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平塚・山川・山田三女史に答う(ひらつか・やまかわ・やまださんじょしにこたう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-22 10:43:44 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 私は決して気紛まぐれな妄想から経済的独立の可能をいうのではありません。子思ししは「あるいは生れながらにこれを知り、あるいは学んでこれを知り、あるいはくるしんでこれを知る」といいましたが、私は実に早くから困んでこれを知ったのです。私は四、五歳の時から貧しい家庭の苦痛を知り初め、十一、二歳より家計に関係して、使用人の多い家業の労働に服しながら、二十二、三歳までの間に、あらゆる辛苦と焦慮とを経験して、幾度か破綻はたんひんした一家を、老年の父母に代り、外に学んでいる兄や妹にも知らせずに、とにもかくにも私一人の微力で、一家を維持し整理して来たのです。他人が中年になって経験する経済生活の試錬を私は娘時代においてめ尽しました。或人においては、一生涯かかって経験する苦労を、私は誇張でなく、全く娘時代の十年間にしのいで来たと思っています。次で結婚生活に入って後の私の経済生活というものも、引き続いて多難なものであるのですが、これを娘時代の苦労に比べると非常に安易な心持を覚えます。こうして、私は私自身の薄弱な力の許す限り周囲に打克うちかって、細々ほそぼそながら自己の経済的独立を建てて来ました。これはごうも自負のつもりでなく、私がこういう実証の上に立っているということの説明にいうのです。
 しかし個人の経験を以て一般を推論することが往々誤謬に陥るとすれば、私は一条忠衛さんが近く富山県の漁婦たちの食糧運動を評された文中に「思うに漁村の女子は、生れ落ちると怒濤どとうの声を聞き、山なす激浪を眺め、長ずればかじも取りも漕ぎ、あるいは深海に飛込んで魚貝をあさって生活しているので、おのずから意志が強固になり、独立自存の気象に富んでいる。海浜または島嶼とうしょに住んでいる女子が男まさりに気概があり、権力が強く、女子の社会的地位の高いのは一般的である。これらの漁村に住む女子は経済的独立の思想が発達しているから、家庭生活に対する困苦と責任とを実感する程度が強い。家庭の経済的責任を男子に委ねて、その従属者として生活しているのでなくて、女子もこれにくわわり、相本位的に独立の主体として解釈している結果である」とある一節を引いて、社会の一部には既存の事実であることを証明して置きます。なお、農家と商工業界との女子にも、今日の努力の程度で許される経済的独立の実例は決してすくなくありません。
 日本の工場労働者の約六割までが婦人であり、それらの婦人労働者の総数が六十三万六千余人であるのを見ても、それら下層階級の婦人が必要の前に如何に労働を回避しない美質を持っているか、如何に不完全きわまる労働制度の中にあって、苛酷な労働を忍びながら、決して正当の報酬でない貧弱な賃銀を以て、なおかつ父兄の厄介とならない独立の生活を申訳だけにも建てつつあるかを思う時、私は一般婦人の経済的独立が十分に可能的なものであることを推定せずにおられません。
 工場労働の現状のいたましさは私も知っています。しかし今日の制度の中においてすら、次第に或程度まで改善されて行く見込があります。現状のみを見て未来を決定してはなりません。或社会主義者のいったように、人間があまねく働くようになれば一人が一日に一時間と二、三十分働きさえすれば充分である時機が来ないとも限らないでしょう。社会主義者ならぬ福田博士も「貧乏と無学とが全く人類社会より断ち得んとの希望は、十九世紀における欧洲労働者の著しき進歩の実績に徴する時は、必ずしも架空に属せざるに似たり」と述べておられます。
 平塚、山田の二女史は工場労働に重きを置いて、女子の屋外労働を批難されましたが、女子の屋内における経済的労働の範囲の広いことは、その大部分を占めている屋内工業だけでも、女子の製品の総輸出額の概算が一カ年四億円――輸出総額の二割五分――に達しているので推断することが出来ます。
 女子は母たる境遇にのみあるものでないのですから、その実力と興味とに従って内外の職業に就くことは可能です。女子の職業範囲は何人なんぴとの反対があっても、生活過程の必要である限り益※(二の字点、1-2-22)拡がって行くでしょう。その過程には新しい悲惨な事実も続出するでしょうが、宇宙はいつも快晴ではないのですから、一つの比較的に最も善い新しい秩序をはじめるためには十の新しい障碍しょうがいが起ってもやむをえません。更にその障碍を除く新しい施設を工夫さえすれば善いのです。
 母の境遇にある婦人といっても、子供の側に附切つききっていねばならないものでなく、殊に子供が幼稚園や小学へ行くようになれば、母の時間は余ります。子供の側を離れられない期間にある女は屋内の経済的労働に服せば宜しい。妊娠や分娩の期間には病気の場合と同じく、保険制度に由って費用を補充するというような施設が、我国にも遠からず起るでしょう。否、大多数の婦人自身の要求でその施設の起る機運を促さねばなりません。
 山田さんは「家事の煩忙」を女子の労働の不可能な一つの条件に数えられましたが、我国の家事は大部分無用なものですから、努力次第で最も早く除き得る小さい障碍しょうがいだと思います。
 人のくいう女子の労働能率を男子より低いとする通俗論は、戦争以来、英国ミッドランド鉄道会社その他の男女工能率の比較表を見ても確かに誤謬ごびゅうを示しております。或所では女工の能率が男工に対して二十パアセント高く、或所では女子を代用したるため一週間の製造高について五百個の減少を予想していたのに、かえって五百個を増加する結果を示しました。欧米において高級な行政事務にも続々と女子を用いていますが、適材を適所に置いたものは、優に男子と匹敵する能率を挙げているといいます。
 世間にはまた妻や母が屋外の職業に就くと、家庭の情味を減じるという反対説があります。我国の現在の程度の職業婦人ことに有夫有子の女教師たちにはそういう弊害が折々あるのを私も認めます。しかしそれは、一つは我国の女子教育が善くないからです。愛と理性との高い教育をおろそかにしている以上、どの家庭婦人も高雅な情味を持つ訳がないのです。家屋の内外には関係がありません。今一つは職業婦人を遇する新しい習慣がまだ社会に出来ていなくて、余りにだらしなく時間を多く使用させるからです。私は巴里パリイで幾人かの有夫女子の会社員や工場労働者の家庭を見ましたが、朝は子供を学校まで送って行き、正午は勤め先から学校へ子供を迎えに行って、同時に他の勤め先から帰って来た良人と、夫婦子供そろって一所に食卓に就くのです。食事は路すがら麺麭パンと冷し肉ぐらいを買って来るのですから、唯だ瓦斯ガス珈琲コーヒーを煮るだけで簡単に済まされるのです。それからまた父か母のいずれかが子供を学校に送って、夫婦は再び勤め先へ行きます。東京のようにだだ広くない都ですから勤め先も近く、少し位遠くても地下電車で訳もなく行かれます。巴里の公私の勤先が、こういう風に一定の時間を労働者夫婦に許しているのは善い習慣だと思います。こういう事も婦人労働者の要求が勢力を持てばきっと我国にも実現されるでしょう。
 平塚さんは、私が母性の保護に反対するのは「子供を自己の私有物視し、母の仕事を私的事業とのみ考える旧式な思想にとらわれているからだ」といわれました。何たる恐しい断言でしょう。
 私は子供を「物」だとも「道具」だとも思っていない。一個の自存独立する人格者だと思っています。子供は子供自身のものです。平塚さんのように「社会のもの、国家のもの」とは決して考えません。平塚さんは「子供の数や質は国家社会の進歩発展と、その将来の運命に至大の関係がある」といって、国家主義者か軍国主義者のような高飛車な口気をもらされておりますが、私たちの子供もきっと国家を愛し、社会を愛し、更に世界人類を愛して、そのいずれもの進歩発展を計る時が来るでしょう。しかしそれは彼ら自身の愛と事業とが――端的に彼らの自我が――世界人類を包容しないではおられない所まで進歩発展するのです。彼らは国家の所有でなくて、彼らが国家を自己の人格の中に一体として所有するのです。前に引用した有島武郎さんのお言葉も私の考えと同じ意味だと思います。
 平塚さんは「母」の意義をいろいろと教えて下さいましたが、私はかつて述べたように、母たる自尊を「世界人類の母」となる所まで拡充して生きたいと考えています。老子ろうしのいわゆる「道、これを生じ、これをやしない、これを長じ、これを育て、これを成し、これを熟し、これを養い、これを覆い、生んで有せず、為して憎まず」という大道的な境地にまで生きたいと考えています。私は最上の愛国者です。それ故に、特に国家とか社会とかいう中間の人生観や倫理観に停滞していたくありません。最上の立場から国家をも社会をも愛したいのです。
 平塚さんは母が国家のお役に立つという意味から、国家の母性保護を至当とされています。私はそういう意味からでなく、食糧に窮する貧困者に施米または廉米を供給するのと同じ意味から、母の職能を尽し得ない貧困者を国家が保護するのは国家の義務だと考えて全く賛成するのですが、精神的にも経済的にも、自労、自活、自立、自衛する可能性を持っている個人が、父にせよ、母にせよ、妻にせよ、国家の保護に由って受動的隷属的な生き方をするのは、個人の威厳と自由と能力とを放棄する意味において反対するのです。
 「保護」という官僚式な言葉には救済的恩恵的の意味があります。現に我国の救済調査会の項目には、白痴低能児の保護、不良少年の保護、細民部落の保護と並んで婦人労働者の保護が掲げられております。
 最近に或識者は、「凡そ中層階級が自らも他からも健全なりと見做みなさるる理由は、自らその生活を保持し、これを充実し向上せしめ、他の施設恩恵をたぬがためである。しかるに今の中層は自己生活の充実向上の施設を、ややもすれば国家社会の手に委ね、それに依って慶福を得んとしている。かかるは中層自らがその地位を捨てて下層と同じからんとする者にして、いわゆるその健全を捨てて社会的疾患たるに甘んぜんとする卑屈なる精神である」と論じました。私は自分と同憂の人のあるのを嬉しく思います。カントが「商人あるいは手工業者の雇人、僕婢ぼくひ日傭ひやとい労働者、小作人及び総ての女子等、約言すれば他人より「食物及び保護」を受くる総ての人々を国民とは認めず、単に国家補助員と見做みなしていた」というのは、その人格論に由来する正当な結論であろうと思います。
 山川さんは「もしそれ保護が屈辱であり、非難に価するならば、恩給や年金に依って生活を保障されている軍人や官吏の古手も皆非難に価する屈辱的生活を送っている訳ではあるまいか」といわれ、他の二女史も同様の詰問をされています。私は答えていいます、「勿論です」と。私は彼らがなお自労自活の能力を持ち、儲蓄ちょちくした財力を持つ限り、併せて彼らと反対の側に、彼らに多大の恩給や年金を支払うために無数の労働者がその労働価値の大部分を間接に彼らにささげている限り、それは厳正な意味において屈辱的生活を以て目すべきものだと思います。唯だ習慣がそれを国家の寄食者として蔑視しないだけの事だと思います。
 平塚さんはその中に「俸給生活」をも数えて質問されましたが、俸給は労働に対する正当な報酬です。それを受取る権利が俸給生活者自身にあります。国家の保護と称すべきものではないでしょう。
 山田さんは「婦人は一家を主宰し、子供を養育する、その報酬として男子に金を払わせる。もらうというのでなくて納めさせるという事にしなければなりません」といって良人の保護を要求し、大学の教授や国会議員が年俸を貰うのと同じく、「場合に由っては、国家から補助を受ける事は当然だ」といわれ、平塚さんも同様の意味で「母が国家から報酬を受けることも恩恵にあずかることでないはずです」といわれ、山川さんもほぼ同様の意見を述べておられます。要するに、母を一面において家庭及び国家の俸給生活者たらしめる事に由って、寄食者の名を免れしめ、経済的無力者の位地に安心して落着かせようとされるのです。
 山川さんはさすがに気がとがめたらしく、「母の仕事を経済的価値に踏むことを今までは一般に嫌っておりました。それに違いありません。……といって母は神様ではないから、衣食の資料はらないといってすましている訳にも行きません」といい添えられました。衣食の必要がありながら、また、どうにかして実現し得る労働の能力と機会とを持っていながら、すべて母の仕事に匹敵する精神的生活者が、心的にも体的にも経済行為を取らずに、唯だ専ら精神的生活者であるという功労を以て国家の俸給に衣食したいと要求したら、山田さんはそれを是認されるでしょうか。
 私は母性の国家的保護に対して多く直観的に不可として来たのですが、近頃河上博士の「経済上の富の意義」を読んで、私の直観に学問的解釈を附け得たことを喜びました。博士は「経済学上の富としからざるものとの間には……理論上明確なる標準あるものにて、即ち人為を以てその生産及び分配を左右し得らるるものはこれを経済上の富とし、しからざるものは経済学上の富にあらずと為す」といわれ、この理由から、人間の労力もその中の或種のものに至っては、生産はともかく、少くもその分配は或程度まで人為を以て左右し得られる結果、経済学上、殊に分配論上の対象となっていることを述べられた中に、家庭外の婦人の労働が経済学上の重大なる問題の一つとなっているに反し、母としての婦人の家庭内における労働は経済上の問題となる性質のものでなく、良妻賢母の「分配」などは今日真面目まじめな問題となしがたいといわれております。私は山川さんが、「家庭における婦人の労働は、畢竟ひっきょう不払労働でなくて何であろうか」と憤慨されたのは、如何なる労働も凡て経済的価値に換算し得るものだと誤解されているからだと思います。
 非常に紙数を超過しました。あとは略して置きます。(一九一八年九月)

(『太陽』一九一八年一一月)  





底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「心頭雑草」天佑社
   1919(大正8)年1月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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