四
フッと眼をさますと私は見慣れない病院の一室に寝ている。緑色の壁と薄紫のカアテンに囲まれた静かな、暗い、窖のような病室だ。カアテンの間から明るい青空の光りが流れ込んで、寝台の枕元から私の顔の真上に垂れ下っているスイトピーを美しく輝かしている。鼻が痲痺しているせいか芳香がしないようである。そのうちに身体中がビッショリと汗を掻いて来た。身体をモジモジと動かしてみると、フランネルか何かの寝巻を着ているようである。 「……アッ……」 という小さな叫び声が私の枕元から聞えたので、ビックリして振り返ってみると、栗色の髪をグルグル巻にした黄色いワンピースの少女、眼の大きい、唇の赤い、鼻の高い、憂鬱な檳榔樹色の少女だ。 「アダリー」 アダリーは返事の代りに大きな瞬きを一つした。印度人特有の表情の一つであろう。 「きょうは何日……」 「……五月……ジュ……サンニチ……」 「エッ……十三日……ほんとか……」 「……ホント……です……」 と云ううちにアダリーは壁際の小卓の上に置いてある新聞を取って見せた。私は引ったくるようにして日附を見た。東京昼夜新聞一万八千二十一号昭和九年五月十三日……日露国交好転……欧洲再び戦乱の兆。 「ここはどこ……」 「古木レントゲン病院……」 私は唖然となった。しかし間もなく吾に帰ると飛び上って叫んだ。 「オイ大変だ大変だ……先生……古木先生を呼んで来てくれ」 私の吃驚し方があんまりひどかったものでアダリーも驚駭したらしい。両手を頭の上に差上げ差上げアヤツリ人形のように両膝を高く揚げながら駈け出して行った。 予定の日数よりも三日ほど生き伸びている。心臓に手を当ててみると、相も変らずハッキリした流れをトクントクンと打っている。……冗談じゃない。 訳がわからぬまま、クシャクシャになった頭を掻きまわしたり、鬚だらけになった顎をゴリゴリ撫でまわしたりしているところへ扉をノックして、古木先生が悠然として這入って来た。 「ヤア。醒めましたか。頭が痛くないですか」 「そう云われてみると成る程頭が痛いし、胸がすこしムカムカするようだ。イヤ、大丈夫です。先頃はどうも……」 「アハハ。イヤ失礼しました。ビックリなすったでしょう。無断でコンナ処へ連れて来たもんですから」 「実は驚いているんです。どうしたんですか、一体これは……」 「先ずこれを御覧なさい」 古木先生はすこし真面目になって背後を振返った。古木先生の白い服の蔭に隠れていたアダリーが丸い筒を差出した。古木先生は、その筒の蓋をスポンと抜いて、中から黒い大きなセルロイドみたような正方形の紙を出した。空の方向に差し出して私に透かしてみせた。それは大きな医学用写真フイルムであった。人間の肋骨らしいものが黒く波打って並んでいる下の方に、白い雲みたようなものがボーとボヤケている。 「この白いものが貴方の心臓なのです」 「僕の心臓……」 「そうです。よく御覧下さい。ここが心臓の右心室でここが左心室です。ここから出た大動脈がコンナにグルリと一うねりして重なり合っているでしょう。おわかりになりますか」 「わかります。ゴムの管みたいに『の』の字形に曲って重なり合っているようですね」 「そうですそうです。僕はこの写真を撮るためにあなたに痲酔を利かせてこの病院に運び込んだのです。そうしてあの晩のうちに五枚ばかり瞬間写真を撮ってみたのですが、その中でも一番ハッキリ撮れたのがこの一枚です」 「ヘエッ。何のために……」 「何のためって、貴方の伯父さんに頼まれたのですよ」 「エッ。僕の伯父さん。あの須婆田の……まだ生きているのですか」 「ええ御健在ですとも。伯母さんの玉兎女史と一緒に昨夜印度へ御出発になりましたよ。銀洋丸で……」 私は眼をパチパチさした。古木学士はいよいよ眼を細くして反身になった。学士の肩の蔭で、アダリーも可笑しいのを我慢しながらうつむいている気配である。 「何だか……僕にはわかりません」 「アハハハ……。僕にも深い御事情はわかりませんが、貴方の伯母様ですね。雲月斎玉兎嬢ことウノ子さんは未だ興行界を引退なさらない前からいつも私の処へ来て深透レントゲンをやっておられたのです。つまり美容の目的から出た産児制限ですね。貴方だから包まずにお話出来ますが、私は貴方の伯母様の御蔭で大学を出て、この病院を開きましたもので、この部屋は伯母様が御入院なさる時のおきまりのお部屋だったのです」 私は今一度室内の調度を見廻した。路易王朝好み、ロダンのトルソー、セザンヌの静物画……。 「わからない。不思議だ――奇遇だ……」 「イヤ。奇遇じゃないのです。貴方が伯父様と伯母様の計略におかかりになったのです」 「計略に僕が……」 「そうです。私はよく存じております。伯父様と伯母様はよく右翼団体から狙われておいでになるので、いつも防弾衣を着ておられたのです。伯母様は又お得意の魔術をもってイザとなるとカラクリ寝台の中に逃げ込まれるので、いつも犯人が掴まってしまうのです。それを貴方は御存じないものですから伯父様と伯母様が、最早おなくなりになったものと思い違いなすったのでしょう」 私は生れて以来コンナに赤面させられた事はなかった。お前は馬鹿だよ……と云われたよりもモット深刻な恥辱を感じた。 「ちょうど四月二十九日の夜の事です。私は伯母様からお電話がかかりまして、銀座のセイロン紅茶店へ参りまして伯父様と伯母様とに、貴方の弟御さんからスッカリ御事情を承りましたが……」 「エッ。僕の弟……どうして」 「貴方が福岡を御出発なさるのを停車場で発見されて、跡をつけて御上京なすって、伯父さんと伯母さんに一切を打ち明けて御相談になったアトに、伯父様と伯母様は東京中の私立探偵を動員して貴方の御宿を探らせてやっと判明したのが、五月の十一日の午後、貴方が一足違いで築地の八方館をお出かけになった後でした。そこで伯父様と伯母様はチャント心構えをして待っておいでになるところへ、意外の出来事から貴方の伯父様に対するお気持がわかったので、伯父様は非常に喜ばれました。伯母様も貴方の弟思いの御心持にスッカリ同情されましたが、一足違いで貴方を取逃がされたのを非常に残念がり、八方に部下を飛ばして貴方の行衛を探しておられると、両国橋の方向へ行かれる貴方を発見した者が、電話で知らせた。そこで兼ねてから男装して付いていたアダリーさんが直ぐに自動車を飛ばして……」 「アッ。それではあの運転手がアダリー……」 アダリーは真赤になって古木学士の蔭に隠れた。 「アハハハ。貴方も馴染甲斐のない人ですね。アダリーさんの顔を見忘れるなんて……しかしアダリーさんも……むろん私も……お話を聞いて感心しました。あなたの勇敢さと大胆さと熱意に打たれて伯父様と伯母様は何とかして救ける道はないかというので、私に治療をお願いになったのです。それで私は、わざと貴方に感付かれないように横浜の天洋ホテルでお眼にかかったのです。あの時に申上げたのは皆私の駄法螺だったのですが……」 「エッ駄法螺。あれはみんな嘘で……」 私は又暗い気持になりかけたが、古木学士はそうした私の悲哀を吹き飛ばすように笑った。 「ハッハッ、御心配なさらずとまあお聞きなさい。私はその時に伯母様から貴方をこの病院に入れて三日間睡らせておいてくれろ。その間支度を整え印度へ逃げるからという御命令でね。で、その治療の結果を私が御報告申し上げたらお二方ともスッカリ御安心で……」 「……安心……」 「ハイ……御安心で昨夜御出発になった許りです。委細はこの手紙に書いておくからという事で……」 古木学士は白い治療着のポケツから白い横封筒を取出して私に渡した。見忘れもせぬ伯父の筆である。 『前略。俺の過去の罪悪を知っているのはお前一人だ。そのお前が俺の生命を救ってくれた。お前達二人は俺の良心だ。目的のために手段を択まなかった俺は罪悪を恐れる余りお前達二人を遠ざけていたことを詫びる。その詫びの印にお前の弟の友次郎へ私たちの財産の半分を残しておく。お前の気性はよくわかっている。両親の墓にこの旨を伝えてくれ。委細は麹町区大手三番の弁護士金井角蔵氏に会って聞け。俺達夫婦はまだ死にたくない。国家のために重大な仕事が残っているから印度へ去る。俺達夫婦が生きている間は日英の外交が破裂する心配はないと思え。外交の事は、お前達のような単純な書生にはわからぬ。気に入らないかも知らないがアダリーをよろしく頼む。まだ無垢の印度貴族の娘だ。そして直ちにQ大に復職せよ。柔道教師の本分を守れ。アダリーの身分の証明書と財産目録はやはり金井弁護士の処に在る』 「そうして……そうして……」 私は真青にふるえながら古木学士の顔を見た。 「そうして……そうして僕の動脈瘤はどうなったのです」 「アハハハ。動脈瘤じゃありませんよ。その写真の通り血管の蜿りが重なり合ったものに過ぎないのです。珍らしいものですが、よく動脈瘤と間違えて騒がれるシロモノです。貴方の運動があんまり烈しかったので、血管が圧迫に堪えかねて伸びたのですね。トテも丈夫な血管ですよ、貴方のは……貴方はキット長生き……」 私は後の説明が聞えなかった。ただアダリーがキアーッと叫んだ悲鳴が聞えただけである。気が遠くなって寝台の上に引っくり返ってしまったのだから……。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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