「行つてみたいこともございます。」 「では行けばよいではないか。」 「行つたつてつまらないんです。」 「どうしてだ。」 「つまりませんよ、馬鹿らしうて。」 「金がないのか。」 「金はございます。」と被告は云ふと、暫くして、「困りますよ。」と低く俯向いて云つた。 「ふむふむ、ぢや何か、そのお前の噂が廓にまで拡つてゐるとみえるね。」 被告は黙つてゐた。 「いつ頃から行かなくなつたのだね。」 「もう一年以上行きません。」 「さうか、そして、その最後のときはどうだつた。つまりどんな目に会つたのかと云ふのだ。何かつまらないと思ふやうなことでもあつたのかね。」 「私が行くといやな顔をします。」 「ふむふむ、いやな顔をね、何とか云ふのか。」 「はい。」 「何と云つたのだ。」 「幽霊が来たと申します。」 「ふむ、それはどう云ふ意味のことだかお前は知つてゐるのかね。もつともお前に関したことだらうが、成程ね、幽霊か。」 「家内のことだらうと思ひます。」 「ふむ、成る程、それは困つたことだ。遠くの廓へ遊びに行けばよいではないか。それとも何か行かなくともいいやうな所があるのかね。」 「いえ、ございません。」 「ないのか、なくては困るであらう。夜はよく眠れるかね。」 「眠れません。」 「さうであらう。夢を見るかな。」 「はい、夢はよく見ます。」 「どう云ふ種類の夢を一番よく見るか。」 「歯の抜ける夢をよく見ます。それから、熟柿のべたべた落ちる夢も時々みます。」 「ははア、酔漢の通つた前夜はどんな夢を見たかな。」 「それはよく覚えてをりません。」 「ふむ、覚えてはゐないか。お前はその酔漢を見たとき、どう思つたか、粋客だとは思つたらうね。」 「はい、いづれ遊興に行くとは思ひました。」 「その男は金持ちだつたかね。」 「はい。」 「お前はいつも粋客を見たとき、どんな気持ちが起るかね。」 「慣れてゐますから、別にどうと云ふ気も起りません。」 「お前の勤務時間は夜の十二時だつたね。」 「はい。」 「それにしては、お前の務め時間以外のときまで見張りをすると云ふのはどうしたことかな。」 「それは癖になつてゐるのです。眠れないときだけは、いつも番をすることにしてをります。その方が私には都合が良うございます。」 「都合と云ふと。」 「その方がつまりまア楽な気がするのです。」 「人々のためを思つてではないのだね。」 「はい。」 「あの通りは坂になつてゐるし、それにお前の踏切は人通りが多いから、遅くまで見張りをしてやる方がいいではないか。」 「そんなことなど思つてはゐられませんよ。直ぐには寝つかれませんから見張りでもしてゐないと苦しくつて困ります。」 「通行人や近所の者達は、お前があまり早くから鎖をひいたり夜遅くまで見張りをしたりすることについて、どのやうな評判をするか考へたことがあるかね。」 「はい、それはいづれよく云はれてゐないとは思つてゐます。」 「では人々から悪く思はれないやうに心掛けるよりも、自分の面白いことをしてみたいと云ふのかね。」 「まア、さう云はれるとそのやうなものですが、もう私は他人の云ふやうなことなぞに気をかけないでゐるつもりです。そんなことを気にしてゐた日には、馬鹿らしくてとてもあんな仕事なんかしてゐられません。」 被告は一寸言葉を切ると、 「もう私はどうされたつてようございますよ。」とさう云つて判事を見上げた。 先手に来たな、と判事は思つた。最早やここまで来れば少し被告の頭を翻弄してかからなければ駄目だと知つた。それに被告の先手を打つたその顔が、真面目であればある程それがいかにも図々しく思はれた。が、又一方その図太さが二人の間の心理的関係を複雑に押し進めては行くものの、却つて自分の疑つてゐる事件の中心に割り込み易い隙間を作るにちがひないと判事は思つた。 「お前には世間の者らが自分の味方のやうに見えるかね。」 「そんなことは私は考へたことがございません。」 「お前が路を遮断するとき、人々が敵のやうに思へたことはなかつたかな。」 「はい、ございませんでした。」 「いや、お前に限らず踏切の番人には、心理学的に云つて、即ち学問上から考察した場合、必ず起らなければならない気持ちなんだが、それでもなかつたとお前は云ふか。」 「それは何んでございます、幾らかはございました。」 「お前はその夜、酔漢を引きとめるとき、誰もあたりに見てゐないと云ふことを知つてゐたらうね。」 「いえ、そんなことは存じませんでした。」 「前に知つてゐたと答へたではないか。」 「いえ。そんなことは申しませんよ。そんなことは申し上げません。」 「では、何ぜ知らないとさうきつぱり云ひたいのかな。」 被告は微笑を洩すと下唇を噛んで俯向いた。 「お前はその夜の行為について万事正当だと思つてゐるかね。」 「はい。」 「では、知らないと云つても、知つてゐたと云つても、お前には少しも差し閊へのない筈ではないか。」 「はい、さやうでございます。」 「お前はその夜、酔漢を引きとめる際、あの男を敵のやうには思はなかつたかな。」 「いえ、それやそんな気は起りませんでした。」 「お前は前に社会主義に関する何かの書物でも見たことがあつたかね。」 「いえ。」 「誰からかさう云ふ書物に書いてあることを訊いた覚えはないか。」 「はい。ございません。」 「お前は傭員が時間短縮を鉄道局へ迫つたとき、それに連名してゐたと云ふではないか。」 「はい。」 「では、何ぜあのやうな社会主義的な訴へに連名してゐたのかな。」 「それは仕方がなかつたのです。私にはあんなことをするのが社会主義のやることだかどうかは知りませんでした。たゞ這入れと云はれましたので這入つただけでございます。」 「お前はいつも金持ちをどんな風に思つてゐるな。」 「別にどうとも思ひません。」 「金持ちにはなりたくないのか。」 「それやならしてやらうと仰言ればなりたうございます。」 「お前に連名をすすめたものは誰かな。誰かあつたであらう。」 「誰もございません。紙が廻つて来たので見ますと、それには私の名がちやんと書いてあつたのです。それには名前の上へ賛成のものは印を捺すやうと書いてございましたので、ただ印を捺しましただけでございます。」 「誰がその紙を持つて来たのか。」 「それは私の名の前に書いてあつた服部勘次と云ふ男です。」 「その男の職業は何かな。」 「同じ踏切番でございます。ただあの男は乙種の方です。」 「乙種と云ふと。」 「昼の間だけ番をするのです。」 「お前は甲種と云ふのかな。」 「はい。」 判事はこのかなりに長い審問から、自分の質問の中心点である被告が性的な嫉妬から蕩児を轢殺したのかそれとも階級的な反感から轢殺したものかと云ふ疑ひを、相手に知らしめて了つただけで、ただ得たものは自身のその疑ひを僅かに強めることが出来たにすぎないと思ふと、彼の気持ちは一刻も早く被告に自白を迫りたくなつて来た。それには、先づ何より被告の頭に激動を与へてかからなければ無駄だと知つた。 「お前が早くから道路を遮断すると云ふのは、世間のものが敵のやうに見えたからであらうがな。」 「いえ、それはさうではございません。」 「あの道が自分のものだと思ひ出したのも、お前が独身者になつてからのことであらう。」 「いえ、さうではございませんよ。それはもう、私が務め出したときからでございます。」 「偽りを云つてはならぬ。」 「はい、それはもう最初からさう思つてをりました。」 「お前は夜遅く廓へ通ふ者達を見ると敵のやうに思ふであらう。」 「御冗談を仰言つては困りますよ。私は決してそんな考へは起しません。」 「何ぜ困るのか。」 「そんなことを仰言つては困りますよ。」 「お前に都合が悪いのか。」 「都合が悪いと云ふわけではございませんが、そんな考へなぞ起したことはございません。」 「お前はお前の都合のよいときばかり、はいはいと云つてゐたのか。」 被告は何か云ひたさうに口を動かしたが黙つてゐた。ただ小鼻がひとりぴこぴこ動いてゐた。すると、彼の顔は眼の縁を残して少し青味を帯んで来た。 「お前はあの酔漢を金持ちと見たとき、敵のやうに思つたのであらう。」 「はい。」 「事件の当夜、お前は列車の来たのを見はからつてその酔漢を突き飛ばしたのであらう。」 「はい。」 被告は窓の外を見たまま傲然としてゐた。 「さうであらう。」 被告は黙つてゐた。 「どうだ。」 「もうどうなりとして下さい。」と被告は強く云ひ放つた。 判事は被告の怒つた顔を見てゐると、事実事件の当夜の被告の行為が自分の疑ひと一致してゐるとすれば、まさか今の場合さうむきに怒ることが出来なからうと思はれて、今迄感じてゐた自分の疑ひもいくらかとけた。しかし、被告の怒りもこちらの横車を押した論理のために怒つたものと思へないではなかつた。してみれば、被告の怒りも、別に、心に覚えのないことをあるやうに云はれたときの根深い怒りとも思はれなくなつて来て、結局判事にはまた以前の疑ひが凝ひとしてつきまとつて来た。しかし、なほこれ以上審問を続けて行くとすれば、被告の反感を拭いてかからなければならなかつた。判事は顔に微笑を湛へながら静に優しく問ひ続けた。 「お前はあの轢死人に妻のあるのを知つてゐるだらうね。」 被告はまだ窓の外を見たまゝ答へなかつた。 「子供もたしかあつた筈だつたが、それも知つてゐるのかね。」 被告は矢張り黙つてゐた。 「少しもお前は知らないのかな。どうなのだ。」 「知つてゐます。」と被告は敵意を含んだ声で強く云つた。 「さうか、知つてゐるのか。お前がもしそのとき酔漢を引きとめずに、素直に通してをいてやつたら、あの男を死なさずに済んだであらうとは思はないかな。」 被告は黙つてゐた。 「もしお前がいつも通行人に対して、優しい心を持つてゐたなら、そのときだつて故意に鎖の権利で引きとめないで通しておいたと思ふであらう。無論死人も悪い。だが、お前にしても全然いいことをしたのではなからう。たとひお前がどれほど正当であるにしろ、お前はあの踏切りでさう云ふ轢死人のないためにと置かれた番人ではないか。それにお前があの男の傍にゐなかつたらともかく、さうではなくてお前が現にその傍についてゐたのだからね。そればかりではない、お前がもしそのとき、そこにゐなかつたなら、却つてあの男も助かつてゐただらう。それにお前がゐたばかりにあの男は死んだのだ。あの男の妻はお前のことをどんな風に思てゐるか考へたことはないかな。」 判事の方を見た被告の眼は急に光つて来た。 「お前は妻のあつたときは楽しかつたであらう。」 「はい。」と被告は小さく云つた。 「お前は妻と子のある立派な一人の男を殺したのだとは思はないか。お前には楽しいことが何もないと云つたが、それは成る程よく分る。だが、あの男にはまだまだ楽いことがあつたのだ。世の中が面白かつたのだ。さう思ふであらう。」 被告は黙つて俯向いてゐた。 「あの男が死んだなら、妻と子供はどんなに困ると思ふ。お前はいゝ。お前はひとりで淋しく暮さねばならぬと云つてもそれは仕方がない。だが、残つたあの男の妻と子供は、何もわざわざ淋しく暮さないでもよいものを一生淋しく暮さねばならないのだ。お前はたとひ自分のしたことが正当だと思つても、死人の妻や子供はいつまでもお前を恨んでゐるにちがひない。矢張りお前に殺されたのだと思つてゐるにちがひない。それはお前がいくら正当だと云ひ張つたにしろ、さうは思ふまい。矢張り殺したのはお前であつて他の誰でもないのだからな。」 判事は被告の頭が垂れ下つて行くのを眺めてゐた。 「ここだツ。」と判事は思つた。彼は勝ち誇つた気持ちになつた。「お前はその男を突き飛ばしたのであらう。」と云ひたかつた。が、そのとき、被告は急に頭を上げると怒つたやうな表情をして判事を睥んだ。すると、突然腹痛でも起つたかのやうに彼の顔が顰み出すと、涙が頬を伝つて落ち始めた。 「私が殺しました。はい殺しました。」 何かに引つかかるやうな声でさう被告は云つた。判事は訳の分らぬ昂奮を感じて来た。 「お前はまだ踏切番がしたいかな。」と判事はまるきり心にもないことを訊いた。 被告は椅子の上へ腰を降すと頭をかゝへ込んだまゝ答へなかつた。 判事はかうも手易く誘ひ込まれて来た被告を思ふと、急に今迄の勝ち誇つた気持ちが薄らぐのを感じた。そればかりではなかつた。彼は彼自身漸く握り得たと思つた疑ひの確証さへも再び前のやうに取り失つた。何ぜかと云へば、彼は自分の手段が自分ながらいかにも巧妙であつたと賞讃したい程であつたから。実際いかなるものと云へども、譬へばもしも明らかに故意の殺人ではなかつたと知り得ることの出来る判事自身でさへ、被告の立場に置かれたとき、その巧みな判事の言葉のために被告と同じ悲しみの言動に落されない者はあつたであらうか。それを思ふと、判事の疑ひは却つて彼自身の弁舌の巧みさに邪魔されてまた尽く迷蒙の中に這入つていつた。しかし、それかと云つて彼はまだ自分の疑ひを捨て去ることは出来なかつた。そこで、彼は被告から最も信用すべき自白の言葉をきくためには、今一度被告に投げ与へた悲しみを逆に取り消してかからなければならないのを知つた。 「お前は前にあの酔漢を見たと云つたね。」 被告は答へなかつた。 「よく知つてゐたのかな。」 被告は何かを飲み込むやうに「はい。」と云つた。 「あの男はいつも泥酔してゐたのかね。」 「はい。」 「お前は妻のあつたとき、廓へは行つたことがあつたか。」 「ございません。」と被告は鼻声で云ふと赤くなつた眼で判事を見た。 「ふむ、お前はあの酔漢の妻が困つてゐたのを知つてゐたのか。あの妻は困つてゐたのだ。毎夜毎夜良人が夜遊びをして家を空けるので困つてゐたと云ふことだ。お前は何かね、あの男と妻とが、いつも争ひをし続けてゐたのも知らなかつたのかね。」 「はい。」と云つて、被告は鼻を拭いたが、直ぐまた頭をかかへた。 「妻から離縁を迫られてゐたさうだ。ああ云ふ放蕩者は実際の所を云ふと、死んでも別に差し閊へがないのだが、本官は一応取り検べる必要上お前を悲しませてみただけである。さう悲しまなくともよい。多分お前は列車の近づくのが分らなかつたのであらうね。」 被告は黙つてゐた。 「お前は最後までその男の出て行くのを引きとめてゐたのであらうな。」 矢張り被告は答へなかつた。彼は大きく溜息をつくと顔を顰めた。 「そこが大切な所ではないか。どうだ。さうであらう。」
上一页 [1] [2] [3] 下一页 尾页
|