『子供をもう産んでしまつたの。』 マリイがうなづく。 『何時頃だい。』 マリイは指を折つて見て、 『二週間前。』 かう云つて大きい藁蒲団を手際よくマリイは裏返した。女が歩み寄つて向側から敷布を下に挾むのなどを手伝つて居た。 『男の子なの、女の子なの。』 と女が聞いた。 『小い男の子でしたよ。』 『父なし子は丈夫で居るのかい。』 欄に肱を突いて身体を反り省すやうにしながら男が云つた。ちらと隣の窓に掛つて居た白いきれが目に入つた。 『田舎へ行きましたよ。』 掛蒲団の下かけのはしをもう一枚藁蒲団の下に挟みながらマリイが答へた。 『里へやつちやつたの。』 『さう、さう。』 『産の時もやつぱし屋根裏の部屋に居たの。』 『さうですよ。』 『男は一人位来たかい。』 『どうして、どうして。』 安楽椅子の上に置いてあつた羽蒲団を取らうとすると、マリイの汚れたタブレイの隠袋の中で鍵がぢやらぢやらと鳴つた。 『可愛さうね。』 男の傍へ来て女が云つた。 『キキの奥さんはもうこの間から散歩に出て居ますよ。』 『盛んな奥さんだね。』 男は苦い顔をして云つた。マリイは声を立てて笑つた。開いた戸口から河合が長い顔を出した。 『やあ、入りたまへ。』 おかみさんがマリイを呼び立てる声が下でする。 『奴隷のやうに私を思つてる。』 つぶやきながらマリイは出て行つた。箒も雑巾もそのまま持つて行つた。 『奥さん、この間は失敬しました。』 河合は怠さうな身体を長椅子に置いた。 『私こそ。』 女はにこやかに云つて寝台の端に腰を掛けた。床から五六寸離れた白い足袋の先に西の窓から来る日影が落ちた。 『細君が怒つて居ないかつて山口も心配して居るんだぜ。』 河合は横にあるロバンの箱をいぢつて居る。 『さうかい馬鹿だね。』 『気の弱い方ね。』 『僕だつて心配しましたよ。』 河合は頤を下につけて正目に女を見て云つた。 『あの前から頭痛がして居て自分でも早く帰りたかつたのださうだよ。』 『ぢやあ君もひどく怒られないで済んだのだね。』 河合はをかしさうに笑つた。 『馬鹿な。』 男は机の引き出しから葉巻の箱を出して、 『これをやり給へ。』 河合の傍へ置いた。 『うん。』 河合が一本撮んで指で先を取つて居る時、女も手を出して一本取つた。そして手を伸して机の上のナイフを取つて端を切つて男に渡した。此頃は人の前で態とこんなことをして見せたがる癖の出来た女を病的になつて居るからだと男は見て居た。 『何も持つて居やあしないぢやないか。』 河合は両手を拡げて見せた。 『二十日かい、今日は。』 『さうかね。』 男は女を見て云つた。 『さうですわ。』 『驚いたらう。当月は何一枚書いて居やあしないよ。』 河合は態とらしい元気好い声で云つた。 『驚きはしないよ。君のこつたもの。』 『ふ、ふ。』 河合は首をすくめて笑つた。 『俺は馬鹿ぢやないから何も出来やあしない、出来やあしない。』 『困つた人だね。』 『俺はもう二百フランしか持つて居やあしないよ。』 『二百フランは真実にあるのかしら。』 『怪しいものだね。』 河合が笑つて云つた。 『僕の細君を珈琲店から追ひ帰しても仕方のないわけだね。』 『河合さんは綺麗な人を前に置いて見るだけでいいんですわね。』 と女が云つた。 『やむをえずですよ。』 『さうだとも。』 と男が云ふ。 『おい、カンキナでも河合君にお上げよ。そしておまへもそんな所に居ずと椅子を持つておいでよ。』 男に云はれて 『え、え。』 と女は足を床に附けて立たうとした。戸口に人の来たけはひを聞いて、男は 『どなた。』 と云つた。愛嬌を目に見せたブランシユが中を覗いて、客のあるのを見て男を小手招ぎして外へ呼び出した。女は机を河合の方へ少し寄せて、出して来たカンキナの瓶とコツプを置いた。 『おかみさんはいくつですか。』 『さあ、旦那様より二つ上だとか云つてましたよ。』 黒味を帯びたカンキナが注ぎ余つて机掛の上に血のやうに零れた。 『あれやあ亭主ぢやない、男めかけだ。』 『そんなことはないんですよ。』 『あんまり男が可愛さうだもの。』 酒を半飲んだコツプを持つた儘河合は笑つて居る。 『おかみさんは二十貫位あるでせうね。』 『そんなこと、背が低いし、それに唯ぶくぶくして居るだけですもの。』 男が入つて来る後からブランシユも姿を出した。もう綺麗に髪が出来上つて居る。この女の目から受ける感じも口元の感じも全然一緒で、美くしくはないが小利口らしい活々とした顔である。髪がもうこの倍もあつたら美人の端に入れるかも知れない。未だ着物は木綿縞のダブレイをはおつた儘で居た。 『おかみさんの友達がね、帽子を買はないかと云つて持つて来たのださうだ。見せて貰うかい。』 男は女に云つた。 『さう、見てもいいこと。』 『気に入ればお買ひよ。』 『ぢやあ見せて貰ひませうね。』 河合はおかみさんと握手をして居た。ブランシユは首を振つておどけ抜いたことを云つて居た。寝台の上に置かれてあつた紙袋からおかみさんは江戸紫のびろうどの帽子を出した。絹の菊の小さい花が二つ附いて居て、庇には白いレエスが垂れて居る。 『好いこと。』 と女は嬉しさうに云つた。ブランシユが傍へ寄つて女の頭に帽を載せた。七八つも十も若くなつたやうな顔が直ぐ前の姿見に映るのを女は飽かず覗いて居た。 『いくらでせう、あなた。』 娘らしい声で云つた。男が聞くと五十フランだとおかみさんは云つた。 『あんまり勿体ないのね。』 『欲しければ買つておおきよ。』 『だつて。』 『いらなければ早くさう云つてお返しよ。』 『ぢやあかへしますわ。』 ブランシユは男から言ひ訳を聞いてうなづきながら 『こんなことをよく頼みに来るので私は困らせられるのですよ。』 と云つて、帽を提げておかみさんは出て行つた。 『晩には巴屋へでも行かうか。日本酒がもう来て居るかも知れないね。』 カンキナのコツプを持ちながら女を見て男が云つた。 『さうね。』 女は唯さう云つただけである。まだ今の帽子が目に残つて去らないやうである。 『奥さん帽を買つておおきになれやあいいのに。』 と河合が云つた。
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