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婦人も参政権を要求す(ふじんもさんせいけんをようきゅうす)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-22 10:47:04 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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二月に入って これに対して私たち婦人は、唯だそういう事象が男子の間にあるとして冷淡に看過して好いでしょうか、どうか。言い換えれば、そういう問題は私たち婦人と直接に何の交渉もないものでしょうか、どうか。私はこれについて、一般の婦人たちとは勿論、併せて一般の男子たちとも反省してみたいと思います。 普通選挙は世界の大勢であるからこれを要求するのだという人があるなら、私はその人が模倣同化の通有性のみあって、自由独創の個性に乏しいことを惜みます。今日は国家とか民族とかに由って制限される何物もありません。現に 私にも世界の大勢を口にしたり、欧米の実例を挙げたりする場合がしばしばあります。しかし私は決してそれを私の議論の前提にも基礎にもしようとは考えません。私はそれを、あるいは私の個性の自発を促した機縁として述べるか、あるいは私の議論の それなら、普通選挙はどういう理由から個人の自発的要求として主張されるのですか。これに関する細論で最も参考となるものには、最近に 人間は動物の如く単に「生きる」というものでなくて「より善く生きよう」とする所に特長があります。悠久な昔において、人間が自然の法則に引きずられて専ら種族の保存と生理的欲望の満足とに終始する動物的生活を脱し、人為の理想と努力とに依って現に見るような 創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です。この能力は個人のものです。個性的のものです。多数はこれを助長し、併せてこれを受容し、これと同化する作用はあっても、多数が或一つの新しい文化内容を創造するということは、厳格なる意味において全く不可能なことだと思われます。 人格の中心となるものは実にこの創造能力を この創造能力は一切の人類が個性として具有しているものであって、これを実際に用いて生活のあらゆる体系――個人生活、家庭生活、国民生活、世界生活――に新しい創造を試みたるために、人間は如何なる自己以外の権力にも圧倒されないだけの「自由独立の権利」を持っています。例えば教育の自由、思想の自由、言論の自由、職業の自由の類がそれです。また、この創造能力を用いてあらゆる生活の体系に貢献するために、個人個人がこの能力を開展する機会を均等にする権利、即ち「平等の権利」を持っています。例えば貴族の子も乞食の子も学齢に達すれば平等に教育を受けることが出来ます。これは教育を受ける機会の平等です。また学術上の実力さえあれば、富豪の子弟も貧民の子弟も平等の学位を請求することが出来ます。これは学位を受ける機会の平等です。貧富貴賤、士農工商に依って階級の差等や権利の差等を認めず、一斉に同じ出発点に立って創造能力の競争に参加し得るのが「平等の権利」です。或階級の人間だけが特別の権利を持って、便宜の多い 近頃の流行語である「民主主義」というものも、原語のデモクラシイが十八世紀や十九世紀で持っていた意味とは違って非常に進化し、要するに今日の解釈では さて、普通選挙を要求するというのは、実にこの民主主義的の権利を――平等の権利を――日本人全体が政治の上に得て、国民として政治に参与する機会の均等を持とうとするがために外ならないのです。我々は日本国民たることにおいて平等です。国家を愛し、あらゆる職業と労作を通じて、精神的及び物質的に国家に貢献していること、即ち国民としての義務を行っていることにおいて平等です。この愛国心と、この国民的義務の負担とにおいて平等である我々が、どうして国家の政治に参与する権利においては不平等な待遇を受けねばならないでしょうか。 国家は国民全体の勤務に依って支持されて行くものです。国家は国民全体の協力の中に生存し発達して行くものです。一旦緩急あれば義勇を以て公(即ち国家)に奉ずるのみならず、個人が日々の勤労は直接または間接に国家のために計っているのです。民主主義の家庭は、その家長の専制に依って家政を決することなく、必ず家庭の協同員たる独立の人格を持った年頃の家族と共に公平に合議して決せねばならぬ如く、国家の政治もまた国民全体の意志に依って決することが、合理的な民主主義の政治である限り、或年頃に達して独立の人格を持った国民――例えば満二十五歳以上に達して、白痴でなく、六カ月以上一定の地に住し、現に刑罰に処せられていない者――こういう意味の国民全体が衆議院議員の選挙権と被選挙権とを持って、間接または直接に国家の政治に参与することは、立憲国民に固より備った正当な権利であるのです。かくてこそ初めて国民全体が平等に参与する政治、即ち民主主義の政治と称することが許されると思います。 こう考えて来ると、従来の納税額を標準とした選挙権の分配の如何に不公平であるかは細論せずして明白になります。従来のように直接国税拾円を選挙資格とすると、国民の中から参政権を持つ者は 納税額を標準とする選挙法の第一の不合理はこの点にあります。それは百五十万乃至三百万人の有産階級のみが特権的に 明治年間に藩閥、軍閥、財閥、学閥というようなものが特別に国家に役立った場合もあったでしょうから、それらの者が特権階級として国家の恩典や優遇を受けたのには多少の理由もあったかと想像されますが、今日は国民の知識が進んで、国民としての責任が個人個人に自覚されつつあるのですから、財産の有無を以て国民の創造能力を測定することは乱暴だと思います。 されば普通選挙の可否は、あらゆる生活の体系が民主主義化して行く今日において、もう少しも議論の余地のない問題です。先覚者たちがこれを主張して我々国民の蒙を しかし私たち婦人の立場から考えて、なお最も大切な条件が一つ残っています。現に我国の先覚者たちに依って唱えられている普通選挙には、国民全体という中に私たち婦人の存在を無視しています。民主主義は男子ばかりの生活に適用されるものと限りません。文化生活に対する平等の権利は婦人にも分配されるべきものだと思います。否、それは婦人においても男子と同じく固より享得している権利です。唯だ私たちはその権利の回復を要求すれば好いのだと思います。 民主主義の世界には男尊女卑主義の道徳は許されません。国民としての存在に男子と婦人との優劣を認める時代は過ぎ去りました。国家に奉仕する義務の負担者として、愛国者として、創造能力を保有する個人として、婦人の分担する所は男子と全く平等の位地にあります。 普通選挙といえば、当然そのうちに男女の参政権が含まれているものと私は考えたいのです。この権利の要求から婦人を除外することは、婦人を非国民扱いにし、低能扱いにするものだと思います。決して徹底した普通選挙とはいわれません。もし男子のみに限られた普通選挙が実施されるとすれば、選挙有権者は――二十五歳以上の男子として――千二百八十三万九千六十二人を数え、現在の有権者数に比べると非常に増加するに違いありませんが、これに二十五歳以上の婦人を加えることが出来たら、男女合せてほぼこれの倍数である弐千五百万を計上することになり、我国総人口の約四割、現在有権者数の約十七倍に当ります。そうなってこそ真実の意味で国民全体の政治ということも出来、私たち自身の政治ということも出来ると思います。 こういう自分の見地から、私は次の一文を、紀元節の日に青年会館で催された普通選挙同盟演説会の男子たちに寄せました。私は婦人も進んでこの運動に参加することは、かの 「私たち日本の婦人が治安警察法に依って禁錮状態にある限り、今日のような政治的の集会に対し、私は、私の魂のみを文章に托して送る外はありません。 皆さん、この事が――即ちこの会合へ私という一人の日本人が、その女性であるという条件だけで、出席することを他律的に禁じられているという事が――今日ここに普通選挙を要求せずにいられない一つの最大理由ではないでしょうか。 皆さんは納税資格に依る選挙権の制限を不法と認めておいでになります。それには もし婦人参政尚早論を唱えてこれに反対する人々があるなら、納税資格者以外の一般男子を非愛国者の如くに見て普通選挙尚早論を唱える人々と、その不徹底論者たることにおいて大差はないと思います。 「満二十五歳以上の日本人は男女の別なく一斉に選挙権を享有すること」、私の要求する普通選挙はこれです。婦人の参政権を除外した普通選挙は、政治を以て全日本人の政治たらしめようとする――愛と理性に富んだ――真の民主主義者をして満足せしめません。 私は皆さんの徹底した御努力を、特に日本婦人の現在の立場から祈ります」(一九一九年二月) (『婦人公論』一九一九年三月) 底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店 1985(昭和60)年8月16日初版発行 1994(平成6年)年6月6日10刷発行 底本の親本:「激動の中を行く」アルス 1919(大正8)年8月初版発行 入力:Nana ohbe 校正:門田裕志 2002年5月14日作成 2003年5月18日修正 青空文庫ファイル: このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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