「ぢや、新らしい仕事なんて、どこにある?」 「あるわ。ここに。あなた、一枚お幣を出してごらんなさいな。」 「よし、その手は分つた。」 「あなたのお豪い所は、そこなのね。」 「何に、もう一度云つてみてくれ。」 「そら、そこ。あなたはあたしと、本当に馬が合つてゐるんだわ。あたしはあなたを、馬鹿にときどきするんだけど、かうしてゐられるのもあなたの人柄がさせるのよ。まアあなたは七階まで運動なさるだけあつて、爽やかで、闊達で、理解があつて、善良で、朗らかに光つてゐる癖に傲慢な所がちつともなくて。」 「また、一枚とられるな。」 「あなた、お止しなさいよ。そこがあなたのいけない癖よ。運動なすつたいい癖が台なしだわ。」 「だつて、あまりやつつけられちや、口止めする方が安全だよ。」 「あなたは、他の女の方にお出しになる手を、あたしにまで出さうとなさるから虐めるの。あたしがあなたからお金をいただいてゐるのは、あなたの生活をただお助けしてゐるだけよ。あなたはお金を撒くことだけが、生活なの。」 「まア、云はば、君は少し野暮臭い、と云ふ方の女だよ。僕に意見をしてくれるのはありがたいが、もう少し、僕の金の撒き方に好意を見せてくれてもいい。」 「だつて、好意の見せ場が見つからないわ。あたしが一寸愛嬌を振り撒くと、また一枚と来るんでせう。それぢや出て来る愛嬌だつて溜らないわ。あたしには、あなたがお腹で、あたしの愛嬌にお点を点けていらつしやるのが分つてゐるの。これからあたしが愛嬌を振り撒いたら、あなたを馬鹿にしてゐるときだと思つてゐて頂戴。」 これが能子だ。久慈が金で創つた永遠の女性の頭だけは、いつまでたつても頭を横に振り続ける。久慈は能子に逢ふと世界が新鮮に転倒した。彼女は酒だ。彼は能子の唇を狙つて傾いて行く患者である。 水滴型の自動車が、その膨れた尖端で、街を落下するやうに疾走した。久慈と能子がホテルへと行くのである。ガードの下腹。鉄の皮膚に描かれた粗剛な朱色の十字を指差して、能子は云つた。 「あなた、あたしはあれが恐いの。」 久慈が振り向くとガードの上を貨物列車が驀進した。擦れ違ふオートバイ。電車の腹。警官の両手をかすめてトラツクが飛び上る。キヤナルの水面に光つた都会の足。下水の口で休息してゐる浚渫船。 「あなた、あたしは、あれが好きなの。」 ホテルでは、クツシヨンの中から百貨店の匂ひがした。久慈は上着を脱いでテラスヘ立つた。噴水のアーチの中を二羽の鵞鳥が夢のやうに泳いでゐる。 「まア、あれを御覧なさいな。あれは古風な恋愛よ。あたしはあんなのを見てゐると、羽根枕を目茶苦茶に叩きつけてやりたくなるの。」 「君には情緒といふものがないんだね。」 「ええ、さう、あたしはあんな鵞鳥を見てゐると、この欄干の上で逆立ちしてみたくてならないの。」 「僕は君とは反対だ。先づここで煙草を吸つて、」 「あなたには進化といふものがないんだわ。もしあたしがあなただつたら、首を縊るより仕方がないわ。」 「もし僕が君だつたら、刑務所へでも這入りたい。」 「ぢや、とてもあなたとは駄目なのね。あたし、こんなことをしてゐても、明日の朝は電車で足を踏まれぬやうに、と思つてゐる人間なの。」 「所が、僕は、君がいたつて好きなんだ。」 「まア、もう少し、お上手にお仰言つたつて。」 「いや、さう云はれると羞しくなるんだが。」 「あたし、あなたのお顔を見てゐると、競子さんに黙つて来たのが残念だわ。」 「競子は競子。」 「能子は能子? ね、あなた、ちよつとこちらを見て頂戴。あたしは今夜は、顔を洗ひに来たんだから、もうシヨツプガールぢやないことよ。まあ、鵞鳥だつて、あんなに優しく二人の前で泳いでゐるし、あたしだつて、ここのボーイを蹴飛すぐらゐなんでもないわ。」 「いや、今夜はなるたけ、音無しくしてゐてくれ給へ。」 「あたしは、あなたが好きなのよ。こんなに、こんなに云つたつて。あらあら、あれはシエラザアト、あなた。ちよつと。」 能子は石の上に上つてゐる久慈の手を持つて、引き摺り降ろすと、突きあたりながら踊り出した。 「君は、なかなか乱暴だ。」 「だつて、あなたのお店がいけないんだわ。あたしは気取つたことなんかしてゐると、首の骨が痛み出すの。あたしは動かないでじつとしてると、草のやうになつて了つて風邪をひくの。」 「それや野蛮だ。」 「あたしは野蛮人が大好きよ。あの裸体姿を見てゐると、身体が風のやうに拡つて飛びたくなるの。」 「君には進化と云ふものがないからだ。もし僕が君だつたら、首を縊るより仕方がない。」 「あら、あなたには進化がないから、そんなことを仰言るんだわ。野蛮人を軽蔑するのは、文明人の欠点よ。」 「それなら君は、自分の親父と結婚するに限るのだ。」 「まア、あなたは、結婚とはどんなことだか御存知ないと見えるわね。」 「冗談はよし給へ。これでもまだ結婚だけはしたことがないんだよ。」 「ぢや、どうぞ御自由にして頂戴。あたしはそのとき、そつとあなたのお顔を見て上げるわ。そしたらあなたは、きつと野蛮人のやうなお顔をなすつて、まア結婚なんて、だいたい、こんなものさつて仰言るわ。」 「それなら僕と、結婚してみるのが一番だ。」 「まア、そんなに恐はさうなお顔で仰言らなくても、あたし、結婚なんかいたしませんわ。」 「いや、結婚すると云ふことは、こんなに骨の折れることだとは思はなかつた。さあどうぞ。」 久慈の示した部屋の方へ、能子は扇子を使ひながら、ひらひら笑つた仮面のやうに這入つていつた。久慈は部屋の羽根枕にもたれかかると、黙つて能子の膝を軽く指さきで叩き出した。 「あなたは、あたしの着物が、よほどお気に召さないと見えるのね。これでもあたしは、あなたのお店でいただいたものなのよ」 「いや、これがそれほど大切な着物なら、いま一枚上げてもいい。」 「ええ、どうぞ、あたしはあなたとお逢ひしてると、着物がほしくて仕方がないの。これはきつと、あなたが上品なせゐなのね。もしあなたが野蛮人だつたら、あたしはあなたの前で、裸体になつて踊つてみるわ。」 「僕は一度君のさう云ふ所も見たいのだ。」 「まア、あなたはさう云ふときだけは、野蛮人に好意をお持ちなさるのね。」 「かう云ふ羽根枕の上へ並んだら、もう野蛮人の話だけはよし給へ。」 久慈の片手が能子の胴に絡らんで来た。能子は久慈の膝の上へ飛び移ると、櫓を漕ぐやうに身体を前後に揺り動した。彼女の頭にささつたクリリツカスのヘヤピンが、久慈の眼鏡をひつ掻いた。彼は顔を顰めながら彼女の唇の方へ自分の頬を廻していつた。と、能子はスタンドの傘をくるくる廻しながら、 「鬱子、桃子、丹子、鳥子、まア、沢山で賑やかね。」 「ここは、デパートメントぢやないんだよ。」 「だつて、あなたのために、歌を歌つて上げたつて、悪くはないわ。」 「今日は、芽出度い結婚式だ。縁起の悪いことは云はぬがいい。」 「そんなことを仰言ると、いつも競子さんはどんなことを仰言つて?」 「さア、立つた、今夜は僕は、侮辱されに来たんぢやない。」 「まア、ぢや、あなたはあたしと結婚なさるおつもりなの?」 久慈はいつまでも黙つてゐる。 能子は久慈の膝から立ち上つた。彼女は久慈を睨みながら、強く一振りスタンドの傘を廻すと黙つて部屋の外へ出て行つた。 今日は昨日の翌日だ。エレベーターは吐瀉を続けた。オペラパツクを嗅ぐ女。コンパクトの中へ浸つた女。デコルテアトレーンにモンタント。能子は朝から早くパラソルの垣根の中で、青春とはかくのごとしと云ふかのやうに、ぽんぽん羽根枕を叩いてゐる。久慈は休息の時間が来ると、頭のとれた「永遠の女性」の手足を眺めにまたことこと七階まで昇つていつた。
底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社 1981(昭和56)年8月31日初版発行 底本の親本:「新選横光利一集」改造社 1928(昭和3)年10月15日発行 初出:「文藝時代」 1927(昭和2)年9月1日発行、第5年第9号 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。 入力:高寺康仁 校正:松永正敏 ファイル作成:野口英司 2001年12月10日公開 2003年6月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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