全霊の真相 ――鼻の動的表現(九)
鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。 ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。 その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。 「妾はもうとても皆様の御噂にかかるような顔じゃ御座いませんよ。毎日鏡を見るたんびに親を怨んでいるので御座いますよ」 と如何にも口惜しそうに云っていても、鼻ばかりは正直に、 「そう云っとかないと悪いからね」 という気持ちをうごめかしているのであります。 世間への義理や家内への示しのため、親類会議の真中へ一人息子を呼び出して、 「久離切っての勘当」 を云い渡す親達の怒った眼と正反対に涙ぐましい鼻の表現――そこにすっかり現われている千万無量の胸のうちは、その座にいる人々をして道理至極とうなずかせずには措きません。 「あの後家さんはいつも呑気そうに気さくな事ばかり云っては人を笑わしているけれど、流石にどことなく淋しそうな顔をしているわね」 と界隈の噂に上るのは、その後家さんの鼻の表現が他人にうつるからであります。心の貞節や人知れぬ涙を決して人に見せまいとする悩みから湧くこの世の淋しさが、まざまざと鼻に現われて来るからであります。 情ない時、しくじった時、困った時、又はギャフンと参った時なぞは、その気持が特に著しく鼻にあらわれるものであります。 「ナアニ。何でもないよ。アハハハ」 と笑いながら、鼻はすっかりしょげている。 「人間到る所青山ありさ」 なぞ達観したような事を云いながら、鼻だけはゲッソリして白茶気ている。甚だしいのになると、何だか水洟でもシタタリ落ちそうで、今些しで泣き笑いにでもなろうかという、極度に悲観した心理状態を見せているものさえあります。 かようにして眼や口なぞが如何に努力をしても、その人間の本心から湧き出して来る感情が鼻の上に現われるのばかりは瞞着する事が出来ないように出来ているのであります。 同様に鼻はその本人の真底の意志を少しも偽らずに表明しているものであります。 意志がグラグラしている以上、鼻は如何なる場合でも決意の閃きを見せませぬ。如何に威勢よく飛び出しても、心から行こうという気がなければ鼻は必ず進まぬ色をしているのであります。 惚れたお方を婿殿にと図星をさされた娘がテレ隠しに、 「妾あんな人はいや」 と口では云いながら飛び立つ思いを見せた鼻の表現がある――一方に嫌な男の処へ行けという親の前に両手を突いて温柔しく、 「私はどうでも」 という進まぬ鼻の表情……仮令それが悲し気に痛々しくなってやがてホロリと一雫しないまでも、ここを見損ねた親たちや仲人は、あったら娘を一生不幸の淵に沈淪させる事になるのであります。 「オッと来り承知の助。さあさあ何でも持って来い。すっかり俺が片付けてやる」 といった程度の安請合いに対する誠意の有る無しは、その眼よりも口よりも真中でニヤニヤ笑っているところに最もよく現われていなければなりませぬ。 「何様も御馳走様になりまして。お珍らしいものばかり。イヤ頂戴致します」 と云いながらちっとも頂戴する気にならない気もちは、細く波打つ眼とおちょぼ口との間にありありと見えすいているものであります。 男と死ぬ約束をして奉公先からそれとなく暇乞いに来た娘が帰るさに、 「身体を大切にしておくれ」 と云われて、 「アイヨ」 と笑った眼つき口もと。その間に云い知れぬ悲しい決意を示す鼻の表現……それがそれとなく気にかかって、 「ああ。無分別な事でも仕出かしてくれなければよいが」 という物思い……。 その他「重々恐れ入りました」という奴の鼻が「今に見ろ」という気ぶりを見せ、「貴方はおえらいですよ」と賞める鼻が「賞めたい事はちっともない」と裏書きし、「妾もうお芝居は見飽きちゃったのよ」と見栄を言いながら実は行きたい鼻の先のジレンマなぞ、数え立てると随分あります。 鼻の表現がその本人の意志を偽らないと同様に、その本人の性格を表現する場合でも決してその真相を誤らないのであります。 性格が愚鈍である以上、その鼻の尖端に才気の閃きは決して見る事が出来ないのであります。いくら謹み返っていても性得ガサツ者である限り、鼻は何となくソワソワしているものであります。 「もう私は今度でこりごりしました。ふっつり道楽を思い止まりました。ふだんの御恩がわかりました。何卒今度切りですから、助けると思って今一度お金を頂戴」 と両手を突いて涙をこぼしている息子の鼻が、昔の通りニューとしている。こんなのはテッペンから、 「糞でも喰らえ、この野郎。今度切りが何遍あるんだ。トットと出てうせろ」 とたたき出されます。 「何だ喧嘩だ。喧嘩なら持って来い。俺が相手になってやる。篦棒めえ、誰だと思っていやがるんだ」 と大見得を切って立ち上っても、臆病者の鼻の表現は必ず魘えた色を見せております。 小田原評定の場合なぞ、真中へ出て理屈をこねまわしている鼻が案外無責任らしく見える一方に、隅っこで黙って聞いている鼻が却って頼もし気に見える事なぞはよくあります。 こんな例は挙げたら限りも無い事でありますからこれ位で略します。 いずれにしても、鼻が如何に忠実に各種の表現の主役をつとめているものであるか。その補助機関が如何に誤魔化そうとしても鼻の表現ばかりは偽る事が出来ないものであるという事は、右に挙げました実例だけでも一通り説明し尽されている事と信じます。 極めて大掴みに考えて見ますと、鼻以外の表現はその人の上っ面の表現だけを受け持っているもののようであります。偽ろうと思えば偽り得る範囲に限られていると見て大した過ちは無いようであります。 それ以外のものは全部鼻が受け持って表現していると考えてよろしいようで、しかも又この任務は断じて奪う事は出来ないのが原則と認めて差し支えありませぬ。手で撫でても、ハンケチで拭いても、又は別誂えの咳払いをしても、鼻の表現ばかりは掻き消す事も吹き払う事も出来ないのであります。 よく出鱈目や茶羅鉾を云って他人を瞞着しようとする時又は気がさしたり図星を刺されたり素ッ破抜かれたりした場合なぞに、手が思わず鼻の処に行ったり又は何となくエヘンが出たりするのは、鼻の頭の表現が無意識に気にかかるからで、何とかして誤魔化さねばその事実を鼻に裏書きされるか又は反証を挙げられそうな気もちから起った反射運動に他ならないのであります。
表現の受け渡し ――鼻の動的表現(十)
▼鼻の表現は眼にも止まらず心にも残らぬ。 ▼しかも不断にその人の真実の奥底まで表現してソックリそのまま相手に感銘させている。 ▼そして鼻自身は知らん顔をしている。 ▼その相手の感銘にこっちの鼻以外の表現で瞞したり乱したりする事が出来る。 ▼しかし鼻の表現だけは偽る事も誤魔化す事も出来ない。 この事実の如何に一般に認められていないかという事は驚くべきものがあります。それは恰も一般人士が常に自分の鼻に導かれて歩行しながら、些しも鼻の御厄介になった覚えはないと考えておられるのと同比例しはしまいかと考えられる位であります。 同時にこの偽り得る表現と偽り得ない表現とが如何に入れ交り飛び違って日常の交際に活躍していることでしょうか。舌筆に尽されぬ位複雑多角形な人類生活の各種の場面に出合った人々の、形容も出来ぬ位込み入った各種の表現が、如何に巧みに、或いは如何にゴチャゴチャと刹那的に行われつつある事でしょうか。そうして如何なる反応と共鳴とを交換しつつある事でしょうか。 「こんな高価い帯地が買えるものかね」 と番頭さんには云いながら、「欲しいわねえ」という鼻の表現を御主人に振り向けられます。御主人はさり気なく葉巻の煙をさり気なく吹き上げながら、 「そうだなあ」 と鼻だけニッタリとさせて、「ネーアナタ」を期待しておられます。序に「些し困るけどお前のためなら」という恩着せがましい表情を鼻の御隅に添え付けておられる……といったような場面はちょいちょい拝見するようであります。この表現を見分けるか見分けぬかが又番頭さんの腕前の分かれるところで、この潮合に乗りかけて、 「その代り柄や色合はしっかり致しておりますから却って御徳用でゲス。第一見栄が他のものとは全く御覧の通り違いますから……近頃ではどなた様も消費経済とかいう思召で却ってこのようなのが、エヘヘヘヘヘ」 とか何とか思い切って踏ん込めば、最後の「ネーアナタ」と「止むを得ぬ」とを同時に占領する事が出来るのであります。 「あなたの御蔭で私は起死回生の思いを致しました。御鴻恩は死んでも忘却致しませぬ」 「どう致しまして。畢竟あなたの御運がいいので……何しろ結構で御座いました」 というような会話が如何にもまことしやかに取り換わされます。ところがお礼を云われた方では何だか物足りないような気がしている。 「あいつどうも本当に有難がっていないらしい。世話をして見ると案外軽薄な奴に見える。一寸一杯喰わされたかな」 という一種の不愉快と不安が湧いている。そのような場合はきっと相手の鼻が衷心からの感謝の意を表明していないためで、 「こう云っときゃあ喜ぶだろう。又頼む時にも都合がいいから」 位の有難さしか感じていないその熱誠の度合いがそっくりそのまま鼻の頭に顕われていて、その眼や口が表現している熱度よりも著しく低い度合を示しているからであります。 「お宅に伺いますとついのんびりして了うので御座いますよ。ほんとに気が置けなくて……それにまあいつも晴々した見晴らしで御座いますこと……オヤ坊ちゃんおとなしですこと……一寸入らっしゃい、抱っこしましょう」 と口では云いながら、内心実はつまらない。長居したくない。ほんの義理で来ているので、うちにはまだ用事がドッサリあるとノツソツしていると、眼や口はニコニコしながら鼻だけどことなくソワソワしております。 デリケートな相手になると直にこれに感じて、ちっとも落ち着かぬまますっかり落ち着いたふりをして、 「ホントニ御ゆっくり遊ばせな。お久し振りですから」 とか何とかバツを合わせながら障子の蔭で鼻の頭をイライラさせつつ、急いでゆっくりとお茶やお菓子を出します。 双方のびやかにお茶を嘗てお菓子を嗅いで眼や口を細くして語り合いながら、お互いの鼻同志はとっくに気がさし合ってウンザリしている。いい加減シビレが切れたところで、 「アノ……では……又」 「アラまあお宜しいじゃ御座いませんか」 と立ち上って玄関へ出る。ここで初めてどちらもホッとした鼻の表現を見せ合いながら、イソイソと出て行かれる。一方はサッサと引込まれるといったような御経験は、特におつとめの些ない、率直を重んぜられる吾が日本の御婦人方にとってお珍らしいであろうと考えられます。 田舎から出てきた叔父さんが天下泰平の長逗留をする。これに閉口した若夫婦が、 「お国のお子さん方は淋しいでしょうね」 と親切そうに云う時の鼻の表現を見損ねた叔父さんは、 「有難う。そのうちに学校が済んだら三人共呼び寄せるかね」 と飛んでもない感謝を表明する事になります。その時に見合わせる若夫婦の鼻の表現……。 「死にたい、死にたい」 と云いながら死にたい気ぶりも見えぬ姑の鼻。どうぞそう願えますなら――と云いたい一パイのところを、 「アレ、又あんな事。後生ですからおっしゃらずに」 と打ち消す嫁の取りなし顔の鼻の表現。そこに起こる明暗二た道の鼻の表現の撫で合いとつつき合いは、あまり有りふれ過ぎております。 寧ろ姑の方でニヤニヤ笑いながら、 「私はノラ見たいな女が好きだよ」 というキルク抜式の鼻の表現――これに対するお嫁さんがまたエヘヘンと云う見得で、 「私は矢張り乃木大将の夫人式が本当と信じますわ」 と応えるサイダ抜式鼻の表現――この対照の方が表現派向きかも知れませぬ。
鼻と実社会 ――鼻の動的表現(十一)
こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。 この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。 「おれがこんなにお百度を踏むのに、彼奴は何だって賛成しないのだろう」 「妾がこれだけ口説いているのに、あの旦突は何故身請してくれないのだろう」 「親仁はどうして僕を信用してくれないんだろう」 「彼奴威かしても知らん顔していやがる」 なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか…… 「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」 という意気地無しの土性骨。 「奥様がおかわいそう」 という居候のねらい処。 「一ひねりだぞ」 と睨む空威張。 「会いとうて会いとうて」 という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。 しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動――そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。 「資本家を倒すのは人類のためだ」 と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求―― 「労働運動は多数を恃む卑怯者の群れだ」 と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という陋劣な本心―― 「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」 という物欲しさ―― 「本大臣は充分責任を負うております」 という不誠意―― どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。 鼻の表現は随分遠方からでも見えるらしいのであります。 議会壇上に立って満場の選良に対して、 「本大臣は本日ここに諸君に見ゆる光栄を有する事を喜ぶ」 とか何とか音吐朗々とやっております。然るに内心では、 「ヤレヤレ又馬の糞議員共が寄り集まった。此奴等と見え透いた議論をしなければ日が暮らされぬのか。要するに余計な手数なんだが、馬鹿馬鹿しい」 という考えでおりますと、不思議に議場の隅に生あくびを噛み殺す奴が出て来るのであります。御同様に議員さんが立ち上って、 「国家のために政府案に賛成するのだ」 と拳固をふりまわしているのを見ると、 「これも役目だから」 という気持がスッカリ鼻の表現をだれさせているために、「国家のため」という言葉が根っから感動を与えないのがあります。 数万の聴衆を飽かせない大雄弁家でも、 「とにかくおれの演説はうまいだろう」 という気もちを鼻の頭にブラ下げて壇を下れば、人々の頭には演説の趣旨は一つも残らずに只、 「うまいもんだなあ」 という印象だけが残ります。うっかりすると「演説使い」だとか「雄弁売り」――又は時と場合では「偽国士」とか「似而非愛国者」とかいう尊号を受ないとも限りませぬ。 喰い詰めた宗教家はよく十字街頭に立ちます。鬚だらけの穢い姿に殊勝気な眼付、口もとして、 「アア天よ。この恵まれざる人々を……」 なぞやっております。しかしその下から、 「皆さん、欲をお離れなさい。そして私に御喜捨をなさい。私が神様に取次いで上げますから」 という情ない心境をその日に焼けた鼻に表現しておりまするために、人々に嘲笑冷視を以て迎えられております。 彼等はこれを知らずして只徒らに天を仰いで空しく世道人心の頽廃を浩歎しているのであります。思い切って鼻を往来の塵に埋めて、 「どうぞや、どうぞ」 と言う乞食よりも賢明でないものである事を同時にその鼻が表明しているのであります。
悪魔の鼻 ――悪魔式鼻の表現(一)
こうして鼻の表現は絶対に偽る事は出来ないものでしょうか。どんなにうまい口前で如何ように眼や口を使いわけても、それが心にもない事である限りいつも鼻の表現に裏切られていなければならぬ筈のものでありましょうか。喜怒色に表わさずというモットーを文字通りに守り得る程の社交的人物でも、鼻ばかりは常に喜怒を表わしていなければならぬ筈のものでありましょうか。 フットライトの中に浮き出してあでやかに笑いまわる舞姫の鼻の表現のわびしさは、絶対に拭い除ける事の出来ないものでしょうか。展望車の安楽椅子に金口を輪に吹く紳士の鼻の淋しさは、何とも包む術はないものでしょうか。リモシンのフクント硝子の裡に行く人をふり返らすボネットの蔭からチラリと見える白い鼻の愁い、悲壮な最後を遂げた名士の棺側に付添いながら金モール服揚々たる八の字鬚の誇り……これ等の表現は絶対的に不可抗力のあらわれとして諦められなければならないものでありましょうか。 鼻の表現は眼や口なんぞと同じように支配する事は絶対に出来ないものと決っているものでありましょうか。 もしこの鼻の表現を自由自在に使いこなして、如何なる出鱈目でも嘘っ八でも決して他人に看破されない位に充実した鼻の表現でもって、その真実である事を裏書きして行く事が出来るものがいるとしたら、その者は如何に恐るべき成功を世渡りの上に博する事が出来るでありましょうか。 如何なる残忍酷薄な奴でもその鼻の表現に、自由自在に熱情の光を輝かす事が出来るものとしたならば、その人間の運命は如何に光明に満ち満ちたものとなり、その人間以外の社会生活は如何に暗黒な不安の裡に鎖される事でしょうか。 ここに「悪魔の鼻」と題しましたのは、この鼻の表現をある程度まで自由に支配しうる種族が人間社会にかなり沢山に存在しているのを総括して研究し批判して見たいためであります。 一面から申しますれば、眼付きや口もとの表現で他人を欺き得るものはまだ徹底的に欺き得るものとは云えない……悪魔の名を冠らせるに足りない。鼻の表現に依って人を欺き得たもの――即ち全然虚偽の表現を徹頭徹尾真実の表現と見せかけて他人を心から感動せしめ得るものこそ真の悪魔でなければならぬという見方から、かように悪魔式鼻の表現なるものを仮定した次第であります。 先ず悪魔の鼻の研究に先だって是非とも研究しておかなければならぬ鼻が一種類あります。それは名優と称する人種の鼻であります。
名優の鼻 ――悪魔式鼻の表現(二)
昔から名優と名を付けられた程の人々は、その身体のこなしや眼や口の表現は勿論、鼻の表現までも遺憾なく支配し得たものと認め得べき理由があります。 泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から眉宇にかけて暗澹たる色を漲らし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気返る。悠々たる態度の裡に無限の愁いを含ませ、怒気満面の中に万斛の涙を湛え、ニコニコイソイソとしているうちに腹一パイの不平をほのめかす。 これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、恰も無線電信のそれの如くであります……。しきりにシカメ面をして涙を拭う真似をしていながら、鼻だけはノホホンとしているために見物には何の感動をも与え得ないヘッポコ役者の表現法とは、その根底の在り処が違うのであります。 彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切ってしまう――その境界になり切ってしまう――という芸術界の最大の標語がそれであります。 その人物になり切ってしまう――見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで終う。その持ち役の人物と扮装と科白と仕草とに自分の本心を明け渡して終う。 その境界になり切ってしまう――すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。
実在する悪魔 ――悪魔式鼻の表現(三)
然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や纏頭を取っているものがザラにいるのには驚かされるのであります。 その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家(政治家でいて横着でないものはあまりありますまいが、ここでは仮りに正真正銘の憂国慨世の士と対照してかく名付けたのであります)とか名づけられる種類であります。この他その商売商売に依っていろいろの悪魔性を帯びた者がいくらもあるに違いありませぬが、ここにはこの四つを代表的なものとして取り扱って見る事に致します。 彼等がその鼻の表現を使いわける代価として望むものはいろいろあります。男女の貞操を手はじめに、金銭、貴金属、衣服、財産、その他何でも……わけても横着政治家となりますとずっと狙い処が大きくなって、名誉権勢、地位人望、利権領土、その他あらゆるものを鼻の表現で釣り寄せようとするのであります。 毒婦とか色魔とかが異性を操る事の自由自在さは全く驚くべきものがあります。何方にしても嘘とわかっているのにどうしてあんなに根こそげ欺されるのであろうと、さながらに魔術のように感ぜられるのであります。 これには引っかけられる側の自惚れや色気や意志の弱さなぞもありましょう。又は引っかける側の弁才や容色もありましょう。しかしその中にも働きかける側の表現の上手なこと――わけても鼻の先の気分の扱い方の巧なために、受け身側に徹底的の感動を与えるためであることも無論であります。 「それでは私に死ねとおっしゃるのですね」 と云うと、相手の異性は真青になってしまうのであります。これはその鼻が本当に死にたいという切り詰まった表現をしていると同時に、あなたより他に思う人は無いという気心を裏書きしているからであります。同様に、 「あなたとならばドコマデモ……」 という月並みな文句で相手をグンニャリトロリとさせて終うのは、その秋波が五分もすかさぬ冴え加減を見せると一所に、その鼻の表現がその場合にふさわしい真実味をあらわしているからであります。 これが少々ハイカラなのになって来ると、 「あなたを恋してはじめて私の卑しいすべてが私をさいなみ初めました」 と告白するその鼻が、その謙遜と誠意とをもって自己のアラを蔽い、且つ相手の同情を動かすべく如何につつましいつらさを示しているか。 「私のようなもののためにあなたのような貴いお美しい方の生涯を傷つけるという事はあまりに残酷だと思うと、つい気が引けて……」 と恥じらいを含んだ鼻の表現が、如何に相手の気を引き動かすに充分であるか、そうしてその自尊心をゾッとするまでに満足させるか……。
毒婦、色魔、悪党 ――悪魔式鼻の表現(四)
敵は本能寺にあり、相手の生血を吸い取り得れば――相手を丸裸になし得れば――又はどこかに売りこかし得れば、あとは野となれ山となれ――泣こうが喚めこうが発狂しようが、どこを風が吹くという鼻の表現で取り付く島もなくふり捨ててしまうのであります。 毒婦や色魔は世間を摺れ枯らした結果、すべてに対して捨て鉢であると同時に高を括っているのであります。すべてに対して絶対に冷やかな態度を執り得ると同時に、その相手に対して寸分の未練も残さないのであります。鵜の毛で突いた程でも未練があればそれが直ぐにこちらの弱味……鼻の表現の変化の妨げ……になる事をよく心得ているので、いつ何時でも「嫌なら嫌でいい」という態度を取り得るまでに腹を締めているのであります。 ですからすべての執着や気がかりを離れて、どんな気もちにでもなる事が出来るのであります。名優と同じように、その境界や場面のうちで最も相手の弱点を捕え得べき感情や意志を腹の底から表現する事が出来るのであります。真そこから泣き、笑い、怒り、怨み、拗ね、甘ったれ、しなだれかかり、威し、すかし、あやなす事が出来るのであります。 悪党とても同様であります。彼等は実世間を舞台とし背景として名優の鼻の表現法を行うものであります。 彼等は無言の裡に満腔の涙をその鼻の表現に浮き上らせて、相手の真実の感銘を誘います。彼等は物事が如何に思う壺にはまっても、そんな事はこっちの本旨ではないという、冷然たる鼻の表現を示し得るのであります。 「おれを引き渡すなら引渡せ。そうなりゃあ貴様も地獄の道連だぞ」 と度胸をきめた鼻の表現の物凄さは、大抵の向う見ずでも震え上らせずにはおきませぬ。 「思いもかけぬ御尋ね。何と申開きを致してよいやら。露おぼえの無い事……」 とひれ伏した鼻の表現の神妙さ。一通りのお役人なら一杯喰わされるにきまっております。 彼等の偉大なものになると、泰平の世に何十万石の知行とか何万両の財産とかを手に入れるため、十数年もしくは数十年の間忠実無二の性格を鼻の頭に輝かしつつ明かし暮らす事が出来るのであります。明日こそ毒殺してくれようという当の相手の主人の前に出て、「恐悦至極」の表現を鼻の頭に捧げ奉る事が出来るのであります。 本心を殺して時節を見る事を知らずに正面から諫言をする一刻者の鼻の表現のうちに当然含まれている良心の輝き、主人に対する怨恨、不平、さかしら振り、そのようなものがいろいろ主人の反感を買うのとうらはらに、悪党たちの柔和な、へり下った鼻の表現が着々として成果を収めて行くのは無理もない事であります。 こうして回を重ねた揚句、事遂に発覚して首の座に坐って、いよいよこれで一代記の読み切りという処まで来ても、彼等悪党は自若として鼻の表現をたじろがせずに一命を終るものすら珍らしくないのであります。
横着政治家 ――悪魔式鼻の表現(五)
横着政治家も亦この例に洩れません。殊にマキャベリー式政治家に鼻の表現を使いわけるタチの人が多いようであります。 この種政治家は事実でもない事を事実として吹聴して人を驚かしたり、確信も無い事を実際に出来るかのように世間に認めさせたりしなければならぬ場合に数限りなく出合うために、つい有意識無意識の間に鼻の表現の使い方をおぼえ込んでしまうのであります。 老人に会えば「旧式の教育法を復活しない限り国家は滅亡の他ない」と悠然として長大息し、青年と席を同じくしては「日本文化の時代遅れ」を慨然として痛論します。軍人に出会って、世界の帝国主義が事実上に高潮しつつある事を厳然として指摘するかと思えば、社会主義者の顔を見ては、人類社会に於ける形而上と形而下のすべてが宗教、政治、芸術、経済の各方面に亘って民衆化し共産化しつつある事を決然として断言します。 みんなを一所に聞いていると何の事やらさっぱり見当がつきませぬが、相手は皆一人一人に本当だと思って傾聴し感激し共鳴しているのであります。つまり本人はその都度別の人間になって衷心からそう信じて云うから、鼻の頭までも熱誠と確信の光りを帯て来るので、これに影響された相手は、如何にもあの人は感心だ。話せる人物だ。えらいお方だと思うようになる。そこが又横着政治家御本人の狙うところなのであります。 さらに大嫌いの先輩に腹の底からの好意を示し、真誠無双の国士に白い眼を見せ、資本家のノラ息子の人格に絶大の敬意を払い、失脚者の孝行息子を無下に軽侮した鼻の表現を以て迎える。又は有力家の前に堂々たる容儀を整え、金銭の奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。 彼等は幾度か身の毛も竦立つ浮き沈みに出合った揚句、所謂「度胸一つがすべての資本」という悟りを開いております。あらゆる失敗をやってあらん限りの恥を掻き上げた結果、羞恥心が思い切り摺り切れております。
一、すべてに対する未練、執着、気がかり、気兼ね等から超脱する事
一、すべてを冷眼視し得る度胸で本心のゆらめきを圧迫し去る事
一、如何なる俄作りの感情、お座なりの意志、間に合わせの信念でも直に本心一パイに充実させ得るように心掛ける事 といったような術を天然自然と会得しております。猫を冠るは愚かな事、獅子でも豚でも蛙でも蛇でも、何の皮でも自由自在に脱けかわり被りかわる事が出来るのであります。 こうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。 どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。 ここに於て……
……鼻の表現はその本心や性格の色彩を現わす。故にその本心や性格を変化させ得るものは、その鼻の表現を支配する事が出来る……
という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。 この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは直に名優となる事が出来るのであります。同様に実世間の舞台面で修得したものは直に悪魔式鼻の表現の大家、毒婦、色魔、悪党、横着政治家となり得るのであります。そうしてこの程度まで鼻の表現を研究し得れば、最早所謂、機略縦横、神出鬼没の行き止まりとして世間から一種の敬意を払われるので、しかもこれを世渡りの秘訣、処生法の免許皆伝と心得ている人が又頗る多いように見受けられるのであります。 この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は滔々として動き流れて行くのであります。 しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。却って一つの大きな邪道と見るべきものである事をここに特に力を入れて闡明しておきたいのであります。 鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。 鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る……俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ些なくないのであります。
正表現、邪表現 ――悪魔式鼻の表現(六)
このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を弄びつくすのでありますから、この人等をこそ悪魔と呼ぶべきではありますまいか。何等社会に与かるところなくして、社会からあらゆるものを奪い取るからであります。 その中でも偉い奴になると栄燿栄華心に任せ、権威名望意に従わざる無く、上は神仏の眼を眩まし、下は人界の純美を穢し去って、傲然として人間の愚を冷笑しつつ土の中に消え込むからであります。これを羨みこれを慕う凡俗の群は、踵を揃えてこれに学びこれに倣って、万古に尽きせぬ濁流を人類文化の裡面に逆流させるからであります。 それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、左様ばかり行かぬから困るのであります。悪魔式の鼻の表現は矢張り悪魔式鼻の表現で、どうしても正しい鼻の表現とは違うのであります。如何に巧みに、如何に徹底的に装っていても、必ずはっきりと見分けのつくところがあるのであります。 鼻の表現研究の面白味はここに到って益高潮して来るのであります。 最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。 前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。 それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、兎にも角にも鼻の表現を支配し得る人々で、中には鼻の表現法を悉く飲み込んでいる人もあるそうであります。そんな人は先ず世間では珍らしい方でありましょう。 ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。 だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。 個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。而して真情の流露する時、至誠の発動するところ、必ずや全身のすべての表現の渾然たる一致を見なければならぬ筈であります。 本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。 衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。 こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。 すべての表現の渾然たる一致――それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ――この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。 この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから咎むべきではありませぬが、その他の人々は遺憾ながら知恵の果を盗み過ぎて食傷した猿と評する外ありませぬ。 この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに止まるので、まだ本当に本心や性格を改め得るとは云えませぬ。況んや持って生れた魂とか根性とかいうもの――ハイカラな言葉で云えば、大にしては国民性、小にしては個性と名づけられているもの――即ち鼻の表現のあらゆる変化の根柢を作っているそのものまでも転換し支配し得るわけではありませぬ。それ程左様に深刻偉大な鼻の表現の研究者とは云えないのであります。 如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心――悪魔以上に廓然冷々たる態度を以てこれに対すれば、その底の底に悪魔らしい明智と胆力に対する確信の誇りが浮き上っているのがわけもなく見え透くのであります。さもなくとも普通人でも冷静な気持でこれに対するか、又は初めから呑んでかかるかすれば、大抵この種の鼻の表現使用者の腹の底――世間人間を馬鹿にし切っている気持ちがありありと見抜かれるのであります。況んや万に一つにも鼻の表現法の真髄に体達した人にこれ等の悪魔式鼻の表現が出会ったならば、すぐに根こそげ本性を見破られるでありましょう
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