞赤になつて居る。 私は乾してまた千代にさした。一寸嬌態をして、そして受取る。思ひの外にその後も尚ほ三四杯を重ね得た。私は内心驚かざるを得なかつた。
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