花子の首
一九二四年の倫敦(ロンドン)の冬は陰気であった。私はユーストンの地下鉄の乗換場附近にある玄関に、日章旗を交錯した日本料理店胡月の卓子(テーブル)で、外交官の松岡、画家の山中、トンテム・ハム・コートの伊太利(イタリー)料理店の主人と暗い東洋風の部屋で、日本食の晩餐(ばんさん)後お互に深い沈黙に陥っていた。外は倫敦の深い霧が立ちこめて、青い幻灯の街路を、外套の襟に顔をうずめて各国の女が相変らず男から男に身を売って、凍った地面を高い踵(かかと)で音楽のように敲(たた)いて行ったり来たりしていた。支那人の給仕人が丸太作りの灰色の窓を閉(とざ)すと、客のない閑散とした部屋々々は妾(わたし)達と胡月の女将(おかみ)である四十前後の小柄な日本婦人花子とが囲炉裏(いろり)をかこんでいた。皆等しく注意を卓子の塗膳にのせられた粘土の彫刻に向けるのであった。 その彫刻は人間の恐怖が異常な人間の脳裡によって刻まれた、アウギュスト・ロダンの作品「小さい花子(プチト・アナコ)」の死の首であった。トンテム・ハム・コートの伊太利人は彫刻の美に昔から物馴れた眼をそむけて、醜悪なものの前で色を失っていた。外交官の松岡は頑丈な顔を曇らせると眼を伏せてしまった。画家の山中はものに憑(つ)かれたように身動きもしなかった。その時ふと私は、老いた花子の顔の孤独の皺(しわ)を伝う幾条かの銀色の涙を見た。私の心では、彼女の影にその神秘な過去が深まってゆくのを感ずるのであった。 突然、ユーストンの街路の銀鈴の響が尾をひいて、馬の踵(ひずめ)の音が静寂な空気の中に運命的な号(さけ)びをたてた。と、同時に一台の幌馬車が胡月の前でとまると、再びもとの静寂が灰色の部屋に重々しく沈んだ。私達が思わず立上ると、同時に花子のやつれた姿がよろよろと死の首で辛(かろ)うじてささえられた。その瞬間幽霊のように扉を排して、一人の日本人の旅人が、この東洋風の祭壇のように怪奇な部屋に這入ると、扉に背をもたせて、彼の眼前に小さくうずくまった花子を凝視した。私達は、この突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)の濃い髯(ひげ)でかくれた、中年の苦悩に刻まれた古銅色の顔、霜枯れた衣服の下で凍った靴に、死人のような膚(はだ)が覗(のぞ)いているのを見た。それと同時に、私達は、花子の絶望的な呻(うめ)きが彼女の唇から洩れるのを聞いた。すると、闖入者の顔には、記憶から記憶を一瞬に過ぎる深刻な影が走った。そして、それに不気味な笑いが伴うのであった。私は思わず背後(うしろ)の花子を振返ると、恐怖の号びをたてて慄然(りつぜん)としてしまった。その花子の顔こそアウギュスト・ロダンの刻んだ「小さい花子」の死の首なのであった。 併(しか)し、次の情景が私達を更に愕(おどろ)かした。不意の闖入者と花子とが緊(ひし)と抱き締めて、ものも云わずに黒い地面にうずくまったからである。
小さい花子(プチト・アナコ)の話
ロダンさんは、一九○六年マルセーユに、カムボジヤの触妓(ふぎ)の素描(デッサン)をしにやってきたのです。当時私は、当市で開催されていた、植民地博覧会に、東洋曲芸団の花形として出演していました。観客は私のことをプチトアナコと云って人気者だったのです。ロダンさんはコート・ダジュールの華美なノアイユ旅館から、度々妾のお芝居を見にいらっしゃったのだそうです。妾達が最初におあいしたのは、カバレット・トアズンドルの舞踊会でした。妾は支配人と一座のジョージ・佐野(妾はこのアメリカ生れの日本人を愛していたのです。)に連れられて、歌劇の女がカカオを喫しているフランスの香のなかに哀愁的な東洋女の花を咲かしたのです。カバレット・トアズンドルの舞台では、ターバンを巻いた印度人が、細腰のヒンズー女を抱いて、宗教的な怪奇な踊りを舞っていました。妾は、皮膚の色褪(あ)せた波斯(ペルシャ)族、半黒黒焼の馬来(マレー)人、衰微した安南の舞姫の裡(うち)にあって、日露戦争役の小さい誇を、桜の花の咲いた日本の衣服に輝かせていました。 妾は青い窓から、マルセーユ岸壁の遙かに淡く浮き出た神秘なシャトウ・ド・ディフの牢獄の島を眺めているうちに、故国の姉を憶い出して感傷的になっていました。咏嘆(えいたん)的な音楽が奏でられ、スカートの長いフランス女とアバッシュなマルセーユ男でワルツを始めました。ルーマニアの士官がネグロの楽隊に剣を腰から抜いて長靴を鳴らして見せました。そこからルーマニアの士官と、スペイン女のあの意気で猥雑(わいざつ)なタンゴが始まると、人々は腰を高く振って、歓声をあげるのでした。 燕尾(えんび)服をつけた給仕が、銀盆に一枚の名刺を置いて、ものものしく妾達の卓子の前で、黒い尾を折りました。支配人が妾に面会人を告げたのですが、妾は機械的に首を横にふりました。だが、妾の感傷の夢もそれと同時に醒(さ)めたのです。支配人はアウギュスト・ロダンの名刺を妾に見せると、偉大な芸術家であるから、是非私に面会するようにと云うのです。妾は佐野の顔色をうかがうと、彼は首を縦に振って神経的な顔に微笑をして呉れましたので、妾は立上ると踊の場面を抜けて、給仕の後から黒塗りの日本の履物の音を立てたのです。妾は案内された部屋に、レジオン・ド・ヌウルの勲一等の赤い略章をつけた肥大した肉体の恰好(かっこう)の好い一人の老人を見出すのでした。銀で染めた髪と、眉の間に鼻眼鏡をかけたアウギュスト・ロダン氏は、妾の小さい手を芸術家らしい熱情をもってとると、不思議に透徹した眼光が妾を凝視しているのです。妾はモンマルトルの地獄のカバレの我父(モンペール)フレデリック老人を思い出したほどです。併しロダンさんは、妾に優しく椅子をすすめると、自分が妾、東洋の女優の美に対する興味の異状であること、マルセーユの石山のノートルダム寺院の尖塔(せんとう)の黄金像にもまして、自分は、日本女優花子の美は自分にとって尊いなどと、お世辞を仰有(おっしゃ)るのです。妾は街角に灯された石油ランプの青い灯に東洋が映るやうな気がしました。どうか、自分の彫刻のモデルになって呉れるようにと、ロダンさんは仰有ったのです。妾達の曲芸団はマルセーユの興行を打揚げると、スペインのバルセロナの街に小屋を下しました。妾は無智な女で、芸術家に対する理解なんてなかったので、ロダンさんのことはすっかり忘れていました。それに妾はジョージ・佐野を愛していたので、他のことは考える暇がなかったのでした。妾達はラムブルデル・セントロの椰子(やし)の大通りで、狂気のように接吻しました。コロンブスの銅像の前で、陽気に恋を語りました。カルメンの兵士も、意気な紳士達も、真赤な帽子を斜(はす)かいに被(かぶ)った闘牛士も目には映りませんでした。妾達はスペイン人の巻舌の中で、真赤な衣裳の影で、恋愛のために歓声をあげたのです。この時代が妾にとって最も楽しかった時代で、佐野に対する妾の愛着は南欧の情熱に反映して、ジプシー女のように燃えさかったのです。ああ、妾は佐野を愛していました。佐野も妾のために夢中だったのです。妾達はショコラ酒を飲んで、金盞花(きんせんか)の花と共に寝床に埋れました。 それはスペインの十月の最後の金曜日でした。妾は佐野の腕に抱かれてラス・コルテス通のアラビア風の建物に、赤と黄の旗の飜(ひるがえ)る闘牛場に這入って行きました。場内は気が狂ったように男女が歓声をあげていました。佐野はアラゴン人の物売りから冷果を買って妾の乾いた唇を潤しながら云うのでした。 「小さい花子(プチト・アナコ)。俺はお前を愛している。お前なしには生きて行かれない!」 妾は彼の厚い唇に敏捷(びんしょう)に噛みつきながら、 「ジョージ、妾の愛の凡(すべ)てを投げ出しても惜しくない。恋の狢(むじな)になるまでは。」 と、妾は号(さけ)ぶのでした。 鐘がバルセロナの古い歴史を呼びさますようにえんえんと鳴る。オーケストラが大進軍の曲を始めた。バルセロナの市長夫妻が、古風なスペイン服で高い桟敷(さじき)につくと、金と紅で美装した闘牛士の群が騎馬で出て来て、司会者の前で昔ながらの武士的な挨拶をするのです。すると、司会者は黄金色と紅色で飾られた闘牛の魂とも云うべき鍵を、闘牛士に向って投げます。すると闘牛士の大きな帽子が見事にそれを受けとめて、その鍵で中の潜んでいる扉を開くと、暗い場所から嵐のように闘牛が広々とした円舞場に踊り出るのです。それに向って槍を手にした騎馬の闘士が焔(ほのお)のような空気の中で乱舞するのです。と、忽(たちま)ち血みどろになって大牛の死骸が投げ出され、騎士と牛の闘争が終ると、左手に赤い蔽布(ひふ)をひるがえし、右手に尖剣(せんけん)をきらめかした闘牛士が徒歩で牛と立向い、古武士的な闘牛士の動作を観衆は讚美熱狂するのです。私は残虐な血を見て、喜びがスペインの奔流のような歓呼の中で亢奮していました。佐野の私の首を抱いた腕がだんだん冷たくなるような気がしながら、眼前を尖光のように流れる闘牛士の槍先が牛の骨に数本の尖創を作って、巨大な口から粘った血液がどろどろと流れるのを、瞬きもしないで見詰めていたのです。遂に一本の尖剣が発止(はっし)と頸骨(けいこつ)の髄を貫いて、牛は地響をたてて倒れました。同時に、私は側で、恋人が気を失っているのに気がついたのです。そして妾は、佐野が心の内部で見えない未来の敵に対して戦端を開いているのに気がつきました。妾は恐ろしい雑沓(ざっとう)の中で、不吉な予感をその時感じたのです。 妾達がホテルに帰ると、妾の部屋で支配人と旅疲れのしたロダンさんが、妾の帰るのを待っていました。 そこで妾は、巴里のロダンさんのアトリエで、モデルになることを承諾したのです。
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