……ここいらに違いない……と気が付いて見廻わすとツイ鼻の先に、軒先一面にペンペン草を生やした陰気な空屋があって、閉(た)て切った表の戸口に「売貸家(うりかしや)」と書いた新聞紙がベタベタと貼ってある。その左隣は近ごろ開店したらしい青ペンキの香(におい)のプンプンする理髪屋(とこや)で、右隣は貧弱な荒物屋兼駄菓子屋だ。どうもこの家(うち)らしいと思って、右側の駄菓子屋のお神(かみ)さんに聞いてみると果してそうだった。 「何か判然(わか)りまっせんばってん、事件から後(のち)、夜になると隣家(となり)の家(うち)の中をば、火の玉が転めき廻わるチウお話で……」 と魘(おび)えたような眼付をした。その火の玉というのは、犯人が被害者の隠している金(かね)を探している懐中電燈の光りじゃなかろうか……といったような想像が、直ぐに頭へピーンと来た。だいぶ神経が過敏になっていたらしい。 「隣家(となり)の地面はまだ売れないんですね」 と店先の燐寸(マッチ)でバットに火を点(つ)けて神経を鎮(しず)めながら聞くと、 「イイエ。貴方(あなた)。人殺しのあった家(うち)チウて、あんまり評判が悪う御座いますけに誰も買いに来(き)なざっせん。わたしの家も気味の悪う御座(ござん)すけに、どこかに移転(うつ)ろうて云いおりますばってんが、この頃、一軒隣に、新しい理髪屋(かみつみや)が出来まして、賑やかしうなりましたけに、どうしようかいと考え居(と)ります」 「ヘエ。あの理髪屋(とこや)はここいらの人ですか」 「いいえ。どこの人か、わかりまっせんばってん、親方さんが愛嬌者だすけに、流行(はや)りおりますたい。あなた……」 「僕は隣家(となり)の空屋を見たいんですがね」 「ヘエ……あなたが……」 「僕が……実は隣家(となり)を買いたいんですが」 お神さんは妙な顔をして吾輩を見上げ見下(みおろ)した。ドンナに見上げても見下しても家屋敷を買おう……なんていう御仁体(ごじんてい)でない事を自覚していた吾輩は、内心ヒヤヒヤしながら拾い物のステッキを斜(ななめ)に構えて、バットの煙を輪に吹いて見せた。するとお神さんが、慌てて襟元を繕(つくろ)って、櫛巻髪(くしまきがみ)を撫で上げて敬意を払ったところを見ると、多分ソレ位の金持に見えたのであろう。 「ヘエ。それは貴方……それならこの家(うち)の裏からお這入りなさいまっせえ。表の戸口は鍵掛(かか)ってはおりまっせんばってん、裏口の方からは眼立ちまっせんけに……どうぞ……」 お神さんは吾輩が、もしかすると隣家(となり)へ来る人かも知れないと思ったらしく早くも親切と敬意を見せ初めた。ここで本格式に行くとこのお神さんを捕まえて、根掘り葉掘り当時の状況を聞き訊すところであったが、気が急(せ)いていたのであろう、吾輩はそのまま駄菓子屋の裏庭を通り抜けて、問題の空屋の裏口から、コッソリと這入って行った。 勿論被害者の後家さんが何とか処分したものと見えて、家(うち)の中の畳は一枚も敷いて無いし、建具も裏二階の階子段までも外(はず)してあった。台所には水棚も水甕(みずがめ)も無く、漬物桶を置いたらしい杉丸太の上をヒョロ長い蔓草(つるぐさ)が匍(は)いまわっていた。空屋特有の湿っぽい、黴臭(かびくさ)い臭いがプンと鼻を衝いた。 犯行の現場(げんじょう)は直ぐに判明(わか)った。裏口から這入ると、田舎一流の一間幅ぐらいの土間が表の通りへ抜け通っている。その右側は土壁で、左側に部屋が並んでいる。その中でも表の八畳が下駄を並べた店らしく、ホコリだらけの棚が天井裏からブラ下がっている。その次の六畳の中(なか)の間(ま)が被害者……仏(ほとけ)惣兵衛の仕事場だったらしく、土間の上(あが)り框(がまち)の真上の鴨居(かもい)に引き付けた電燈の白い笠が半分割れたまま残っている。球は無くなっているが、土間の上の屋根裏の天窓から射し込む、青い青い空の光りで見ると、その上り框の前の土間に、血の上に灰を撒(ま)いたらしい一尺四方ばかりの痕跡が一個所残っている。その灰の痕跡は最初、堆(うずたか)かったものであろうが、血餅(ちのり)が分解して土間に吸い込まれるし、盛上った灰が又、湿気のためにピシャンコになっているので、その下に在った塵屑(ごみくず)の形を、浮彫(レリーフ)みたいに浮き出させている。マッチの棒、鼻緒の切端(きれはし)、藁切(わらきれ)など……その中に煙草の吸殻らしいものが一個、平べったく粘り付いているのが眼に付いた。多分、犯行当時は真黒な血餅の下に沈んでいたので、誰にも気付かれないまま灰を振りかけられたものであろう。 その吸殻に懐中電燈を照しかけながら、念入りに検分してみると、それは半分以上吸い残した両切(りょうぎり)煙草が、血の湿気のために腹を切って展開(ひろが)った奴で、バットかエアシップぐらいの大きさの巻きらしい。ステッキの尖端でその周囲を引っ掻いてみたが、吸口(すいくち)らしいものはどこにも見当らなかった。ただ血と灰とが混合して発生したらしい※(えぐ)い、甘い臭気がプーンとしただけであった。吾輩はホッと溜息をして顔を上げた。 金口(きんぐち)でない両切煙草を、吸口無しで吸う奴は、相当のインテリだろう。新聞記事によると、殺された老爺(じじい)は傍に刻(きざ)みの煙草盆を引寄せていたというのだから十中八九、これは犯人が吸い棄てたものではないか……しかも半分以上残っているところを見ると、吸いさしたまま投棄てて犯行に移ったものではないか。その上から血餅が盛り上り、灰が引っ被(かぶ)さって今日(こんにち)まで残っていたものではないか。犯人が絶対に予期しなかった……同時に警察にも新聞記者にも気付かれなかった偶然の結果が、今日に到って、吾輩の眼の前に正体を暴露しているのではないか。 ……占(し)めた……名探偵名探偵。何という幸先(さいさき)のいい発見だろう……これは……。 ……神は正直の頭(こうべ)に宿るだ。吾輩の投げた一銭玉に八幡様が引っかかったらしい……。 ……モウ他には無いか……スバラシイ手懸りは……。 吾輩は暗い空屋の中で朗らかになりかけて来た。すこし注意力を緊張さえすれば名探偵になるのは造作もない事だ……なんかとタッタ一人で増長しいしい消えたバットに火を点けた。悠々たる態度でその血の痕跡(あと)と、上り框の関係を見較べた。 被害者の右脇に在る鉄槌(かなづち)を右手で(犯人を右利きと仮定して)取上げて、老爺(おやじ)の頭を喰らわせるのに都合のいい位置を考え考え、上り框に腰を掛け直してみた結果、老爺の右手の二尺ばかり離れた処が丁度いいと思った。 吾輩……すなわち犯人は、おやじがどこかへ現金を溜めている事を人の噂か何かで知っている。だから家内の様子を見定めるつもりで……泥棒に這入る瀬踏みのつもりで、夜遅く、老爺がタッタ一人で寝ているところを、近所へ気取(けど)られないように呼び起して、取りあえず上等の下駄を買って、上等の鼻緒をスゲさせている……つもり[#「つもり」に傍点]になってみる。そうして正直者の老爺が一生懸命に仕事をしている隙(すき)に、煙草を吹かし吹かしジロジロとそこいらを見廻していたであろう犯人の態度を真似てみる。つまり一廉(ひとかど)の名探偵を学んだ独芝居(ひとりしばい)であるが、やってみると何となく鬼気が身に迫るような気がする。そのうちに、フト頭の上の半分割れた電燈の笠を見上げたトタンに我輩は又、一つの素晴らしいインスピレーションにぶつかった。犯人のその時の心理状態がわかったように思ったので、吾ながらゾーッとさせられた。 その電燈の位置と、血の痕跡(あと)の位置とを見比べて、老爺(おやじ)が仕事をしている状態を想像すると、ちょうど電燈の真下の処に老爺の禿頭(はげあたま)が来る事になる。デンキとデンキの鉢合わせだ。嘸(さぞ)テカテカと光っていた事であろう。 近所隣家(となり)は寝鎮(ねしず)まった、深夜の淋しい横町である。ほかには誰も居ない空屋同然の家の中で、両切(りょうぎり)を吹かしながらその禿頭を睨んでいた犯人の気持は誰しも想像出来るであろう。そこへ何も知らない老爺が、鼻緒を引締めるために、力を入れながら前屈(まえかが)みになる。テカテカ頭を電燈の下にニューと突き出す。トタンに使い終った重たい鉄槌(かなづち)を無意識に、犯人の鼻の先へゴロリと投出す。 ……これじゃ殴らない方が間違っている。何の気も無い人間でもチョットの間(ま)……今だ……という気になるだろう。笑っちゃいけない。そんな千載の一遇のチャンスにぶつかれば吾輩だって遣る気にならないとは限らない。禿頭と鉄鎚の誘惑に引っかからないとは限らない。人間の犯罪心理というものはソンナところから起るものだ。つまりこの事件はホンノ一刹那に閃めいた犯罪心理が、ホンノ一刹那に実現されたものに過ぎないのではないか……という事実が考えられ得る。両切を吸口無しで吸ったり、上等の下駄を穿いたりするインテリならば……殊に虚無主義的(ニヒリステック)な近代の、文化思想にカブレた意志の弱い人間ならば尚更、文句なしに、そうしたヒステリー式な犯罪をやりかねないであろう可能性がある。 吾輩はズット以前、借金取(とり)のがれの隙潰(ひまつぶ)しに警視庁の図書室に潜り込んで、刑事関係の研究材誌を読んだ事がある。その時に何とかいう仏蘭西(フランス)の犯罪学博士の論文の翻訳の中に出ていた「純粋犯罪」という名称を思い出した。犯罪に純粋もヘチマも在ったものではないが、つまり何の目的も無しに、殺してみたくなったから殺した、盗んでみたくなったから万引したという、ホントウの慾得を忘れた犯罪心理……生一本(きいっぽん)の出来心から起った犯罪を純粋犯罪というのだそうで、この種の犯罪は世の中が開けて来るに連れて殖(ふ)えて来るものである。如何なる名探偵と雖(いえど)も、絶対に歯を立て得ない迷宮事件の核心を作るものは、外ならぬこの「純粋犯罪心理」……とか何とか仰々(ぎょうぎょう)しく吹き立ててあった。……まさかソレ程の素晴らしい、尖端的なハイカラ犯罪が、勿体なくも八幡宮のお膝下に住居(すまい)する仏惣兵衛の、正直の頭(こうべ)に宿ろう等(など)とは思われないが、しかし現場から感じた吾輩のインスピレーションの正体は、突飛(とっぴ)でも何でも、たしかにソレなんだから止むを得ない。つまるところ全くの初心者が偶然に演出した迷宮事件の傑作としか思えないのだから止むを得ない。 だから犯人はアトで自分の犯した罪の現場(げんじょう)の物凄さに仰天して狼狽して逃出したのではないか。だから犯人のアタリが全然付かないまま事件が迷宮に這入ってしまったのではないか。論より証拠……そう考えて来ると万事都合よく辻褄(つじつま)が合って来るではないか。あらゆる材料が必然的に絶対の迷宮に行詰って来るではないか。 ……ナアンダイ……。 迷宮を破りに来て、迷宮を裏書きしていれあ世話はない。 ……どうも驚いた。最初には目的無しの犯罪は無いと断定していた吾輩のアタマが、物の一時間と経たない中(うち)に今度は、正反対の断定を下している。そうした事実を物語る厳然たる事実を認めて面喰っている。……どうも驚いた……。 金箔(きんぱく)付の迷探偵が一人出来上った。八幡様の一銭がチット利き過ぎたかな。それとも名探偵のアタマが少々冴え過ぎたかな……と思い思い吾輩は縁日物の中折(なかおれ)を脱いで、東京以来のモジャモジャ頭を掻き廻わした。同時にムウッとする程の頭垢(ふけ)の大群が、天窓の光線に輝やきながら頭の周囲に渦巻いた。 いけないいけない。コンナに逆上(のぼ)せ上っては駄目だ。気を急(せ)かしては駄目だ。一つ頭髪(あたま)でも刈直(かりなお)して、サッパリとしてからモウ一度、ここへ来て考え直してみるかな。 吾輩は表の戸口をソッと開いて横町の通りへ出た。 すぐ隣家(となり)の、新しい理髪屋(とこや)の表の硝子(ガラス)障子を、ガラガラと開いた。 「いらっしゃいまし」 という女みたような優しい声が聞こえた。火鉢の横に腰をかけて、長羅宇(ながらう)の真鍮煙管(きせる)で一服吸っていた、若い親方が、直ぐに立って来た。 吾輩は一瞬間ポカンとなった。トテモ福岡みたいな田舎に居そうにもない歌舞伎の女形(おやま)みたいな色男が、イキナリ吾輩の鼻の先にブラ下がったので……。 吾輩も色男ぶりに於ては、東京初下(はつくだ)りの自信をすくなからず持っているつもりであるが、残念ながらこの若い親方にはトテモ敵(かな)わないと思った。 一軒隣りの荒物屋のお神さんが移転(ひっこ)すのを考えているというのも無理はないと思った。芝居の丹次郎と、久松と、十次郎を向うに廻わしてもヒケは取りそうにないノッペリ面(づら)が、頬紅、口紅をさしているのじゃないかと思われるくらいホンノリと色っぽい。それが油気抜きの頭髪(あたま)にアイロンをかけてフックリと七三に分けている。 白い筒袖の仕事着を引掛けているから着物の柄はわからないが、垢の附かない五日市の襟をキュッと繕って、白い薄ッペラな素足に、八幡黒(やはたぐろ)の雪駄(せった)を前半(まえはん)に突かけている。江戸前のシャンだ。二十七八の出来盛(さか)りだ。これ程の男前の気取屋(きどりや)が、コンナ片田舎のチャチな床屋に燻(くす)ぼり返っている。……おかしいな……妙だな……と男ながら惚れ惚れと鏡越しに見恍(みと)れているうちに、若い親方は、吾輩の首の周囲(まわり)に白い布片(きれ)をパッと拡げた。 「お刈りになりますので……」 と前こごみになって吾輩の顔を覗き込む拍子に、その白い仕事着の懐中(ふところ)から、何ともいえない芳香がホンノリと仄(ほの)めき出た。 馬鹿馬鹿しい話だが吾輩の胸がチットばかりドキドキした。……江戸ッ子に似合わないイヤ味な野郎だな……とアトからやっと気が付いた位だ。 「失礼ですが旦那、東京の方で……」 若い親方が吾輩の首の附根の処でチョキチョキと鋏(はさみ)を鳴らし初めた。 「ウン。これでも江戸ッ子のつもりだがね」 「東京はドチラ様で入らっしゃいますか」 少々言葉付きが変態である。江戸前の発音とアクセントには相違ないが、語呂(ごろ)が男とも女とも付かない中途半端だ。しかし愛嬌者と聞いたから一つ話相手になってやろうか……気分の転換は無駄話に限る……事によると隣家(となり)の迷宮事件のヒントになる事を聞き出すかも知れない……と気が付いたから出来るだけ気軽く喋舌(しゃべ)り初めた。 「東京だってどこで生れたか知らねえんだ。方々に居たもんだから……親代々の山ッ子だからね」 「恐れ入ります」 「君も東京かい」 「ヘエ……」 と云ったが言葉尻が聊(いささ)か濁った。 「いい腕じゃないか。鋏が冴えてるぜ。下町で仕込んだのかい」 「ヘエ……」 と又言葉尻が薄暗くなる。愛嬌者だというのに、どうも、おかしな男だ。東京を怖がっているような言葉尻の濁し方だ。多分東京で色事か何かで縮尻(しくじ)って落ちぶれて来たんだろう。東京と聞くとゾッとするような思い出があるんだろう。 「どうしてコンナ処へ流れて来たんだい。それくれえの腕があれあ、東京だって一人前じゃないか。ええ?……」 「そんなでも御座んせん」 「ござんせん」がイヤに「ござんせん」摺(ず)れがして甘ったるい。寄席(よせ)芸人か、幇間(たいこもち)か、長唄鼓(つづみ)の望月(もちづき)一派か……といった塩梅(あんばい)だ。何にしてもコンナ片田舎で、洗練された江戸弁を相手に、洗練された鋏の音を聞いているともうタマラなく胸が一パイになる。眼を閉じていると東京に帰ったようななつかしい気がする。 「どうだい。東京が懐かしいだろう」 「……………」 今度は全然返事をしない。よっぽど気の弱い男と見える。 「ずいぶん掛かるだろうなあ。コレ位の造作(ぞうさく)で理髪屋(とこや)を一軒開くとなると……ええ?……」 「……………」 話頭(はなし)を変えてみたが、依然として返事をしない。眼を開(あ)いて鏡の中を見ると、真青になったまま、婆(ばばあ)じみた、泣きそうな笑い顔をしいしい首を縮めて鋏を使っている。鏡越しに顔を見られたので、仕方なしに作った笑顔らしかった。 「ヘエ。すこしばかり……山が当りましたので……」 とシドロモドロの気味合いで答えた。まるで警察へ行って答えるような言葉遣いだ。……どうも怪訝(おか)しい。とにかく一種変テコな神経を持った男に違いない……と思った。それでも頭髪(あたま)はナカナカ上手に刈れている。吾輩の薄い両鬢(りょうびん)に附けた丸味なぞ特に気に入った。巾着切(きんちゃくきり)かテキ屋みたいに安っぽい吾輩の顔の造作が、お蔭で華族の若様みたいなフックリした感じに変って来たから不思議だ。 「山が当ったって相場でも遣ったのかい」 「……ヘエ……まあ。そんなところで」 若い親方の返事がイヨイヨ苦しそうである。吾輩は又、話頭(はなし)を変えた。 「隣りの家(うち)ねえ」 「ヘエッ……」 トタンに若い親方の顔が、鏡の中でサッと変った。鋏を動かす手がピッタリと止まった。ヨクヨク臆病な男と見える。そんなに魘(おび)える位なら、そんな恐怖(こわ)い家の近くへ来なけあいいにと思った。 「実はねえ。あの隣家(となり)の屋敷を買いたいと思って、今日覗いて来たんだがね。持主は誰だい……今のところ」 「……ヘエ……あれはねえ……」 若い親方の顔色が、見る見る柔らいで来た。肩の下と両頬に赤味がポーッと復活して来る中(うち)に鋏がチャキチャキと動き出した。 「あれはですねえ。今んところあの一木ってえお爺さんの後家さんのものになっているんですがねえ。実はあっし[#「あっし」に傍点]頼まれているんですけども……」 「フウン。心安いのかい後家さんと……」 若い親方の顔が急に苦々しい、虫唾(むしず)の走りそうな恰好に歪(ゆが)んだ。同時にその眥(めじり)がスーッと切れ上って、云い知れぬ殺気を帯びた悪党面(づら)に変った。 「いいえ。……その……別にソンナ訳じゃありませんけど、あの後家さんがツイこの間来ましてね。呉々(くれぐれ)もよろしく……買手があったら安く売りますからってね」 「フウン。君はそれじゃ、古くからここに居たんだね」 親方は白い眼尻でジロリと吾輩の顔を見た。不愉快そうに答えた。 「いいえ。ツイこの頃ここに来たんですけどう」 「いつからだい……」 ここまで尋ねて来るうちに吾輩はヤット気が付いた。どうも最前からの話ぶりが陰気臭い。怪訝(おか)しい怪訝しいと思ったが、この男の過去には何か暗いところがあるらしい。おまけに被害者の後家さんと懇意らしいところをみると、これは何かしら大きな手がかりになるかも知れない。相場が当った……とか何とか云っているがヒョッとすると……そう思うと吾輩の胸が又も、別の意味でドキンドキンとした。 しかし……それにしても迂濶(うっかり)した事は尋ねられない。何しろ相手は腕の冴えた職人に在り勝ちな一種特別の神経の持主だ。虫も殺さない優しい顔を一瞬間に老人の顔から、悪党面(づら)へとクラリクラリ変化させる位カンの強い人間だから、万一、この男が事件に関係を持っているとすれば、既に今まで尋ねた事柄だけでも、尋ね過ぎる位、手厳しく突込んでいる筈だ。身に覚えのある人間なら、余程の自信が無い限り、トックの昔に感付いている筈だ。 況(いわ)んやその当の相手は、現在ドキドキと磨(と)ぎ澄ました大型の西洋剃刀(かみそり)を持って、吾輩の咽喉(のど)の処を、ゾリゾリやっている。もしもこの男が、所謂「純粋犯罪」を遣りかねない種類の脳髄の持主で、吾輩に感付かれたと感付くと同時に、今が絶好のチャンスだ……気が付いたら最後、吾輩のグリグリの処あたりをブッツリと遣らないとは限らないだろう。そうなったら羽束友一、生年二十四歳……アアもスウもない運の尽きだろう。中途で警察の世話にならないように……と山羊髯が云ったのは、もしかするとここの事かも知れないぞ……人通りの無い淋しい横町だし、店には誰も居ないのだから……。そう気が付くと同時に吾輩は今一度、念入りにゾッとさせられた。名探偵生命(いのち)がけの冒険とはこの事だと気が付いた。左右のお臀(しり)の下が一面にザラザラと粟立ったような気がした。 ……しかし……と思い直しながら、吾輩は咳払いを一つした。若い親方がビックリして剃刀を引っこめた。 男は度胸だ。かよわい女だって荒波に潜って真珠を稼ぐ世の中だ。オマンマに有付(ありつ)くか、付かないかの境い目だ。行くところまで行ってみろ。こっちで気を付けて用心をしていたら、万一の場合でも怪我(けが)ぐらいで済むだろう。況(いわ)んや相手は蔭間(かげま)みたいなヘナヘナ男じゃないか。柔道こそ知らないが、スワとなったら、銀座界隈でチットばかり嫌がられて来たチョボ一だ。どうなるものか……と少々時代附きの覚悟を咄嗟(とっさ)の間にきめた。同時に、上等の廻転椅子に長くなって、シャボンの泡を頬ペタにくっ付けながら決死の覚悟をしている自分自身が可笑(おか)しくなったので、又一つ咳払いをした。不意を打たれた親方が又ビックリして手を離した。 「いつからここに引越して来たんだい」 「ヘエ。アト月(つき)の末からなんで……」 親方の返事は何気もなさそうだったが吾輩は取りあえず腹の中で凱歌をあげた。アト月の末といったら、ちょうど事件のホトボリが醒めかかった時分である。それだのに被害者の後家さんと識(し)り合いというのは、いよいよ怪しい。 「繁昌してるってね」 とウッカリ口を辷(すべ)らしてハッとした。近所の噂を探って来た事を疑われやしないかと思って……。しかし親方の返事は依然として何気もなかった。 「ヘエ……お蔭様で……」 「隣の家には火の玉が出るってえじゃないか」 「ヘエ……そ……そ……そんな噂で……」 「君。這入ってみたかい。隣の家に……」 「……いいえ。と……飛んでもない……」 「今時そんな馬鹿な話があるもんじゃない。ねえ親方……」 「まったくなんで。永らく空いてるもんですからね。そんな事を云うんでしょう」 「ウン。是非買いたいんだが、どうだい。坪十円ぐらいじゃどうだい。裏庭を入れて百坪ぐらいは有るだろう」 「そんなには御座んせん。六十五坪やっとなんで。裏庭の半分は他所(よそ)のなんで……」 「向うの駄菓子屋のかね」 「そうなんで……十円の六十五坪の六百五十円……じゃチョット後家さんが手離さないでしょ。建物を突込んで千円位でなくちゃ」 「坪当り十六円か。安くないなあ」 「相場だと二十四五円のところですが」 「しかし八釜(やかま)しい曰(いわ)く附の処だからな」 「旦那は御存じなんで……」 「知ってるとも……迷宮事件だろう……怨みの火の玉が出るってな無理もないやね」 吾輩の頸動脈の処から親方がソッと剃刀を引いた。頬を青白く緊張さしてゴックリと唾液(つば)を嚥(の)み込んだ。 吾輩は少々面白くなって来た。どうもこれが悪い癖なんだが……。 「ねえ。そうだろう。何の罪も無い、ただお金をポチポチ溜めて、お神さんを養生させるだけが楽しみといったような仏性(ほとけしょう)のお爺さんが、怨みも何も無い、思いがけない人間から、思いがけない非道(ひど)い殺され方をしたんだからね。殺されたッ……と思った一刹那の一念は、後を引くってえじゃないか」 親方が何気なく、剃刀を磨ぎに行った。吾輩は追いかけるように振返って問うた。 「君はドウ思うね。この犯人は……」 「……………」 親方は吾輩の質問を剃刀を磨ぐ音に紛らして返事をしなかった。しかしその一心に剃刀を磨ぐ振りをしている色悪(いろあく)ジミた横頬の冴えよう。……人間の顔というものは、心の置き方一つでこうも変るものかと思いながら鏡越しに凝視していた。そのうちに剃刀を磨ぎ澄まして神経を落付けて来たらしい親方が、さり気なく吾輩の背後に立ち廻わって剃刀を構えた。淋しい淋しい微笑を薄い唇に浮かべた。 吾輩は白い布片(きれ)の下で全身を緊張さした。両の拳を握り固めて、無念流の棄て構え……といった恰好に身構えたが、白い布片を剥(め)くったら、虚空を掴んで死にかけている人間の恰好に似ていたろう。コンナに真剣な気持で顔の手入れをしてもらった事は生れて初めてだ。 「モミ上(あげ)は短かく致しましょうか」 「普通(あたりまえ)にしてくれ給え。短かいのは亜米利加(アメリカ)帰りみたいでいけない」 「かしこまりました」 「僕は絶対に迷宮事件だと思うね。犯行の目的がわからないし、盗まれた品物も無い。女房は評判の堅造(かたぞう)で病身、本人も評判の仏性で、嚊(かかあ)孝行の耄碌爺(もうろくおやじ)となれあ、疑いをかけるところはどこにも無いだろう。要するにこれは何でもない突発事件だと思うね」 「ヘエ。突発事件……と……申しますと……」 「つまりこの犯人は、いい加減な通りがかりの奴で、最初から被害者を殺す量見なんか毛頭無かったんだ。仏惣兵衛の老爺(おやじ)がどこかに現金を溜め込んでいる位の事を、人の噂か何かで知っている程度の奴が、何の気も無く這入って来て、下駄を誂(あつら)えながらそこいらを見まわしているうちに、フイッと殺す気になったんじゃないかと思うんだがね。これで殴ってくれといわんばかりに鉄鎚(かなづち)を眼の前に投出して、電燈の下に赤いマン丸い頭をニュッと突出したもんだから、ツイフラフラッとその鉄鎚を引掴んで……」 「……………」 耳の附根の処をゾキゾキやっていた剃刀の音がモウ一度ソッと離れ退(の)いた。同時に吾輩のお尻から両股(もも)にかけてゾーッと粟立って来た。見ると若い親方は、眼を真白くなる程瞠(みは)って、鏡の中の吾輩の顔を凝視している。ピリピリと動く細い眉。キリキリと冴え上った眥(めじり)。歪(ゆが)み痙攣(ひきつ)った唇。……吾輩の耳の蔭でワナワナと震える剃刀……。 ……これは不可(いけ)ない。大シクジリだ。何とかしてこの親方を安心させて、気を落付かせなければいけない。薬がチット利き過ぎるようだ。このまま表へ飛出して行衛(ゆくえ)を晦(くら)まされたりしては面倒だ。 「アハアハアハ。どうだい親方。驚いたかい。俺あタッタ今行って現場(げんじょう)の模様を見て考えて来たんだ。何一つ盗まれていない原因もハッキリとわかったんだ。殺(や)ってしまってから急に恐ろしくなって逃げ出したものに違いないんだからね」 「……………」 「つまりアンナ空屋の中にタッタ一人で住んでいた禿頭の老爺(おやじ)が悪いという事になるんだ。迷宮事件を作るために居たようなもんだ。ねえ君。そうだろう……僕は犯人に同情するよ」 「そうですか……ネエ……ヘエ――ッ」 と若い親方が五尺ばかりの長さの溜息を吐(つ)いた。衷心(ちゅうしん)から感心してしまったかのように……。 「……おどろきましたねえ。旦那のアタマの良いのには……」 「ナアニ。外国の犯罪記録を調べてみるとコレ位の事件はザラに出て来るよ。山の中の別荘で寝しなに、可愛がって頂戴と云った女を急に殺してみたくなったり、霧の深い晩に人を撃ってみたくなってピストルを懐(ふところ)にして出かけたりするのと、おんなじ犯罪の愛好心理だ。所謂(いわゆる)、純粋犯罪というのとおんなじ心理状態が、この事件の核心になっていると思うんだ。そんな人間が都会に住んでいる頭のいい学者とか、腕の冴えた技術家とかいうものの中からヒョイヒョイ飛出す事がある……と横文字の本に書いてあるんだ。つまり文化意識の行き詰まりから生まれた野蛮心理だね」 「ヘエエ。なかなか難解(むずか)しいもんで御座いますね」 親方の剃刀が、微かな溜息と一緒に吾輩の襟筋で動き出した。同時に吾輩も心の中でホッとした。生命(いのち)がけの冒険が終局に近付いて来たらしいので……。 「日本の警察なんかじゃ、そんなハイカラな犯罪がある事を知らないもんだから、犯罪と云やあ、金か女かを目的としたものに限っているように思って、その方から探りを入れようとするんだ。だからコンナ事件にぶつかると皆目(かいもく)、見当が附かないんだよ」 「ヘエ。警察では、その目的って奴を、まだ嗅ぎ付けていないんでしょうか」 「いないとも……浮浪人狩なんか遣っているところを見ると、この事件の性質なんか全然(てんで)問題にしないで、見当違いの当てズッポーばっかり遣っているらしいんだね。そうしてこの頃ではモウすっかり諦らめて投出しているらしいね。だからこの犯人は捕まりっこないよ。絶対永久の迷宮事件になって残るものと僕は思うね」 「ヘエ。どうしてソンナ事まで御存じなんで……」 吾輩はヒヤリとした。そういう親方の声が妙に図太く聞えたので、扨(さて)は感付かれたかナ……と内心狼狽したが、色にも出さないまま、眼を閉じて言葉を続けた。 「ナアニ。僕はソンナ事を研究するのが好きだからさ。だからあの空屋(あきや)を買ってみたくなったんだよ。そんな犯罪事件のあった遺跡(あと)を買って、落付いて調べてみると、意外な事実を発見する事があるんだからね。そんな山ッ子が僕の商売なんだがね」 「へえ――。うまく当りますかね」 親方がニヤニヤ冷笑しながら云った。……吾輩の言葉の意味がわかっているのだ。犯人の盗み忘れた金(かね)を探そうと目論(もくろ)んでいる吾輩の気持がわかったので冷笑しているのだ。その金がモウ無い事を知っているもんだから……。 吾輩は腹の中で二度目の凱歌をあげた。 「ウン。僕が狙った事件で外れた事件(やつ)は今までに一つも無いよ。要するにこの頭一つが資本だがね。ハッハッハッ」 「ヘエ。珍らしい御商売ですね」 親方が又コッソリ三尺ばかりの溜息を吐いた。吾輩のチャラッポコを信じて安心したらしい。吾輩も二尺五寸位の溜息をソッと洩らしながら椅子の中から起上った。 「お待遠さま……お洗いいたしましょう」 サッパリと洗って、いい気持になった吾輩が又、椅子に腰をかけると、親方が新しいタオルで拭き上げて、上等のクリームを塗って、巧みにマッサージをしてくれた。 「……こんにちは……御免なさっせ……」 「入らっしゃい」 新しい客が来た。ここいらの安見番(やすけんばん)の芸者らしい。但、着物の着附だけが芸者と思えるだけで、かんじんの中味はヨークシャ豚の頭に、十銭ぐらいのかしわ[#「かしわ」に傍点]の竹の皮包みを載っけた恰好だ。そいつが腐りつきそうな秋波を親方に送った序(ついで)に吾輩をジロリと睨みながら、吾輩がタッタ今立上った椅子の座布団の中へドシンと巨大(おおき)な大道臼(だいどううす)を落し込んだ。愛想(あいそ)もコソもあったもんじゃない。 「イヤ。お蔭でサッパリした。ところでどうだい。今の地面の話は……モウ少し歩み寄ってもいいんだが……。決して君を跣足(はだし)にしやしないが、先方はどこに居るんだい」 「ヘエ。これはモウ……何でも門司の親類の処に居るんだそうですが、時々八幡様を拝みかたがた様子を聞きに参りますんで。モウ今日あたり来る頃と思うんですが。二三日中に来るってえ手紙が、二三日前に参りましたんで……」 「ヘヘッ。お安くないね。うまく遣ってるじゃないか一木の後家さんと……」 「じょ……じょ……じょうだん……」 と親方は何かしら顔色を変えながら芸者の方をチラリと見た。しかし吾輩は何も気付かなかった。背後を振向いた時には、大きなお尻を振り振り、表口を邪慳(じゃけん)に開けて出て行く、豚芸者の後姿が見えた。……何という変な芸者だ。そんなに待たせもしないのに……と思っただけであった。 そのサッサと帰って行く後姿を見送りながら、苦々しい表情で瀬戸火鉢の前に腰を卸して、長羅宇(ながらう)で一服しかけた親方は、何気なく吾輩が差出したバットの箱を受取ってチョット押し頂きながら一本引出した。慣れた手附で、火鉢の縁へ縦にタタキ付けて、巻(まき)を柔らかくしながら吸い付けた。 「吸口はまだ這入っているぜ……君……」 「ヘエ。どうも済みません。……わっしゃドウモこの吸口の蝋(ろう)の臭いが嫌いなんで……ヘヘ……有難う存じます。只今お釣銭(つり)を……あ……どうも相済みません。お粗末様で……」 吾輩は、五十銭玉を一個、若い親方の手に握らせて表へ出た。ブラリブラリと歩き出しながら町角を右へ曲ると、急に悪夢から醒めたように火見櫓(ひのみやぐら)の方向へ急いだ。
翌る朝、玄洋日報の第三面に特号四段抜の大記事が出た。 「筥崎の迷宮事件……下駄屋殺(ごろし)犯人捕わる……隣家(となり)の理髪店主……端緒は現場の吸殻から……」云々と……。 記事は面倒臭いから略するが、犯人の理髪屋の若親方甘川吉之介(三十)と、昨日(きのう)の正午(ひる)過ぎに、偶然に訪ねて来た被害者、仏惣兵衛の後家さんチカ(五二)が、筥崎署へ引っぱられると同時にスッカリ泥を吐いてしまった。 後家のお近婆さんは共犯ではなかったが、しかし犯行の動機は婆さんの不謹慎から生み出されたものに相違なかった。 お近婆さんは評判の通りの堅造(かたぞう)であった。結婚匆々から病身のために亭主と離れ離れになっていたせいであったろう。五十を越しても生娘(きむすめ)のように肌を見せるのを嫌がったので、行く先々の鍼灸(はりきゅう)治療師が困らせられる事が多かった。同じ治療を受けに来ている患者達の間で浮いた話が始まると、すぐに席を外すくらい物堅い女であった。 ところが俗に魔がさしたとでもいうのであろう。伊勢の天鈴堂(てんれいどう)という大流行の灸点師(きゅうてんし)の合宿所の共同風呂で、東京から神経痛を治療しに来ている理髪職人の甘川吉之介とタッタ一度、あやまって一所に入浴して以来、スッカリ吉之介に迷い込んでしまって、治療をソッチ退(の)けにして、名所名所を浮かれ廻わっている中(うち)に、亭主の惣兵衛が生前、長年の間、五十銭銀貨ばかりをコッソリとどこかへ溜め込んでいる事実を、何の気もなく喋舌(しゃべ)ってしまった。 これを聞いた吉之介は、東京で色々な女を引っかけ飽きた揚句(あげく)、親方の女房と情死をし損ねて、新聞に色魔と書かれたので一縮(ひとちぢ)みになって逃げて来た男であった。所謂(いわゆる)、江戸ッ子の喰詰めで、旅先へ出ると木から落ちた猿同然の心理状態に陥っている矢先であった。溺れた者が藁(わら)でも掴む気で、お近婆さんの好意に甘えていたもので、今ではもうウンザリしかけているところへ、この話を聞かされたので、何の事はない五十銭銀貨の山を目当てにフラフラと九州へ来て、フラフラと八幡宮横の惣兵衛の家を探し当てて、フラフラと惣兵衛を呼起して下駄を誂(あつら)えたものであった。だから惣兵衛の横に腰をかけてバットを一服吸い付ける迄の吉之介には、殺意なんか無論、無かった。その五十銭銀貨の山を盗み取る気さえ無かったという。 むろん警察ではソンナ申立ては絶対に信じなかった。無理遣りに計劃的な犯罪として調書を作り上げて検事局へ廻わしたもので、新聞記事もその調書の通りに書いておいたが、それでも後家のお近婆さんだけは大目玉を喰っただけで無罪放免をされた。つまりこの後家さんとこの事件に対する関係は、山羊髯編輯長と、警察の見込との双方ともが適中して、双方とも外れていた訳である。 その以外の事実は全部名探偵……すなわち吾輩の推量通りであった。 元来が荒事(あらごと)に慣れない、無類の臆病者の吉之介は兇行後、現場(げんじょう)の恐ろしさに慄(ふる)え上がって一旦は逃げ出して附近の安宿に泊った。しかし、それから又、五十銭銀貨の事を思い出したので、翌る晩の真夜中から、一生懸命の思いで、人目を忍んで、空屋に這入って懐中電燈の光りで探しまわった結果、やっと三晩目に台所の漬物桶の底から、真黒になった銀貨二千余円を発見するとスッカリ大胆になってしまった。その金を稀塩酸で磨いて、紙の棒に包んだのを資金として、故意(わざ)と直ぐの隣家(となり)に理髪店を開いていたところは立派な悪党であった。こうしていれば誰にも判明(わか)る気遣いは無いと、安心し切っていたものであった。だから後家さんが帰って来てから自分に疑いをかけて、何度も何度も詰問しに来たけれども都合よくあしらって、知らん顔をしていたという。その大胆不敵さには箱崎署も舌を捲いていた。 発覚の端緒は現場に捨てて在った両切の煙草であった。斯様(かよう)な微細な点に着眼して、附近に住む両切煙草の使用者を片端(かたっぱし)から調べ上げた箱崎署の根気と苦心は実に惨憺たるものあり……云々という記事であったが、この最後の文句を書き添えた吾輩の文章の苦心が、如何に惨憺たるものがあるかを知っている者は我が山羊髯編輯長だけであろう。 それはいいが、その記事の終尾(おしまい)の処に次のような記事がデカデカと一号標題(みだし)で掲載されていたのには驚いた。
密告者は芸妓(げいしゃ)だ[#見出し文字] 女の一念は恐ろしい[#小見出し文字] =犯人の第二告白=[#前の行とは0.5行アキ、「犯人の第二告白」はゴシック体]
[#ここから1字下げ] 箱崎署員の談によると、犯人は発覚の端緒を箱崎見番の芸妓(げいしゃ)某の密告と認めているらしい。犯人の告白に依ると該箱崎見番の芸妓某は犯人の男振りに夢中になり、毎日のように客足の絶えた頃を見計(みはか)らって犯人の処へ顔を剃りに来たもので、その都度、お前と下駄屋の後家さんとは兼ねてから懇意ではないかと念を押すので、犯人は知らぬ知らぬの一点張りで追払っていた。ところへ昨日、隣家の地面の事に就いて、後家さんとの交渉取次を犯人に希望する客人が来たので、後家さんが時々来る旨を迂濶(うっかり)、お客に話したのを、例の通り顔剃りに来た芸妓が耳にするや憤然として理髪店を出て行ったが、彼(か)の女(じょ)が、憤慨の余り後家さんとの関係を箱崎署へ密告したものに相違ない。女の一念ぐらい恐ろしいものはありませぬ。私は元来無類飛切(とびきり)の臆病者の神経屋ですから、人殺しをしてからというものは、あらん限り気を付けて、万に一つも手落ちの無いように心掛けていたものですが……と犯人は繰返し繰返し戦慄している。 [#ここで字下げ終わり]
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