と青木が大きな声で返事をすると同時に、足の先の処の扉が開いて、看護婦の白い服がバサバサと音を立てて這入って来た。それはシャクレた顔を女給みたいに塗りこくった女で、この病院の中でも一番生意気な看護婦であったが、手に持って来た大きな体温器をチョットひねくると、イキナリ私の鼻の先に突き付けた。外科病院の看護婦は、荒療治を見つけているせいか、どこでもイケゾンザイで生意気だそうで、この病院でも、コンナ無作法な仕打ちは珍らしくないのであった。だから私は温柔しく体温器を受け取って腋の下に挟んだ。 「こっちには寄こさないのかね」 と横合いから青木が頓狂な声を出した。すると出て行きかけた看護婦がツンとしたまま振り返った。 「熱があるのですか」 「大いにあるんです。ベラ棒に高い熱が……」 「風邪でも引いたんですか」 「お気の毒様……あなたに惚れたんです。おかげで死ぬくらい熱が……」 「タント馬鹿になさい」 「アハハハハハハハハ」 看護婦は怒った身ぶりをして出て行きかけた。 「……オットオット……チョットチョット。チョチョチョチョチョチョット……」 「ウルサイわねえ。何ですか。尿器ですか」 「イヤ。尿瓶ぐらいの事なら、自分で都合が出来るんですが……エエ。その何です。チョットお伺いしたいことがあるんです」 「イヤに御丁寧ね……何ですか」 「イヤ。別に何てこともないんですが……あの……向うの特別室ですね」 「ハア……舶来の飛び切りのリネンのカーテンが掛かって、何十円もするチューリップの鉢が、幾つも並んでいるのが不思議と仰有るのでしょう」 「……そ……その通りその通り……千里眼千里眼……尤もチューリップはここから見えませんがね。あれは一体どなた様が御入院遊ばしたのですか」 「あれはね……」 と看護婦は、急にニヤニヤ笑い出しながら引返して来た。真赤な唇をユの字型に歪めて私の寝台の端に腰をかけた。 「あれはね……青木さんがビックリする人よ」 「ヘエ――ッ。あっしの昔なじみか何かで……」 「プッ。馬鹿ねアンタは……乗り出して来たって駄目よ。そんな安っぽい人じゃないのよ」 「オヤオヤ……ガッカリ……」 「それあトテモ素敵な別嬪さんですよ。ホホホホホ……。青木さん……見たいでしょう」 「聞いただけでもゾ――ッとするね。どっかの筥入娘か何か……」 「イイエ。どうしてどうして。そんなありふれた御連中じゃないの」 「……そ……それじゃどこかの病院の看護婦さんか何か……」 「……プーッ……馬鹿にしちゃ嫌よ。勿体なくも歌原男爵の未亡人様よ」 「ゲ――ッ……あの千万長者の……」 「ホラ御覧なさい。ビックリするでしょう。ホッホッホ。あの人が昨夜入院した時の騒ぎったらなかってよ。何しろ歌原商事会社の社長さんで、不景気知らずの千万長者で、女盛りの未亡人で、新聞でも大評判の吸血鬼と来ているんですからね」 「ウ――ン。それが又何だってコンナ処へ……」 「エエ。それが又大変なのよ。何でもね。昨日の特急で、神戸の港に着いている外国人の処へ取引に行きかけた途中で、まだ国府津に着かないうちに、藤沢あたりから左のお乳が痛み出したっていうの……それでお附きの医者に見せると、乳癌かも知れないと云ったもんだから、すぐに自動車で東京に引返して、旅支度のまんま当病院へ入院したって云うのよ」 「フ――ン。それじゃ昨夜の夜中だな」 「そうよ。十二時近くだったでしょう。ちょうど院長さんがこの間から、肺炎で寝ていらっしゃるので、副院長さんが代りに診察したら、やっぱし乳癌に違いなかったの。おまけに痛んで仕様がないもんだから、副院長さんの執刀で今朝早く手術しちゃったのよ。バンカインの局部麻酔が利かないので、トウトウ全身麻酔にしちゃったけど、それあ綺麗な肌だったのよ。手入れも届いているんでしょうけど……副院長さんが真白いお乳に、ズブリとメスを刺した時には、妾、眼が眩むような思いをしたわよ、乳癌ぐらいの手術だったら、いつも平気で見ていたんだけど……美しい人はやっぱし得ね。同情されるから……」 「フ――ム、大したもんだな。ちっとも知らなかった。ウ――ム」 「アラ。唸っているわよこの人は……イヤアね。ホホホホホホ」 「唸りゃしないよ。感心しているんだ」 「だって手術を見もしないのにサア……」 「一体幾歳なんだえその人は……」 「オホホホホホ。もう四十四五でしょうよ。だけどウッカリすると二十代ぐらいに見えそうよ。指の先までお化粧をしているから……」 「ヘエ――ッ。指の先まで……贅沢だな」 「贅沢じゃないわよ。上流の人はみんなそうよ。おまけに男妾だの、若い燕だのがワンサ取り巻いているんですもの……」 「呆れたもんだナ。そんなのを連れて入院したんかい」 「……まさか……。そんな事が出来るもんですか。現在附き添っているのは年老った女中頭が一人と、赤十字から来た看護婦が二人と、都合四人キリよ」 「でもお見舞人で一パイだろう」 「イイエ。玄関に書生さんが二人、今朝早くから頑張っていて、専務取締とかいう頭の禿た紳士のほかは、みんな玄関払いにしているから、病室の中は静かなもんよ。それでも自動車が後から後から押しかけて来て、立派な紳士が入れ代り立ち代り、名刺を置いては帰って行くの」 「フ――ン、豪気なもんだナ。ソ――ッと病室を覗くわけには行かないかナ」 「駄目よ。トテモ。妾達でさえ這入れないんですもの………。あの室に這入れるのは副院長さんだけよ」 「何だってソンナに用心するんだろう」 「それがね……それが泥棒の用心らしいから癪に障るじゃないの。威張っているだけでも沢山なのにサア」 「ウ――ム。シコタマ持ち込んでいるんだな」 「そうよ。何しろ旅支度のまんまで入院したんだから、宝石だけでも大変なもんですってサア」 「そんな物あ病院の金庫に入れとけあいいのに……」 「それがね。あの歌原未亡人っていうのは、日本でも指折りの宝石キチガイでね。世界でも珍らしい上等のダイヤを、幾個も仕舞い込んだ革のサックを、誰にもわからないように肌身に着けて持っているんですってさあ」 「厄介な道楽だナ。しかし、そんなものを持っている事がどうしてわかったんだ」 「それがトテモ面白いのよ。誰でも全身麻酔にかかると、飛んでもない秘密をペラペラ喋舌るもの………っていう事を歌原未亡人は誰からか聞いて知っていたんでしょう。副院長さんが、それでは全身麻酔に致しますよって云うと直ぐにね。懐の奥の方から小さな革のサックを出して、これを済みませんが貴方の手で、病院の金庫に入れといて下さいって云ったのよ。そうして全身麻酔にかかると間もなく、そのサックの中の宝石の事を、幾度も幾度も副院長に念を押して聞いたのでスッカリ解っちゃったのよ」 「フ――ン。じゃ副院長だけ信用されているんだナ」 「ええ。あんな男前の人だから、未亡人の気に入るくらい何でもないでしょうよ」 「ハハハハハ嫉いてやがら……」 「嫉けやしないけど危いもんだわ」 「何とかいったっけな。エート。胴忘れしちゃった。副院長の名前は……」 「柳井さんよ」 「そうそう。柳井博士、柳井博士。色男らしい名前だと思った。……畜生。うめえ事をしやがったな」 「オホホホ。あんたこそ嫉いてるじゃないの」 「ウ――ン。羨しいね。涎が垂れそうだ。一目でもいいからその奥さんを……」 「駄目よ。あんたはもう二三日うちに退院なさるんだから……」 「エッ。本当かい」 「本当ですとも。副院長さんがそう云っていたんだから大丈夫よ」 「フ――ン。俺が色男だもんだから、邪魔っけにして追払いやがるんだな」 「プーッ。まさか。新東さんじゃあるまいし……アラ御免なさいね。ホホホホ……」 「畜生ッ。お安くねえぞッ」 「バカねえ。外に聞こえるじゃないの。それよりも早く大連の奥さんの処へ行っていらっしゃい。キット、待ちかねていらっしゃるわよ」 「アハハハハ。スッカリ忘れていた。違えねえ違えねえ。エヘヘヘヘ……」 看護婦は眼を白くして出て行った。
私は情なくなった。こんな下等の病院の、しかも二等室に入院った事を、つくづく後悔しながら仰向けに寝ころんだ。体温器を出して見ると六度二分しか無い。二三日前から続いている体温である。……ああ早く退院したい……外の空気を吸いたい……と思い思い眼をつぶると、眼の前に白いハードルが幾つも幾つも並んで見えた。私にはもう永久に飛び越せないであろうハードルが……。 私はすっかりセンチメンタルになりながら、切断された股の付け根を、繃帯の上から撫でて見た。そうして眠るともなくウトウトしていると、突然に又もや扉の開く音がして、誰か二三人這入って来た気はいである。 眼を開いて見るとタッタ今噂をしていた柳井副院長が、新米らしい看護婦を二人従えて、ニコニコしながら近づいて来た。鼻眼鏡をかけた、背のスラリと高い、如何にも医者らしい好男子であるが、柔和な声で、 「どうです」 と等分に二人へ云いかけながら、先ず青木の脚の繃帯を解いた。色の黒い毛ムクジャラの脛のあたりを、拇指でグイグイと押しこころみながら、 「痛くないですな……ここも……こちらも……」 と訊いていたが、青木が一つ一つにうなずくと、フンフンと気軽そうにうなずいた。 「大変によろしいようです。もう二三日模様を見てから退院されたらいいでしょう。何なら今日の午後あたりは、ソロソロと外を歩いてみられてもいいです」 「エッ。もういいんですか」 「ええ。そうして、痛むか痛まないか様子を御覧になって、イヨイヨ大丈夫ときまってから、退院されるといいですな。御遠方ですから……」 青木は乞食みたいにピョコピョコと頭ばかり下げたが、よっぽど嬉しかったと見える。 「お蔭様で……お蔭様で……」 そう云う青木を看護婦と一緒に、尻目にかけながら副院長は、私の方に向き直った。そうして一と通り繃帯の下を見まわると、看護婦がさし出した膿盤を押し退けながら、私の顔を見て、女のようにニッコリした。 「もうあまり痛くないでしょう」 私は無愛想にうなずきつつ、ピカピカ光る副院長の鼻眼鏡を見上げた。又も、何とはなしに憂鬱になりながら……。 「体温は何ぼかね」 と副院長は傍の看護婦に訊いた。 私は無言のまま、最前から挟んでおいた体温器を取り出して、副院長の前にさし出した。 「六度二分。……ハハア……昨日とかわりませんな。貴方も経過が特別にいいようです。スッカリ癒合していますし、切口の恰好も理想的ですから、もう近いうちに義足の型が取れるでしょう」 私はやはり黙ったまま頭を下げた。われながら見すぼらしい恰好で……。「罪人は、罪を犯した時には、自分を罪人とも何とも思わないけれど、手錠をかけられると初めて罪人らしい気持になる」と聞いていたが、その通りに違いないと思った。手術を受けた時はチットもそんな気がしなかったが、タッタ今義足という言葉を聞くと同時に、スッカリ片輪らしい、情ない気もちになってしまった。 「……何なら今日の午後あたりから、松葉杖を突いて廊下を歩いて見られるのもいいでしょう。義足が出来たにしましても、松葉杖に慣れておかれる必要がありますからね」 「……どうです。私が云った通りでしょう」 と青木が如何にも自慢そうに横合いから口を出した。外出してもいいと聞いたので、一層浮き浮きしているらしい。 「新東さんは先刻から足の夢を見られたんですよ」 私は「余計な事を云うな」という風に、頬を膨らして青木の方を睨んだが、生憎、青木の顔は、副院長の身体の蔭になっているので通じなかった。 その中に副院長は青木の方へ向き直った。 「ハーア。足の夢ですか」 「そうなんです。先生。私も足が無くなった当時は、足の夢をよく見たもんですが、新東さんはきょう初めて見られたんで、トテも気味を悪がって御座るんです」 「アハハハハ。その足の夢ですか。ハハア。よくソンナ話を聞きますが、よっぽど気味がわるいものらしいですね」 「ねえ先生。あれは脊髄神経が見る夢なんでげしょう」 「ヤッ……こいつは……」 と柳井副院長は、チョット面喰ったらしく、頭を掻いて、苦笑した。 「えらい事を知っていますね貴方は……」 「ナアニ。私はこの前の時に、ここの院長さんから聞かしてもらったんです。脊髄神経の中に残っている足の神経が見る夢だ……といったようなお話を伺ったように思うんですが」 「アハハハハ。イヤ。何も脊髄神経に限った事はないんです。脳神経の錯覚も混っているでしょうよ」 「ヘヘーエ。脳神経……」 「そうです。何しろ手術の直後というものは、麻酔の疲れが残っていますし、それから後の痛みが非道いので、誰でも多少の神経衰弱にかかるのです。その上に運動不足とか、消化不良とかが、一緒に来る事もありますので、飛んでもない夢を見たり、酷く憂鬱になったりする訳ですね。中にはかなりに高度な夢遊病を起す人もあるらしいのですが……現にこの病院を夜中に脱け出して、日比谷あたりまで行って、ブッ倒れていた例がズット前にあったそうです。私は見なかったですけれども……」 「ヘエ、そいつあ驚きましたね。片っ方の足が無いのに、どうしてあんなに遠くまで行けるんでしょう」 「それあ解りませんがね。誰も見ていた人がないのですから。しかし、どうかして片足で歩いて行くのは事実らしいですな。欧洲大戦後にも、よく、そんな話をききましたよ。甚だしいのになると或る温柔しい軍人が、片足を切断されると間もなく夢中遊行を起すようになって、自分でも知らないうちに、他所のものを盗んで来る事が屡あるようになった。しかも、それはみんな自分が欲しいと思っていた品物ばかりなのに、盗んだ場所をチットモ記憶しないので困ってしまった。とうとうおしまいには遠方に居る自分の恋人を殺してしまったので、スッカリ悲観したらしく、その旨を書き残して自殺した……というような話が報告されていますがね」 「ブルブル。物騒物騒。まるっきり本性が変ってしまうんですね」 「まあそんなものです。つまり手でも足でも、大きな処を身体から切り離されると、今までそこに消費されていた栄養分が有り余って、ほかの処に押しかける事になるので、スッカリ身体の調子が変る人があるのは事実です」 「ナアル程、思い当る事がありますね」 「そうでしょう。ちょうど軍縮で国費が余るのと同じ理窟ですからね。手術前の体質は勿論、性格までも全然違ってしまう人がある訳です。神経衰弱になったり、夢中遊行を起したりするのは、そんな風に体質や性格が変化して行く、過渡時代の徴候だという説もあるくらいですが……」 「ヘエ――。道理で、私は足を切ってから、コンナにムクムク肥りましたよ。おまけに精力がとても強くなりましてね。ヘッヘッヘッ」 副院長は赤面しながら慌てて鼻眼鏡をかけ直した。同時に二人の看護婦も、赤い顔をしいしい扉の外へ辷り出た。 「しかし……」 と副院長は今一度鼻眼鏡をかけ直しながら、青木の冗談を打ち消すように言葉を続けた。 「しかし御参考までに云っておきますが、そんな夢中遊行を起す例は、大抵そんな遺伝性を持っている人に限られている筈です。殊に新東君なぞは、立派な教養を持っておられるんですから、そんな御心配は御無用ですよ。ハッハッハッ。まあお大切になさい。体力が恢復すれば、神経衰弱も治るのですから……」 副院長はコンナ固くるしいお世辞を云って、自分の饒舌り過ぎを取り繕いつつ、気取った態度で出て行った。 私はホッとしながら毛布にもぐり込んだ。徹底的にタタキ付けられた時と同様の残酷さを感じながら……。
二
午食が済むと、青木が寝台の隅で、シャツ一貫になって、重たい義足のバンドを肩から斜かいに吊り着けた。その上からメリヤスのズボンを穿いて、新しい紺飛白の袷を着ると、義足の爪先にスリッパを冠せてやりながら、大ニコニコでお辞儀をした。 「それじゃ出かけて参ります。今夜は片っ方の足が、どこかへ引っかかるかも知れませんが、ソン時は宜しくお頼み申しますよ。アハハハハハ。お妹さんのお好きな紅梅焼を買って来て上げますからナ。ワハハハハ」 と訳のわからない事を喋舌って噪ゃいでいるうちに、ゴトンゴトンと音を立てて出て行った。 青木の足音が聞えなくなると私もムックリ起き上った。タオル寝巻を脱いで、メリヤスのシャツを着て、その上から洗い立ての浴衣を引っかけた。最前看護婦が、枕元に立てかけて行った、病院備え付の白木の松葉杖を左右に突っ張って、キマリわるわる廊下に出てみた。 云う迄もなく、コンナ姿をして人中に出るのは、生れて始めての経験であった。だから扉を締めがけに、片っ方の松葉杖の所置に困った時には、思わず胸がドキドキして、顔がカッカと熱くなるように思ったが、幸い廊下には誰も居なかったので、十歩も歩かないうちに、気持がスッカリ落ち着いて来た。 私は生れ付きの瘠せっぽちで、身軽く出来ている上に、ランニングの練習で身体のコナシを鍛え上げていたので、松葉杖の呼吸を呑み込むくらい何でもなかった。敷詰めた棕梠のマットの上を、片足で二十歩ばかりも漕いで行って、病院のまん中を通る大廊下に出た時には、もう片っ方の松葉杖が邪魔になるような気がしたくらい、調子よく歩いていた。その上に、久し振りに歩く気持よさと、持って生れた競争本能で、横を通り抜けて行く女の人を追い越して行くうちに、もう病院の大玄関まで来てしまった。 その玄関は入院しがけに、担架の上からチラリと天井を見ただけで、本当に見まわすのは今が初めてであった。花崗石と、木煉瓦と、蛇紋石と、ステインドグラスと、白ペンキ塗りの材木とで組上げた、華麗荘重なゴチック式で、その左側の壁に「御見舞受付……歌原家」という貼札がしてある。その横に、木綿の紋付きを着た頑固そうな書生が二人、大きな名刺受けを置いたデスクを前にして腰をかけているが、その受付のうしろへ曲り込んだ廊下は、急に薄暗くなって、ピカピカ光る真鍮の把手が四つ宛、両側に並んでいる。その一番奥の左手のノッブに白い繃帯が捲いてあるのが、問題の歌原未亡人の病室になっているのであった。 私はそこで暫く立ち止まっていた。ドンナ人間が歌原未亡人を見舞いに来るかと思ったので……けれどもそのうちに、受付係の書生が二人とも、ジロジロと私の顔を振り返り初めたので、私はさり気なく引返して、右手の廊下に曲り込んで行った。 その廊下には、大きな診察室兼手術室が、会計室と、外来患者室と、薬局とに向い合って並んでいたが、その薬局の前の廊下をモウ一つ右に曲り込むと、手術室と壁一重になった標本室の前に出るのであった。 私はその標本室の青い扉の前で立ち止まった。素早く前後左右を見まわして、誰も居ない事をたしかめた。胸をドキドキさせながら、出来るだけ静かに真鍮の把手を廻してみると、誰の不注意かわからないが、鍵が掛かっていなかったので、私は音もなく扉の内側に辷り込む事が出来た。 標本室の内部は、廊下よりも二尺ばかり低いタタキになっていて、夥しい解剖学の書物や、古い会計の帳簿類、又は昇汞、石炭酸、クロロホルムなぞいう色々な毒薬が、新薬らしい、読み方も解らない名前を書いた瓶と一所に、天井まで届く数層の棚を、行儀よく並んで埋めている。そうしてソンナ棚の間を、二つほど奥の方へ通り抜けると、今度は標本ばかり並べた数列の棚の間に出るのであったが、換気法がいいせいか、そんな標本特有の妙な臭気がチットモしない。大小数百の瓶に納まっている外科参考の異類異形な標本たちは、一様に漂白されて、お菓子のような感じに変ったまま、澄明なフォルマリン液の中に静まり返っている。 私はその標本の棚を一つ一つに見上げ見下して行った。そうして一番奥の窓際の処まで来ると、最上層の棚を見上げたまま立ち止まって、松葉杖を突っ張った。 私の右足がそこに立っているのであった。 それは最上層の棚でなければ置けないくらい丈の高い瓶の中に、股の途中から切り離された片足の殆んど全体が、こころもち「く」の字型に屈んだままフォルマリン液の中に突っ立っているのであった。それは最早、他の標本と同様に真白くなっていたし、足首から下は、棚の縁に遮られて見えなくなっていたが、その膝っ小僧の処に獅噛み付いている肉腫の形から、全体の長さから、肉付きの工合なぞを見ると、どうしても私の足に相違なかった。そればかりでなく、なおよく瞳を凝らしてみると、その瓶の外側に貼り付けてある紙布に、横文字でクシャクシャと病名らしいものが書いてある中に「23」という数字が見えるのは、私の年齢に相違無い事が直覚されたのであった。 私はソレを見ると、心の底からホッとした。 何を隠そう私は、これが見たいばっかりに、わざわざ病室を出て来たのであった。午前中に同室の青木だの、柳井副院長だのから聞かされた「足の幽霊」の話で、スッカリ神経を攪き乱された私は、もう二度と「足の夢」を見まい……今朝みたような気味のわるい「自分の足の幻影」にチョイチョイ悩まされるような事になっては、とてもタマラナイ……とスッカリ震え上がってしまったのであった。……のみならず私は、この上に足の夢を見続けていると、そのうちに副院長の話にあったような、片足の夢中遊行を起して、思いもかけぬ処へ迷い込んで行って、飛んでもない事を仕出かすような事にならないとも限らないと思ったのであった。……私たち兄妹は、早くから両親に別れたし、親類らしい親類も別に居ないのだから、私の血統に夢遊病の遺伝性が在るかどうか知らない。しかし、些くとも私は、小さい時からよく寝呆ける癖があったので、今でも妹によく笑われる位だから、私の何代か前の先祖の誰かにソンナ病癖があって、それが私の神経組織の中に遺伝していないとは、誰が保証出来よう。しかも、その遺伝した病癖が、今朝みたような「足の夢」に刺戟されて、極度に大きく夢遊し現われるような事があったら、それこそ大変である。否々……今朝から、あんな変テコな夢に魘されて、同室の患者に怪しまれるような声を立てたり、妙な動作をしたりしたところを見ると、将来そんな心配が無いとは、どうして云えよう。天にも地にもタッタ一人の妹に心配をかけるばかりでなく、両親がやっとの思いで残してくれた、無けなしの学費を、この上に喰い込むような事があったら、どうしよう。 私は今後絶対に足の夢を見ないようにしなければならぬ。私は自分の右足が無いという事を、寝た間も忘れないようにしなければならぬ義務がある。
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